現実で幸せになります
アンには悩みがあった。
アンは平民だが生家が老舗と言われる服飾店他いくつもの商店を営んでいるためかなり裕福な生活をしてきた。没落した名ばかりの貴族よりよほど恵まれた暮らしだ。人脈も広く社会的地位も高い。
知識は宝であり、教育は金に勝るという家訓の元、幼い頃からしっかりと教育を受けてきたので、己の立ち位置もよく理解していた。身分って面倒くさい、などと思ってはいても口に出したことはない。形骸化しているところもあるとはいえ、階級社会に生きている。平和に生きていきたいのなら口を噤むことも大切。
それが理解、実行できるほどにはアンは賢かった。
実際に2年前に卒業した学校では主席を争う才媛だった。教師の覚えもよく何名かは今でも連絡を取り合う関係を築いている。知り合いの間では貴族に生まれていたら政の中枢に食い込むことも夢ではないと言われていた。本人にそこまでの熱意はなく夢は夢のまま。実家近くの役所の職員として真面目に働いている。不満はない。
繰り返す。
人生できるだけなだらかに、平和に生きていきたいのである。
「ほんっ、とうに申し訳ないっ」
目の前で座りながらではあるが深く頭を下げる父親よりも年上の男を前にアンは気の抜けた声を出すほかなかった。
「はあ…」
「こちらからごり押ししたにも関わらずこちらの事情でなかったことにしてくれなど、バカにしているにもほどがある。そう思われて当然だ」
「そうですね」
猫を被る必要もなければ気を遣う相手ではないのでアンは淡々と返した。話を聞くために着席しているだけでも褒めてもらいたい。
はっきり言おう。
アンはこの男が嫌いだ。お互いの平穏のために遠くで暮らしましょうと提案したいくらいに嫌いだ。
体面などないとばかりに謝罪しているがパフォーマンスであることがひしひしと感じられる。観葉植物で視界を遮られている特等席ではあるが空間は隔てられていないので人の目は多い。しかも声を抑えようとしていないのだ。注目してくださいと言わんばかりである。
ここは町にあるちょっとお高いレストラン。お行儀の良い方々もいれば背伸びした庶民も訪れる場所。つまりたくさんの人に見られておかしくない。
そんな中でここまでやっているんだと誠意ある行動する人格者アピールが鬱陶しい。
平日の真昼間。午後の休憩に入ろうかという頃、約束もなく突然やって来て有無を言わさず連れ出された身としては茶番もいいところ。
支払いはこちらで持つと言われたのでここぞとばかりに注文したお高いお茶を二口すする。美味しい。
「つまり、婚約を白紙にすると」
「ああ、その通りだ」
ようやく上半身を起こした男がアンを視界に映した。態度や表情を見れば真摯な紳士なのだが腹の内がわかっているのでたぬきだなとしか思わない。
「エドワードもそれでよしとしていると?」
「ああ。そもそも父親である私が無理強いした婚約だ」
やり取りから分かる通りエドワードは男の息子でアンの婚約者だ。アンより2つ年下で現在は学生。
末っ子ゆえ無自覚に甘えたなところがあり、だからこそ公私ともにしっかりしているお嬢さんとの縁を求めていた。そこに白羽の矢が立ったのがアンである。生家は多岐に渡る商売をしており経営は順調。本人は学生の頃から才媛と名高く将来を有望視されていた。性格も悪くない。
そこを見込まれ2年前、卒業の直前に頼み込まれて婚約に至った。
もちろん顔合わせと数回のお付き合いを経て相性が悪くなかったことは確認済み。アンはせっかくのご縁だからという気持ちだったが、エドワードは、というより父親は何がなんでもという並々ならぬ熱意をほとばしらせていた。
一般市民ではあるが資産家の父親として、少し抜けたところのある三男の将来を心配していたのだろう。親心である、と思うことにしている。
そこまでしたというのにここに来て婚約白紙ときた。
「理由を聞かせていただいても? 婚約も契約。それを一方的に破棄したいとおっしゃるのですからそれなりの理由がありですよね。それともこちらに非がございましたか」
変わらぬ調子で尋ねるともちろんだともと男は語った。
「君に悪いところなどない。あいつにはもったいないくらいできたお嬢さんだ。だが、私は仕事に関しては厳格だが、我が子に対しては甘いと思っている。制限はあるがのびのびと自由に育ち、少しでいいから私の仕事を手伝ってもらえたら嬉しいと」
いい父親なのだと言いたいらしい。
「エドワードは内気なところがあるため良い暮らしをしていけそうな相手をこちらで見繕った。だが、望み望まれる相手ができたのなら親のつないだ縁よりも自分の幸福を選んでほしい。そう、思っている」
アンは再び喉を潤した。冷めても美味しい。
高い茶葉は難しいかもしれないが淹れ方を教授願うことはできないだろうか。どうせ飲むなら美味しく飲みたい。
「気遣いができる優しい子だ。もしかしたら君に言い出せていないかもしれないがエドワードに恋人ができてね。隣のご領主の縁者でエドワードの1つ年下の可愛らしいお嬢様だ。2人が並んでいると絵になり、とてもお似合いだ。互いを想い合っているのは一目瞭然でね。父親としてはこの恋を叶えてやりたい」
