ほうれんそうはベターにsauter
入れ忘れた描写があった為ちょっと加筆修正しました(2025/8/24)
「うう、ヴァレリー……僕はもうダメかもしれない」
久しぶりに会った彼が、突然そんな泣き言を漏らすものだから私はギョッとする。
「ど、どうしたのエタン。貴方がそこまで落ち込むなんて何があったの?」
馴染みの喫茶店に辿り着く前からどうにも思い詰めている様子に心がザワザワしていたものの、こんなに弱りきった姿を見せるなんて予想外だ。だって、エタンは確かに昔こそ泣き虫だったけれどいつだってひたむきな努力家で困難に見舞われて泣きながら私に相談する時だってそれは相談というより決意表明に近く、真っ直ぐ問題にぶつかって行くような人だ。なのに今にも涙を落としそうなほど途方に暮れている姿なんて初めて見たものだから、言ってやりたかった言葉もすっかり頭から抜けてしまって私は咄嗟に向かいに座る彼の手を取って元気付ける様に握りしめた。
「僕は、僕はッ、ヴァレリーが好きだ」
「え? いきなりどうしたのよ? 私もエタンが好っ……同じように思っているわよ」
「ヴァレリーだけで良いんだ。僕は君を幸せにする為ならなんだって出来る。世界で一番幸せにしてあげたいのも、僕だけを見てて欲しいのもヴァレリーだけ。幸せそうに笑っている君の隣にいれるならこんな幸福な事はない。僕は君を大事にしたいんだ、なのに、なのにッ……!」
「エタン……?」
悲壮な顔で珍しく声を荒げた彼は、最後には震えて俯いてしまった。尋常じゃないその様子に私はもちろん、私達をよく知るお店の人達も心配げだ。
握った手から伝わる震えが少しでも治まる様にと両手できゅっと包んで幾許か、彼はポツリと呟いた。
「…………と、言われたんだ」
「え?」
僅かに聞こえた単語に身体が凍る。まさか。
「ヴァレリーと、別れろと、言われたんだ」
「……! それって、」
私がとある方の名前を震えながら口にすれば、涙ながらに頷くエタンに血の気が引く。それはこの場にいた誰もがそうで、店の外では穏やかないつもの日常が広がっているというのにまるでここだけ切り離されたように凍りついた店内が、なんだか異質に思えた。
私とエタンは幼馴染で、うんと小さな頃から一緒だった。お転婆だった私は、泣き虫なのにどこか頑固なエタンを色んなところに連れ回して二人で沢山遊んだものだ。
転機があったのは二人で美味しい木の実を食べに森に分け入って、運悪く魔物に遭遇してしまった時。私がしっかりしなきゃと奮い立ち果敢に護身用のナイフで応戦したけれど弾かれてしまって「もうダメかも!」と思った瞬間、それまで怯えるばかりだったエタンが私の名前を叫びながら飛ばされたナイフを手に魔物に立ち向かって行き、なんと見事に撃退してしまったのだ。それから私達の悲鳴を聞き付けた大人達にこっ酷く叱られた後「エタンには剣の才能があるかもしれん」という事でエタンは騎士団所属のおじさんに稽古をつけてもらう様になって、エタンもエタンで「今度こそヴァレリーをしっかり守れるようになりたいから」と言ってどんどん力を付けていった。エタンに助けてもらった時に結局軽い怪我をしちゃって、ちょっと腕に痕が残ってるの気にし過ぎなのよね。顔についた訳でもなし、このくらい庶民なら少なくないのにね。
エタンが騎士団に入隊したあともその躍進はとどまる所を知らなくて、最年少で第一部隊所属になって皆でお祝いしたりした。昔は長めの前髪のせいで表情が見え辛く大人しい子といった風だったのに、今や髪型もさっぱりして精悍で整った顔立ちとその実力もあってじわじわとモテ始めていたエタンだけれど、そのエタンから告白されたのもこの頃だった。
いや知ってたというか、気付いてはいたのよ?
