7.ジャズとの出会い(2)
「時松さぁーん。また、先輩が呼んでるよぉ」
教室から出ようとしていたクラスメイトの尾川さんが、大声で愛音を呼ぶ。ここ最近、いろんな人に苗字を呼ばれる機会が増えた。それもこれも、すべて二ツ森奏真のせいだ。
最初の頃は二ツ森先輩に呼び出される愛音を面白おかしく茶化す者もいたが、毎日呼び出されるせいで、今や一年三組の日常の一部に組み込まれてしまった。ため息を吐きながら立ち上がると、引き戸の前で二ツ森先輩が大きく手を振っている。愛音が明らかに嫌そうな顔をしているのに、彼は一切気にしていない。
いい加減、諦めて欲しい。
愛音はもう一度ため息をついて、二ツ森先輩の前に立つ。
「ここ、邪魔なんで、端っこに行ってもらえます?」
開口一番、二ツ森先輩を睨みつける。二ツ森先輩は表情を一つも変えず、にこやかにしている。
「あっ、そうだよね! えっと、ここなら平気かな?」
廊下の窓の前に柔らかな態度で立つ。すごく、やりづらい。二ツ森先輩に悪意を向けると善意が返ってくる。愛音はこういうタイプが苦手だった。人当たりはいいが、自己中心的で、わがままで、思いやりがなくて……だけど、なぜか周りには愛されているせいで、二ツ森先輩に迷惑をかけられている人の方が悪に仕立て上げられてしまうのだ。すごく、扱いに困る。どう接していいのかわからない。
だけど、愛音は今日も、
「あたしは絶対にジャズ研に入りませんよ」
凛として、キッパリと、断る。そうしなければ、この男は卒業するまでずっと付き纏ってきそうだからだ。
「ハッキリ断るねぇ。でもさ、こうやって毎日勧誘されてたら、ちょっとは気になってこない?」
「気にならないです」
端的に、ハッキリと。物分かりの悪いこの男にも伝わるように。
愛音は初めて勧誘された時に、しっかりと拒絶しなかったせいで付き纏われるようになってしまったのはわかっていた。同じヘマはもうしない。無視したせいで、二ツ森先輩のいいように解釈をされるのは二度と御免だ。
愛音が初めてジャズ研に勧誘された次の日の光景がありありと浮かんでくる。
四限目の授業が終わり、教室でお弁当を広げている時だった。おだやかな雰囲気の一年三組に突如、二ツ森先輩が現れたのだ。
「愛音ちゃん、えっと、よくわからないんだけど……二ツ森っていう男の先輩が、呼んでる」
そう声をかけてくれたのは、吹部でトロンボーンを担当している佐和ちゃんだった。この時、久しぶりに佐和ちゃんと会話をしたような気がする。吹部を辞める前はよく話してたんだけど……。
愛音は社交的な方ではない。中高共に、吹部では明朱花や聖奈のおかげで友達を作ることができた。クラスでも吹部で仲良くなった子達とつるんでいた。だけど、今の愛音は吹部を退部した身だ。なんとなく、本当になんとなくなんだけど、同じクラスの吹部生たちと話すことに気が引けてしまい、ここ最近は誰とも話さず、一人で行動することが多かったのだ。
クラスで孤立し始めた女子がある日突然、先輩に呼び出される。これほど面白いスキャンダルがあるだろうか。愛音は三組吹部生の視線(この時は佐和ちゃんがこそっと耳打ちしてくれたので、呼び出されたことをクラスのみんなにはバレていなかった)を一身に浴びた。
恥ずかしい。すごく恥ずかしい。
羞恥で顔を赤らめながら、ドアの前に立つ男の元へ行く。
「昨日しっかりと断りましたよね? なんでまた来たんですか!」
胸の中で叫んでいたはずなのに、男の前に立った瞬間、思いがジェット噴射のように口から発せられた。
この男はやっぱり、要注意人物だった。空気が読めないクソ男だった。愛音は腹立たしさを全面に押し出し、男に対峙する。ここで怯んでいてはダメだ。
「おぉ。いきなり戦闘態勢だ」
悪びれもせず、男が両手をあげ、降参のポーズをする。
「そりゃそうです。勝手に教室にまで来られて、迷惑ですから。なんで来たんですか」
「なんでって、昨日諦めないって俺言ったでしょ。また勧誘に来る、とも言った。でも、それに対して時松さんは何も言わなかったから、来てもいいのかなぁって思ってさ」
「よくないです。あれは肯定の無視じゃなくて、拒絶の無視です。わかるでしょう? あと、時松さんって、なんなんですか。先輩に名前を呼ばれる筋合いはないんですけど」
打っても響かないような飄々とした様子の男を、思いっきり睨みつける。
「仲良くなりたい子に対して『君』呼びじゃ失礼だなって、昨日の夜思ったんだ! オレのことは二ツ森先輩って呼んでくれればいいから」
「呼びません」
「呼んで呼んで! そっちの方が格別に仲良くなれると思うし!」
「だから、あたしは仲良くなりたくないんですってば」
愛音は眉間に手を当てて、大きくため息を吐く。初見時はこの男を青少年だと思ったが、見当違いだった。青少年じゃなくて、純粋でピュアでまっすぐなバカ男だ。悪意なんてものともせず、全力でぶつかってくる。厄介な相手に目をつけられてしまった。
「昨日、ちゃんと伝わってなかったみたいなのでハッキリと言いますね。あたし、ジャズ研には入りません。教室にも来ないでください。……これで伝わりましたか?」
今度は目を見て、しっかりと拒絶した。勘違いされないように。
「うん。わかった。でも、オレは時松さんを諦められない。だから、また来る」
「待ってください。あたしの話聞いてました?」
「うん。聞いてたよ。でも、少しで良いんだ。ジャズ研を見に来て欲しい。そうしたら、気持ちが変わるかも」
「だから、絶対に嫌です」
愛音はほぼ叫ぶ形で否定していた。息が上がる。注目が集まる。恥ずかしい。嫌だ。最悪だ。それなのに。
男の顔には馴れ馴れしい丸っこい表情が現れたままだ。愛音はその顔を見て、何故かしら脱力してしまった。この男には打っても打っても何も響かないのだ。
「うん。ごめん。でもどうしたって、時松さんにオレらのジャズ研を見て欲しい。時松さんがイエスっていうまで、オレはいつまでも来るから」
こうして、梨沙と二ツ森先輩の長い攻防戦が始まった。先輩の言っていたことは誇張ではなく、本当に毎日、昼休みの時間帯に三組に現れるようになったのだ。毎日顔を合わせる中で、いつの間にか愛音も二ツ森先輩と呼ぶようになってしまった。先輩の忍耐力たるや末恐ろしい。
ここまでくれば根気合戦だ。もはや、ジャズ研云々は関係ない。二ツ森先輩の心をどう折るか。そればかりを考えていた。