「――なるほど」
アンは音を立てることなく優美な所作でカップをソーサーに戻す。
「浮気相手と結婚したいので別れてほしいと」
「……苦い表現だがそちら側から見るとそうなるな」
男のこめかみがぴくりと動いた。
歯に衣着せぬ物言いに内心腹を立てているのだろうが表に出さない良識はあったらしい。どのように美辞麗句を並べたところで客観的に見てどちらに非があるかは明らか。
「もう一度うかがいますがエドワードも承知しているのですね」
「ああ。いいお相手に浮かれているくらいだ」
「本人が同席するのが筋ではございませんか」
「それに関しても謝るしかない。どうにもお嬢様が離してくれなくてな。輝く金髪に空を映したような青い瞳のお人形のような可愛らしいお嬢様で、身内びいきを抜きにしても美しく育ったエドワードにべったりなんだよ」
会ったこともない相手はともかく、エドワードは確かに美青年の類に入るだろう。小柄でなよなよしい子どもだったが遅い成長期が来てからあっという間に育った。アンと婚約した後のことである。
誰も想像しなかった事態なのだから仕方ないだろう。並んでも遜色のない容姿をしていないお前が悪いとでも言いたいらしい。穿った見方だろうか。
そもそも婚約者に容姿の美しさなど求めていなかったように記憶しているのだが。
どこまでも都合の良いように記憶まで改ざんしているようだ。
変わらずアンは冷めた瞳で男を見つめる。
相変わらず見たいものしか見ていない。
彼の息子は身体だけではなく内面も大きく成長したというのに全く見えていないらしい。会話する機会も顔を合わせる時間も誰よりも多いはずだというのに。
内心でため息が尽きない。
他人として対峙するだけでも疲れるのだから身内の苦労が忍ばれるというもの。
そして男は決定的な言葉を繰り出した。
「夫婦となるに一番必要なのはやはり“格”だ。立場が平等でなければ不幸になる」
だんっ!
2人の間で大きな音が鳴った。
アンは静かに目を閉じ、男はびくりと身体を揺らす。
「格、な。つまりアンはオレにとって高嶺の花ってことだな。ああ、よくわかってる」
テーブルに掌を叩きつけたのは栗茶髪に緑がかった碧眼の人の目を惹く青年――エドワードだった。
甘えたな幼少期の片鱗など見せないスッと通った鼻筋に涼やか目元、全体的に甘い雰囲気で女性うけしやすいことが容易に知れる。
ただ彼の視線は嫌悪感と不快感をもって父親に向けられていた。
テーブルの上の飲み物は空になっていたので無傷。
「エ、エドワードッ?! お前! こんなところで何やっているんだ。お嬢様の相手をしないとダメだろう」
「なんでわがまま娘の相手をしなきゃいけねえんだよ。吐き気がして突き飛ばしてきたわ」
「なっっ?!!」
あまりの言葉に父親が言葉を失ったところでアンは声をかけた。
驚きはない。
彼の性格も考え方もよく知っているし、来てくれることもわかっていた。
「おかえり、エドワード。どうだった」
「無事受理された。ロマンの欠片もなくてごめんな、アン」
しょげる様子は子犬のようだとアンは微笑う。
「兄さんがすぐ捕まってくれてよかった。事情を話したらすぐサインくれて『やっちまえ』って激励してくれた。アンのご両親は書類出しただけですぐ書いてくれたし」
「バカな話とはいえここまで噂になっちゃったからねぇ」
「ほんと、俺も何の冗談? って疑った。オレってよそ見するように思われてんの?! って落ち込みもした。めそめそしてないで即行で動いてよかった」
労うようにエドワードの腕をぽんぽんと叩くアンの姿に、明らかに特別さを感じられる雰囲気に、男が声を荒げる。
「エドワード! 年下に縋るしかない嫁き遅れの年増に優しくする必要などない。お前は貴族へと続く輝かしい道を歩けるんだ! 贅沢な暮らしをするだけで親孝行できるのだぞっ」
さてこの科白は否定しておこう。
アンは確かにエドワードより年上であるが、嫁き遅れの年齢などではない。適齢期真っただ中だ。近年女性の社会進出が少しずつ進んでおり、結婚年齢も上がっている。当然年増と呼ばれる年齢でもない。
むしろ優秀さと真面目な性格で上司同僚から一目置かれており、誰が彼女を射止めるのかとひっそり注目されていた。つまり引く手あまた。縋る必要など全くない。
ひどい侮辱でしかなく、そしてそれが男の本心であった。
つまり、そういうことなのだ。
この男はただただ貴族の仲間入りをしたかっただけ。
金はいくらでも手にできたが、それだけでは手に入らない歴史的で、輝かしい地位に固執した。
長年培ってきた外面のためにその執着心はなかなか気づかれなかったが、今回、息子を気に入った令嬢が現れたことで夢を見てしまったのだろう。その夢を叶えんと暴走した。児戯かと見紛うくらいにあからさまでお粗末なものだったが本人は本気だった。