もし第一部隊に所属できたら聞いて欲しい事がある、なんてそわそわと緊張した面持ちで言われたり、私が異性と楽しく話してると慌てて割り込んできたりとわかり易かったからね。
あんなに選り取り見取りな綺麗なお嬢さん方に散々言い寄られてて一切目移りしなかったのすごいなぁと、告白された時はつい感心してしまった程だ。
晴れて恋人同士になった私達は、休みが重なればデートしたり、仕事の日であっても少しでも時間が合えば夕食を共にしたり、「纏まったお金が貯まったら家を買って一緒に暮らそうか、いやそれならご両親に改めて挨拶しに行くのが先かな」なんてモジモジ未来の話をしたりして順風満帆だった。ずっとこの幸せが続くんだと、漠然とそう思っていた。
だけどある日、エタンにとある仕事が舞い込んだ。
エタンの所属する騎士団は、領主様が領の治安維持と有事の際のために創られたもので、基本は定められた区画の警邏や犯罪の取締り、魔物の討伐や祭事の警備、貴賓の警護などの職務が挙げられる。けれど中には領主館付きの護衛騎士に抜擢される事もあるそうなのだ。
今回エタンに舞い込んだのは、領主様の娘さんの護衛騎士役だった。
領主様には四人のお子さんがいるのだけれど、男三人に女一人、つまりその娘さんは四人兄妹の末の娘さんだった。そう聞くだけで、ああ可愛がられているのだろうなぁと察しが付くけどどうもそれどころではなく、亡くなったお母様譲りの美貌とコロコロと鈴を転がすような愛らしい声にご家族は皆様メロメロらしく、とんでもない溺愛ぶりらしかった。
だからこそ「年頃になった末娘になにかあってはならん!」と領主様は護衛をガッチガチに固める事にしたそうで、身持ちが固く実力のある騎士を男女問わず集めて、その中に『初恋を貫いた実直な騎士』として団内で持て囃されていたエタンが挙がったそうなのだ。
私はこの時、エタンの一途ぶりを呆れるほど実感していたので「栄誉な事じゃない。でも護衛対象のお嬢様にコロっといかないでよ?」なんて冗談を言う余裕すらあった。エタンもエタンで「そんな事が起きたらそれは僕の意志では絶対ないから叩き起こすかいっそ殺してくれ」と本気っぽい恐らく冗談を返していたのだ。私達に憂いなんて一切なかった。
さらにエタンが言うには本当に沢山集められていて自分は平民だから護衛と言ってもお嬢様のすぐ近くに侍るのは貴族出の騎士のみで、自分は周辺の警備になるだろうと。また、お嬢様が外出する時だけの任務だから御自宅にいる時は領主館に元々いる護衛が担当する為、出張はあるかもしれないが夜勤だって発生しないだろうとの事だった。
実際に、護衛騎士として働き始めてから暫くはエタンの言っていた通りで、お嬢様の外出が無い日などはそのまま鍛錬に充てられたり今までの業務を手伝ったりして以前より仕事が軽くなったくらいだよと苦笑していた。「それで前よりお給金が良いなら羨ましい事じゃない」と私が言えば「そうだね。何よりヴァレリーに会える時間がたっぷり取れてそこはすごく嬉しいかな」とニコニコ言うから私は「はいはい」と照れ隠しにそっぽを向いて適当に話題を変えたりしていたのだ。
なのに──
「ごめん、ヴァレリー。明日もまた早朝から仕事なんだ」
「……最近多いわね」
「お嬢様がどうしても、と」
何が切っ掛けかはわからない。
