8.ジャズとの出会い(3)
「ね。お願い。頼むよ! 一回ジャズ研を見にきて欲しい!」
目の前の二ツ森先輩は今日も今日とて、真剣に頭を下げる。よくもまぁ、後輩相手にここまでできると、敵ながら感心してしまう。だけど、その一瞬の感心が、二ツ森先輩に隙を与えてしまった。
「嫌です。ホント、いい加減に他を当たってくださいよ。なんで、あたしにずっと執着するんですか」
しまった。
愛音は一瞬で後悔の念に駆られた。二ツ森先輩の口角がグイーンと上がり、よくぞ質問してくれた、といった顔をしたからだ。
「時松さん、トランペットで期待の一年生だったんでしょ? 新出から聞いたよ。新出が惜しいと思うほど上手なトランペッターをほっとくわけにはいかないだろ?」
「新出さんって……葉月先輩、ですか?」
「そうそう。新出葉月。時松さんのこと、すごく上手だって褒めてた。吹部辞めちゃったのもったいないって未だに愚痴ってくるよ」
頭をガツンと殴られたような衝撃が走った。
新出葉月先輩。トランペットがびっくりするほど上手い二年生の先輩だ。なんでも、幼稚園生の時から有名な指導者にトランペットの稽古をつけてもらっていた、とか。今年のコンクールでは、パートリーダーの渚先輩を差し置いてソロを担当するかもしれないという噂もある(百合蘭は徹底的実力主義なのだ。実力さえあれば学年関係なく、ソロを任せられる)。
トランペットがすごく上手。吹部辞めちゃったのがもったいない。
憧れていた葉月先輩に陰で褒められていたという事実に、体が痺れる。
嬉しい。すごく、嬉しい。今すぐ飛び上がってしまいそうなほど、嬉しい。
だけど、吹部に戻りたいとは思えない。
期待に応える自信がない。実力が伸びていくビジョンが見えない。もう二度と自分が下手だという実感をしたくない。あんな惨めな思いはしたくない。
たくさんの“ない”が愛音の首を締め付ける。自分自身を否定してしまう。
やっぱり、トランペット、吹きたくない。
愛音は黙って、熱心に称賛を送り続ける二ツ森先輩の言葉を受け流す。興奮しているのかちょっぴり頬が赤い。
「ねぇ、奏真。なにやってんの。今日もまた後輩ナンパ? いい加減にしなよ」
突然、二ツ森先輩の後ろから低い声が飛んでくる。
誰? 二ツ森先輩の知り合い?
二ツ森先輩の体を避けて、声のした方にヒョイっと顔を覗かせると、メガネの奥の眼とぶつかった。
うわっ、すごく真面目で堅そうな人!
スラッとした長身の男性が切れ長の目を光らせて、二ツ森先輩の背中を思いっきり叩く。
「わっ、いったぁ……。弓弦くん、叩くことないでしょうよ……」
二ツ森先輩は背中を押さえて、弓弦と呼ばれた男の人の肩に手をかける。上履きの色を確認する。青だ。つまり、二ツ森先輩と弓弦さんは同い年ってことだ。
「うっさい。お前が後輩を困らせてるからいけないんでしょ」
弓弦さんはカツンと二ツ森先輩の頭を叩いた後、愛音に向き直り、片手でゴメンのポーズを取った。
「ウチのバカがごめんね。昔っからコイツ、猪突猛進バカでさ。こうと決めたら、ずっと一途に追っかけちゃうタイプなのよ。迷惑たくさんかけたでしょ。ごめんね」
今度はぺこりと頭を下げる。二ツ森先輩の頭も持って、「ほら、お前も謝れ」と、無理やり頭を下げさせた。アニメのいちシーンみたいだ。誰かが誰かを無理に謝らせるところなんて、見たことがない。面白い。それに、二ツ森先輩がタジタジになりながら、頭を下げているこの光景が、すごく気持ちいい。爽快だ。スカッとしてしまう。
こんなことで溜飲を下げる自分の性格の悪さに苦笑いをしてしまうが、これまでたくさん不快な思いをさせてきた罰だ。形だけでも反省してもらわなくては困る。
「ちょ、やめろって! 悪いと思ってるから、離して! オレの言い分も聞いて!」
二ツ森先輩がじたばたと暴れる。弓弦さんの方がヒョロリとしているのに、力は二ツ森先輩よりも強いようだ。身長差のおかげだろうか。
「ダメです。最近昼休みにコソコソ一人で出かけるなぁと思ってたら、後輩に強引な部活勧誘をしてるとか……本当、あり得ないでしょ。せっかく一生懸命立ち上げたジャズ研の評判を下げてもいいわけ?」