その様子は町の人々もずっと見てきた。そして嫌悪を募らせてきた。いい大人が何をしているのだと。
見るに堪えないほどの非礼さで人々は最近ずっと彼に白い目を向けていたのだが、やはり目に入っていなかったのだろう。
もはや男を名士として敬う人間はいまい。
それは親子でも同じこと。情など感じられない目でエドワードは言い放った。
「オレ、と兄さんたちもだけど、あんたの息子止めたから。親だからって子どもの人生狂わせるいわれはねえよ。怒り通り越して呆れてたぞ、兄さんたち」
「―――は?」
「兄さんたちはそれぞれ起業してうまくやってるから家の力とか要らないってさ。オレもアンと一緒に手を取り合ってやってくから邪魔すんな」
「っな、にを言っている。お前は私の息子――」
「あんたの息子の前に一人の人間なんで。思い通りに支配できると思うなよ」
ばっと懐から取り出したものを父親だった男の目の眼前に突きつける。
「さっき受理された婚姻届けの控えな。あんたから離れるためにアンを利用するのはめっちゃ気が引けたけど、好き勝手されるよりは100倍まし」
婚姻を結ぶと夫婦で新しく籍ができるため生家との縁を切ることができる。もちろん血のつながりは消えない上に一般的には慶事。親子としての関係が終わることはほぼない。
それを覆してでもエドワードは決別を選んだ。
葛藤がなかったはずがない。決断までの心情を思うと胸が痛むがそれを見せるのは彼に失礼というもの。それを乗り越えた雄姿を称えようではないか。
アンはふふと笑った。
「気にすることじゃないわ。ちゃんとエドワードと幸せになるし」
「オレもアンを幸せにする。2年後に豪華ハネムーン行くんだからな。――だからもう一度言う。邪魔するな。オレの人生にあんたは要らない」
最終宣告。
さすが親子と言わんばかりの似たような嫌悪の表情を向けた後、エドワードはアンの手を取り席を離れる。アンも抵抗せず素直に従った。
もういい加減この茶番に付き合う忍耐もなくなっていた。放心している男にかける情けはない。
打って変わってにこにこ笑い合う新婚夫婦に向けられたのは温かい拍手とたくさんの激励。
お忘れかもしれないがここはレストランの一角。もちろん営業時間中で他の客も従業員もたくさんいた。途中から場所を忘れて大声を出していたのでほとんど全員の耳に騒ぎは届いていておかしくない。
明日中には町全体に広がるだろう。
「おめでとー! いやぁ、よくやった。あんのくそ親父にはあれくらい言わなきゃな!」
「前から思ってたけどアンも王子様よね。お似合いよ、あなたたち」
「学生結婚とか素敵っ! 50年後も一緒に笑ってなさいよ!」
「くっ。アンもエドワードも競争率高かったのに、そこでくっつくのか。ちくしょー、幸せになれよっ」
「父親を反面教師にしてほんといい性格に育ったもんだ、エドワードも兄貴たちも」
そして父親の所業も。
まさか町中から反感を買っていたとは思うまい。それだけのことをしたのだ。
親だからという理由だけで、己の野望のために息子を生贄にしようとした。
アンとエドワードの関係が冷えたものだったのなら、もしかしたら叶ったかもしれない。だが現実では2人は町の人々に冷やかされるほどにより良い関係を深めていた。
だからこそ、町中の反感を買う結果になったのだ。
確かに、始まりは親を介した紹介だったのかもしれない。
「あー…、卒業してからもしばらくはアンにおんぶに抱っこか。ちょっと情けない」
「今だけよ。10年後には私より稼ぐようになるでしょうし」
「…それって家事や育児に忙しくなるからじゃない?」
「ほぉ、エドワードは私に家事や子守を押し付ける気なんだ」
「しませんっ。アンと一緒に全員幸せにする!」
けれど共に過ごす時間に比例して想いは重なっていった。互いを大切にする心が育まれていった。
お出かけは町に繰り出すことが多かったから町の人々もそれとなく初々しい恋人たちを見守ってきた。
誰の付け入る隙などない。
想い合う心がある限りきっと幸せでいることだろう。そうあるために一緒に頑張っていくのだ。
「ところでなんでハネムーンが2年後?」
「卒業してからの稼ぎと家族計画を考慮するとそこが一番かなって。予算貯まるまで給料の高い少しきつめの仕事して、すっぱり辞めた後ハネムーン。帰ってきてから得意を武器にした堅実な職に就こうと思ってる」
「あ、ちゃんと考えてたのね。いっそ今あるお金で行くのもありじゃない?」
「ヤだ。それってアンの貯金じゃん。オレにカッコつけさせて」
甘えてくるエドワードをアンが笑いながら抱きしめたのは言うまでもない。
レストランで出されたお茶のように最近の悩みはきれいに消化され、自分たちで引き寄せられる明るい未来に向けて新しい悩みを芽生えさせるのだった。
なんとも幸せな悩みである。
幸せいっぱいの新婚夫婦が去った後、独りの男がいつまでも呆然と席に座っていた。
何もかもを失ったことを受け入れるには時間がかかることだろう。
そこから立ち上がるのも。