けれどエタンがこうしてお嬢様直々に指名されて仕事をする事がじわじわと増えていった。それに比例して二人の時間も減って行って、私との約束がある日は休暇であってもお構い無しに呼び出され直前でキャンセルになるのはいつもの事になってしまっていた。
護衛対象に覚え目出度いのは騎士にとって良い事だ。わかっている。わかっているけれど、少しずつ膨れ上がる疑念はどうしたって拭いようがなくて。
そんな時に私の耳に飛び込んで来たのだ、エタンがお嬢様と浮気しているという噂が。
私の勤め先の食堂で常連客の夫婦がいるのだけれど、その旦那さんがポロッと溢したのだ。「エタン君もなあ、こんな出来た彼女がいるってーのに酷え事するよなあ」と。一緒にいた奥さんが血相変えて「アンタ!」と嗜めて旦那さんの「あ、ヤベ」という反応からも、その話の信憑性は約束されてしまった様なものだった。
「……どういう事でしょうか? エタンになにか?」
「う、噂よ噂! きっと見間違いだからね、気にしないでヴァレリーちゃん」
「それでも知りたいです。一体どんな噂なんですか?」
ふと周囲を見ればお客さんの内の何人かが気まずそうな顔をしている事からも、皆敢えて私に伝えなかっただけでその噂がかなり知れ渡っているのがわかる。きっと私を気遣ってくれての事だろう。それがわかるからこそ尚のこと教えて欲しかったと、どこか攻撃的な、八つ当たりみたいなトゲトゲした感情が心の底で暴れ回る。昂る感情を鎮める為にひとつ深呼吸して「どうか教えてください」と再度奥さんの瞳をじっと見つめながら言えば「……わかったわ」と諦めた様に教えてくれたその内容は、案の定エタンとお嬢様が浮気しているのではという疑惑の詳細だった。
八百屋のおばさんが見たという手を繋いで歩く二人の話。商店のおじさんが見たという噴水広場で寄り添いあう二人の話。子供達が見たという二人がキスをしていたという話。
それ以外にも腕を組んで歩いていた、妙に距離が近いといった目撃情報が沢山あるらしく、「これは黒なんじゃないか」と思いつつもエタンと私の馴れ初めと為人を知っている皆だからこそ「あのエタンがそんな事する筈ない。それに相手は貴族のお嬢様だ、無理に迫られているのでは?」と擁護の声の方が多く、暫く様子見をしようという話になっていたのだそう。
「貴族と平民ですもの、きっとエタン君の本意じゃないわよ。あのエタン君よ? ヴァレリーちゃん一筋のあのエタン君が今更他に靡く筈なんてないわよ」
だから気に病まないで、と奥さんが気遣ってくれるのに「そうですよね、あのエタンですもんね」と私はなんとか笑みを浮かべて「それでもそんな紛らわしい事してた事実は変わらないんだから、今度会ったらぶっ飛ばしてやるわ!」と腕捲りして力こぶを作りながらわざと戯けて見せたのだった。
勿論、そんなのはただの強がりだ。ずっと抱いていた疑念が補強されて『真実なんじゃないか』『真実、エタンとお嬢様は愛し合っているんじゃないか』という思いが確信に近くなる。自分の部屋で一人、声を抑えながら泣いたりもした。信じていたかった。ずっと、エタンと私は一緒の未来を歩いていくのだと、信じていたかった。やっぱ私じゃダメだった? エタンはあんなに愛情表現をしてくれるのに、私と来たらろくに素直になれなくて、可愛くない事ばかり。頑張って伝えてみたこともあったけど、やっぱり足りなかったかな。もう、愛想尽かしちゃった? もう私と一緒にはいてくれないの? 私のせい、私のせいで……。
