5. 捨ておいた過去(5)
思い返すだけで、お腹の辺りがスゥーッと冷える。
百合蘭に入学を決意したのは、中三の夏、このコンクールの経験があったからだった。
下手くそな人たちとプレイするのはもうおしまい。あたしはみんなよりも何歩も先に行く。最高の演奏をしに、高校へ行く。
そう決めてからは、早かった。全国大会常連校である百合蘭高等学院を志望校に設定した。百合蘭は中学生みんな(少なくとも愛音の周りは百合蘭のことを高嶺の花と言っていた)の憧れの高校だ。倍率も偏差値もとても高い。だから、頑張った。
少しでも暇があれば吹いていたトランペットを一時封印し、使える時間全てを勉強に充てたのだ。県内屈指の実績を誇る予備校に通い、休み時間は単語を覚え、(褒められたものじゃないが)授業中は予備校の宿題をする。部活を引退してからというもの、本当にずっとずっと受験勉強していた。
それほどやらなければ、百合蘭に合格するなど、夢のまた夢だったのだ。
絶対に百合蘭で吹奏楽をする。
その思いだけで頑張ってきた。それに、受験勉強をしていれば、部員みんなに感じた苛立ちも、腹立たしさも頭の片隅に置く(吹部は愛音中学校生活全てだったため、完全には忘れきれなかった)ことができた。
そうして勝ち取ったのが、百合蘭合格だ。たくさんの人に祝福された。距離感が曖昧になっていた同級生や後輩たちにもすごいと持て囃された。「愛音先輩はきっと音大に入って、プロのトランペット奏者になるんですね」なんて言われたりもした。
満たされた。県大会で荒んだ心が清らかになるのを感じた。吹部でなにもかも思い通りに行かなかったのはこのときのためにだったのだと、百合蘭合格のための布石だったのだと、確信を持っていた。今日から全てがうまくいく。天が味方してくれている。そんな興奮状態に陥っていたと思う。
でも、そんな気持ちは百合蘭高等学院吹奏楽部に入って、すぐに終わった。本当に『すぐ』だ。
「愛音ちゃん。最近、走り気味なの気づいてる?」
パートリーダーの金田渚先輩に問われたのは、五月下旬。美しく咲き誇っていた桜のピンクが生き生きとした葉っぱの緑にバトンタッチをし、空気も潤みだした頃だった。
部活が終わり、体育館のギャラリー(百合蘭の吹部生は多いため、校内の至る所で練習をしている。例えば、空き教室や渡り廊下、中庭の隅っこなどだ。トランペットは体育館のギャラリーでパート練をすることになっていた)で片付けをしている時に渚先輩に声をかけられた。ポロシャツを着た渚先輩がギャラリーの隅っこに、愛音を呼び出す。
先輩の問いに胸が激しく脈打つ。
「えっと……。はい」
「そうだよね。愛音ちゃん、上手いから気づかないわけないよね。どうして演奏がズレちゃうか、わかる?」
「えと……」
「ここ最近、ついちゃった癖だよね? 最初の頃、愛音ちゃんはとてもうまく演奏してたもの」
「それは……」
先輩の鋭い視線に愛音は言い淀んでしまう。先輩に心を見透かされるような気がして、目を合わせられない。
音が走ってる。
そんなこと、渚先輩に言われなくても自分が一番よくわかってる。ずっとトランペットと向き合ってきたんだ。わからないはずがない。その原因だってわかってる。
わかってるのに、何も言えない。愛音は体を縮めて、無機質なプラスチックの椅子に視線を落とす。細かい傷がいくつもついていた。飲み物をこぼしたまま放置したようなシミもある。次座る人のために拭いておいた方がいいかな。そんな関係のない思考がいくつもよぎった。
「これから、吹部はたくさんのイベントに参加する。地区大会はもちろん、地域のイベントにも参加する予定。愛音ちゃんは本気でトランペットをやってるのよね?」
キュッキュッというバスケシューズの音が体育館にこもる。先輩は話し続けた。
「私ね、愛音ちゃんが入部した時の自己紹介を聞いて、愛音ちゃんの演奏を聴いて、この子はすごい人材になるぞって期待したんだよ。今だってそう思ってる」
「ありがとうございます」
「でも、今の愛音ちゃんは……なんというか、注意力が散漫になって、自分の音を見失っている感じがするの。……正直、このままじゃコンクールのメンバーに選ばれるのは厳しいと思う」
「はい」
返事をする声が掠れた。
だから、そんなのあたしが一番よくわかってるってば。
声に出せない思いが、喉元につっかかる。
標高の高い山の上に登ったときみたいだ。酸素が薄くて、息がしづらくなる。息を吸えば吸うほど、体内の酸素が薄まって、呼吸ができないみたいな……。
ヒューヒューと喉の奥が鳴った気がした。
視線を一向に合わせない愛音をよそに、先輩はずっと愛音の瞳だけを捉え続ける。獲物を決して逃さない獰猛な鷹のようだ。窓から洩れる夕陽が愛音と渚先輩を照らす。
先輩は短く息を吐いた。これから大切な話をしますよ、という合図だ。愛音は決して目と目を合わせられない。下の方を見続ける。
「愛音ちゃん。愛音ちゃんは選抜されたいんだよね?」
「……はい」
「そうだよね。それでいて、自分の演奏にも自信がある」
「そんなこと、ないです」