片手で二ツ森先輩の頭を押さえつけたまま、弓弦さんがため息混じりに言う。直後、「うおおお」と唸りながら、二ツ森先輩が体を持ち上げる。弓弦さんがパッと押さえつけていた手を離した。二ツ森先輩が思いっきりのけぞる。
「お、おい! 急に離すな!」
「だって、このまま力入れてたら俺の手、えらいことになりそうだったし」
二ツ森先輩は子犬が威嚇するように、グルルルと弓弦さんを睨みつける。
「はいはい。もういいから、さっさと二年の教室に戻るよ。……ほんとお騒がせして申し訳ないです」
「ちょ、ちょまっ……」
弓弦さんがぺこりと頭を下げ、二ツ森先輩の腕を取る。二ツ森先輩がそれを振り払った。
「ほんと、待って。弓弦、話を聞いて」
「なに?」
「だから、この子! 時松愛音さん! この子は、絶対に、オレらのジャズ研に必要なんだ!」
突如、名前を呼ばれて体がぴくりと跳ねる。すっかり先輩コンビのコントに見入ってしまっていた。だから、名前を呼ばれて驚いてしまったのだ。廊下にいる人たちの視線が痛い。
「なに言ってんの? 何度も断られてるんでしょ。無理やり入部させるもんじゃないって」
愛音は弓弦さんに同調して、コクコクと頷く。
「ほら、この子……時松、さんだっけ? 困ってるじゃん。だから、帰るよ」
弓弦さんがまともそうな人で助かった。そう思ったのも束の間、二ツ森先輩がブンブンブンッと、大きく頭を左右に振る。
「時松さんがジャズ研を見学して、それでも入部したくないって言うなら、仕方ないと思う。オレだって諦めるよ。でもさ、ジャズ研もジャズのことも知らないで、断られるのは嫌なんだ。……だから、一回でいい。時松さん。ジャズ研を見にきてくれないかな?」
二ツ森先輩の真剣な眼差しに、ごくりと喉に詰まる唾を飲み下した。両頬が熱い。こんな真剣な人を目の当たりにしたのは、初めてかもしれない。
そんなに夢中になるほど、ジャズって素敵なものなの?
おぼつかない心が、胸の内側で揺れる。見学にも行かないと決めていた強い意志が、二ツ森先輩の思いの波に押し寄せられ、ぐらりと不安定になる。
「ごめんね、時松さん。こういう一途モードになった時の奏真は手がつけられないんだ」
弓弦さんが眉間に皺を寄せ、頭を抱えながら言う。
「そこでなんだけど、失礼を承知でお願いします。一回でいい、見学に来てくれないかな?」
「……弓弦くぅんっ!」
二ツ森先輩がキラキラした目で弓弦さんを見つめる。弓弦さんはめんどくさそうな表情をして、二ツ森先輩の頬を押し込んだ。
「奏真のためじゃないからね? 全部、時松さんのため。……一回だけ来てもらって、すぐ断ってもらえればいいから」
「断られちゃ困るんだけど?」
「あのさぁ……。お前には時松さんがどれだけ迷惑してるかわからないわけ? こんな強引な勧誘してたら、誰だって嫌気がさすし、誰だって断りたくなるよ。……ったく」
愛音の前で再び、先輩二人のコントが繰り広げられる。親しげな雰囲気で話す二人は、とても仲がいいのだと察せられる。
不意に、視線を感じた。見回してみれば、いつの間にか愛音たちの周りを避けるように、生徒たちが動いている。
「時松さんに絡んでる先輩、一人増えてる」
「ホントだ。あの人たち一体誰なんだろう」
「背の高い方の先輩、イケメンじゃない? 紹介してって愛音ちゃんに頼んでみようかな」
「なになに? 痴話喧嘩?」
「二ツ森先輩って、愛音の彼氏だと思ってたんだけど、ちがうの?」
一度意識を外に向けると、さまざまな声が耳に届いてくる。どの声もなりを潜め、好奇心と揶揄を含んでいた。非常に嫌な雰囲気が廊下全体を覆っている。
注目されていたなんて、全然気づかなかった。そりゃ、こんなに大きな声で話してたらみんな見るよね。うわっ、すごく、すごく恥ずかしい。
何にもならないのはわかっているけれど、愛音は先輩たちの陰に隠れるように、グッと身を縮こませる。
「時松さんは、それでいいの?」
「え、あ……? はい?」
全然、聞いてなかった。だから、弓弦さんの問いかけに、曖昧に頷いてしまう。
「本当に? よっしゃぁ!」
二つ森先輩が声を上げる。明るく弾んだ声だ。周りの陰険さを吹き飛ばして、朗らかな空気へと変えてしまう。曇天の合間に降り注ぐ太陽光を連想した。二ツ森先輩の周りだけ、異様に明るい。