全部噂だ。伝聞だ。そのどれが本当で嘘かなんて、直接見ていない私にはわからない。こんな事、本人に聞けば良いのだ。それですぐに解決する話だ。わかっていても、その本人に直接聞く機会が得られない、次にいつその機会が来るのかもわからない状況だからこそ、悪戯に不安は膨らむ一方で──
内心悶々としながらも表面上元気に振る舞って周りに心配掛けまいと過ごす日々の中、ある日エタンから人伝に不思議な手紙が届いた。それは普段と違う少し遅い時間に、いつもと違う待ち合わせ場所で落ち合って、馴染みの喫茶店でお茶をしようという内容なのだけれど、『この約束は絶対誰にも言わないでくれ』『この手紙に返信もしないでくれ』と、そう締め括られていた。なんだか不穏な内容に眉を顰めながらも、どんなに注意深く確認してもエタンの筆跡に間違いはなく、私は言われた通りに誰にも言わずに約束の日を待った。
その間、漸くエタンと話せるかもしれないからだろうか? 私の心にはムクムクと怒りが込み上げてきていて、エタンに会ったら絶対に問い詰めてやろう、場合によっては前歯何本かぶっ飛ばしてやろう、という強気の心持ちになっていた。なんか、これまでクヨクヨしてた自分すら恥ずかしく、腹立たしくなっていたのだ。
そうして、拳を握り締め、アッパーカットの練習を日々仕事終わりに自室で行いながら過ごすこと数日。ようやく迎えた約束の日に、冒頭のエタンの悲痛な叫びに繋がるのである。
「ヴァレリーと別れるなんて絶対に嫌だ。ヴァレリーと別れなきゃならないくらいなら護衛騎士も、いっそ騎士団だって辞めてやる。だけどそれでヴァレリーや、ヴァレリーの御家族に報復がありそうでそれも出来なくて……ぼ、僕は、僕はもう、どうして良いか全然、わ"がら"な"ぐでぇ……!」
ワッと泣き出しズビズビ鼻水を垂らす情けない姿は、久しく見ていなかった泣き虫エタンのまんまで、きっとこんな姿をエタンに熱視線を送るファンのお嬢様方が見たら百年の恋も冷めそうだなと思うほどの、ひっどい有様だった。まあ私は、こっちの方が見慣れているんだけれどね。
「ほ、報復って、随分物騒だね……」
それまで黙って私達のやり取りを静観していたこの喫茶店の店主グレゴワールさんが堪らず声を掛けてきた。
「ずびっ……お嬢様に、い、言われたのです。『言う通りにしないなら、平民がどうなるかわかっているの? あ、勿論あなたの話じゃなくて、ね』と」
「うわぁ……そりゃあ、また」
「も、もしかして、今回待ち合わせの仕方がまだるっこしかったのって……」
「うん……どうも、僕とヴァレリーには見張りか密告者みたいなのが付いてるようなんだ。ヴァレリーと約束した日だけ呼び出されるのも多分そう。役所の手続きとか買い出しとかそう言った生活に必要な雑事を熟さなきゃならない日に呼び出された事、ないよ。だから今日も『そろそろ両親に顔見せたいから』て事にして、実家に行った後親に事情話してさ、念の為服も着替えて裏口からコッソリ出てきたんだ」
僕だってわからないように変装も兼ねているんだ、と普段あまり着けないフードを目深に被っていた理由も教えてくれた。
「それは……大変だったわね」
とんでもない話に私は思わず血の気が引く。じゃあつまり、今までの噂話も……?
エタンに件の噂話について聞いてみれば最早士気色に近いげっそりとした顔で、説明と共に全力で否定してくれた。
距離が近いのも手を繋がれたのも全部お嬢様から無理やりされた事で、何度恋人がいるからと断っても、護衛騎士としてこれではお嬢様をお護り出来ないからと職務面で訴えてもお構い無しで迫られていたという。あの子供達が見たというキスだってお嬢様が突然仕掛けてきたとの事で、唇にされそうだったのを何とか避けて頬にやられたんだとか。それでもエタンからしたらショックでショックで仕方なく、初めてそこで声を荒げて抗議したところ、怒ったお嬢様に「私と別れろ」と命令されたらしい。
「どうしよう、どうしようヴァレリー……。僕は君と別れるなんて嫌だ。だけどそれ以上に、君に危害が及ぶのはもっと嫌だ。僕は、僕は、どうしたら良いんだ……」
こんな仕事受けなきゃ良かった……、そう吐き捨てるように机に突っ伏して大粒の涙を溢すエタンに、私は掛ける言葉が見つからない。
だって、相手は貴族だ。
ここの領主様の、たっぷり溺愛されている末娘なのだ。
そんな相手に、ただの領民でしかない私達になにが出来るというのだろう。言う通りにする以外に、二人が一緒にいられる未来を叶える方法などどこにあるのというのだろう。
エタンと繋いでいる手をギュッと握ってその頭を撫でながら、黒く塗り潰されてしまった未来に涙が溢れそうなのを私はグッと唇を噛んで耐えていた。そんな時。
「はあ……そういう事、か」
鉛のように重くなった店内で、カランと氷の入ったグラスを揺らしながらそう溢したのは、この喫茶店に来るといつもいる常連客のベルトランさんだった。
「あのエタン坊が、幾ら相手が美少女だからってあんな噂になってんの、おっかしいと思ったんだよなあ」
やっぱ噂は信用なんねえな! と場違いに明るい声が店内に響く。私達のせいですごく重たい空気にしちゃったから何とか払拭しようとしてくれているのかしらと、私もエタンも少しばかり戸惑いつつベルトランさんに顔を向ける。
「まあそれでも、エタン坊には念の為確認なんだけどよ、」
カウンター席に座るベルトランさんはテーブル席にいる私達より目線が高い。そこからまるで見下ろすように、どこか眼光鋭い探る瞳でエタンを睨め付けながら口火を切った。
「本ッ当〜〜に、お嬢様には一切気はないんだな?」
「当たり前です。僕はヴァレリーにしか興味ありません。それにお嬢様はまだ十一歳じゃありませんか。僕二十一ですよ? そんな歳の離れた子供をそういう目で見るとか、ただの変態じゃないですか」
エタンは心底理解できないと言った顔できっぱり言い切るのに「だよな〜〜!」とベルトランさんがケラケラ笑う。
そうなのだ、件のお嬢様はまだ十一歳。貴族の世界ではそのくらいの頃から婚約だなんだという話になるらしいが私達からしたらちょっと考えられない。だからこそ私はもし噂が本当だったら「このロリコン犯罪者野郎!」とエタンを罵る気でいた。
「悪い悪い。マジで念の為聞いてみただけだからさ、そんな怒んないでよ。その代わり、俺がなんとかしてやろうか?」
「! 本当ですか!?」
エタンがガタンと席を立つ。私もびっくりしてベルトランさんをまじまじと見詰めれば「ホントほんと」となんとも軽い調子だ。
「これでも俺はすごぉ〜〜い人なんだぜ? 伝手なんて幾らでもあるって訳だから、二人は大船に乗ったつもりでドシーーンと構えていなさいよって。ドワッハッハ!」
なんか酔っ払いみたいなベルトランさんの軽過ぎるお言葉に、嵐雲に晴れ間が差した思いだった私達二人はちょっと不安になってくる。本当に大丈夫? この喫茶店ってお酒は夜からだった筈だけど昼間も出してるの? 裏メニュー? 藁にも縋りたい思いって言うけれど、本当に藁だった場合プチッといきそうで心許ないわよね……。
話は終わったとばかりにベルトランさんが体の向きをカウンターに戻して「マスター、ほうれん草とベーコンのバターソテー、ベーコン抜きで!」とそう注文した事で、暫くして店内にはじゅうじゅうとバターの良い香りが漂い始めた。
未だ不安が抜けきれていない私達がチラリと店主のグレゴワールさんに視線を向ければ、調理しながらやれやれ困り笑顔で『大丈夫だから任せてみて』と頷き応えてくれたので、私達は(グレゴワールさんを信じて)ベルトランさんにお願いする事にした。
…………しかし『ほうれん草とベーコンのバターソテー、ベーコン抜き』って、それ『ほうれん草のバターソテー』て言えば良くない?
それから、なんとびっくりベルトランさんは本当にすごい人だったらしく、エタンの状況は目覚ましいほど劇的に変わった。
その驚きの筆頭はやっぱり『件のお嬢様がめちゃくちゃ怒られたらしい』という所だろう。
領主様もお嬢様のお兄さん達もあの噂を聞き及んでいて、当初はエタンからお嬢様に粉を掛けているのではと疑っていたそうなのだ。なのに蓋を開けてみたらお嬢様の方がエタンに無理やり迫っていて、あまつさえ脅迫までしていたというのだからびっくり仰天。本人に問い正しても開き直って事実と認めた事から領主様が大激怒し、お嬢様は懇々と叱られたらしい。
領主様が末娘を溺愛しているという話は有名だったので叱ったと聞いて驚いたけれど、領主様からしたら幾ら貴族と平民では差があるとはいえ、それで闇雲に権力を振り翳して締め付ければいつ暴動が起きるかわかったもんじゃない。エタンがそもそも人気の高い騎士だったからこそそんな事が知れ渡れば領民の感情は悪くなる一方になり、それで暴動なんぞ起きればその後のデメリットの方が強くなると危ぶまれたのだとか。
こうしてエタンはお嬢様の護衛騎士の任から解放され、尚且つ口止めも兼ねた慰謝料も貰って、騎士団を辞める事もなく地位が落ちる事もなく平穏に騎士の仕事を続けられている。
因みにお嬢様があんな暴挙に及んだのは、お茶会で同年代の令嬢にエタンを羨ましがられた時に調子に乗ってあることないこと意味深な発言をしまくり後に引けなくなったからだそう。め、迷惑すぎるけど子供の頃ってそういうやらかし、あるよね……。
若干幼き日の黒歴史を思い出し心を抉られながらも、お嬢様にはエタンや私への接近禁止も、お嬢様付きの侍従などには私達への加害行為の幇助は厳罰に処すと密かに言い渡されたそうなので、私達はやっと胸を撫で下ろす事ができた。
後日、エタンと一緒にベルトランさんにお礼を言いに喫茶店を訪ねれば「だぁーから言っただろう? 俺はすんごい人だってな! あ、あとお嬢様もあんな怒られたのは人生初だもんだからどうもトラウマになってるらしくってな。エタンを見るのも怖いらしいからもう心配ないと思うぜ。いんやぁ〜〜これで万事解決、大団円ってな! ドゥワッハッハッハ!」と相変わらず酔っ払いみたいな言動で、店主のグレゴワールさんもやれやれ笑顔で「解決して良かったね。これお祝いね」とドリンクをサービスしてくれたのだった。
あ、今日はバターソテーじゃないんだ。いつも頼む訳じゃないのかな?
「ヴァレリー!」
澄み渡った青空の下、いつもの噴水広場で待っているとブンブンと振られた犬の尻尾が見えそうなほどニコニコご機嫌なエタンが駆け寄ってきた。
「エタン、おはよう」
「おはようヴァレリー。今日は随分と早いんだね。僕もかなり早く出たつもりだったんだけどな、負けちゃった」
そう言いながらも多分私とすこしでも長く過ごせる事が嬉しいんだろうエタンが、へへっと破顔しながら言うのに私もしたり顔で「ふふん、私の勝ちね」と返す。
きっといつもだったらここで終わり。
これ以上の事なんて言わずにさっさと今日のデートの目的地に行こうと私なら促していただろう。
普段の私だったら、絶対にそうだ。
だけど今日の私は……違う。
少しだけ手をギュッと握り締めて、暴れそうな心をなんとか宥めて、ちょっと様子の違う私に気付いて不思議そうな顔をするエタンを見つめて。
私よりも少しだけ高い位置にあるその頭に、耳に、私はぐっと背伸びをして、唇を寄せて放つのだ。
「私も、エタンに早きゅッ、会いたかったから」
上擦ったし噛んだし絶対顔真っ赤だし、バクバク五月蝿い心臓はでも、私以上に真っ赤っかにのぼせ上がった相手を見て、なんとか勝鬨を上げたのだった。
結果オーライ、ヨシッ!!
■ちゃんとした裏話
ベルトランさんは金持ちの放蕩息子を装った領主の密偵。グレゴワールさんも同様で、二人とも市井の情報収集を行ってます。