顔を上げた。否定したかった。自分の演奏に自信なんてない。渚先輩と初めて視線が絡み合った。
「否定しなくても大丈夫。愛音ちゃんは技術はしっかりあるもの。でも、なんていうかな……愛音ちゃんの演奏は、技術がある人によくある独りよがりな演奏になってしまってるの。わかる?」
違う。独りよがりな演奏なのは認めるけど、技術があるわけじゃない。むしろそれは、技術がないから陥ってることだ。
「でも、吹奏楽は複数の楽器で一つの音を作るもの。独りよがりでは絶対にいい音は作れない。きちんと音を合わせるには周りとうまく協調しなきゃ」
先輩から言葉が発せられるたびに、酸素がどんどん薄くなる。なんだかクラクラしてきた。
「愛音ちゃんは周りの音が聞けてないの、わかるかな。まずはパートのみんなの音を聞いて。パートの音色が揃い始めたら、自分の音やもっと周りの音がクリアに聴こえるようになるから。できるだけ耳に集中してみて」
「はい」
渚先輩のアドバイスは的確なようで、少しずつズレている。
愛音は百合蘭吹奏楽部に入って、自分の実力のなさを嫌というほど実感したのだ。だから、自分の力を過信して独りよがりになってるのではない。けれど、周りの音が聞けていないのは確かだった。聞けていない、というよりは、聞こえないように耳を塞いでいた、という方が正しいかもしれない。
吹部の練習風景が頭に浮かぶ。
みんなが真剣な顔をしていた。練習前におちゃらけていた人たちも、一度楽器に触れば顔が引き締まる。みんな真剣で本気だった。
愛音は当初、この中で演奏ができることに喜びを噛み締めていた。今までの環境とまるで違う。みんなが本気で全国を目指していたし、中学の吹部とは桁違いに実力がある。胸が高なって、早くみんなと演奏がしたくてたまらなかった。
最初こそ、愛音は順当に進んでいたのだ。数多くいたトランペット希望の人たちを押し除け、希望楽器を勝ち取り、トランペットが上手いと先輩たちに持て囃された。愛音はここでも天狗になってしまっていた。「この調子なら一年生で異例のソロ、任されちゃうんじゃない?」なんて、心の中でほくそ笑んでいた。
本当に身の程知らず。
過去の自分自身を責め立てる。
愛音のような凡人が天下の百合蘭でそんな偉業成し遂げられるわけがないのだ。入部して早々、先輩たちに「あたし、なんでも演奏できますから。一年生の誰よりも上手くなる自信があります」と啖呵を切ってしまった記憶を消し去りたい。
愛音はパート練習を初めてすぐに絶望感を味わった。
周りの人たちか上手すぎる。先輩方はもちろんのこと、同級生のみんなも想像以上に上手い。正確に音を当て、正確に音を伸ばし、音の粒を揃える。一つ一つの音の出し方がまったく違う。音が楽しそうに弾み、生き生きとしている。ここにいるみんな、プロのトランペット奏者のようだった。圧倒的な実力差。
初めて練習曲を全体で合わせた時、愛音はさらに驚愕した。ここにいる部員全員が化け物だ。演奏は練習中なだけあって粗はあるが、それでも彼女らの実力を肌で体験するには十分だった。
吹き終えたあと、目に涙が滲んでくるのを感じた。奥歯を噛み締め、ギュッとトランペットを抱擁する。
あたしの出す音と全然違う。
確かに、愛音は上手かった。だけどそれは、上手に音を当てることができるってだけだ。音痴ではないけど、表現力が全くない。音が硬くて、のびやかじゃない。良い音じゃない。自由じゃない。合奏になった時、ぴたりと音が合わない。
能力の差を見せつけられた。好きだからこそ、わかってしまう。かつて、天才だと豪語してたからこそ、わかってしまう。
あたしはたぶん、ソロどころか選抜にも選ばれない。
周りには、愛音よりも上手な人がごまんといる。表現力豊かな人が信じられないほどいる。当たり前のことだ。当たり前だけど、愛音が知らなかったことだ。百合蘭高等学院吹奏楽部は、中学という狭くて生ぬるい環境で自惚れていた愛音に、本当の実力を教えてくれた。
才能があると信じてやまなかった愛音は、百合蘭で死んだのだ。
夕焼けが深まり、窓からギャラリーに力強い日差しが差し込む。埃がキラキラと煌めいて見えた。ここ最近、日が長くなったのをこういう些細なことで実感する。
「勘違いしてほしくないんだけど、私は愛音ちゃんを責めてるわけじゃないの」
苦虫を噛み潰したみたいな顔をしていたのだろう。渚先輩は口調を緩め、笑顔で言った。
「愛音ちゃんなら、きっとよくなるって思ってるから、アドバイスしたんだよ」
「はい」
「きっと変な癖ができちゃって悔しいよね。私も一年生の時にスランプがあって、なかなか抜け出すの大変だったんだ」
先輩が遠い目をする。愛音を慰めるための気休めじゃなくて、本当のことなのだと思う。どれほど演奏が上手い人でもスランプはあるものだ。
「でも、そういう時こそ話し合うことや意見交換が大切だって思うの。どういう音を目指すのか、とか、どんな思いを乗せるのか、とか。そういう歩み寄りやすり合わせが大事になっていくんだと思うのね。……私に合わせろ、じゃなくて、合わせよう、って気持ちをお互いが持てるように話し合うの」
愛音はぎゅっと拳を握った。目は逸らせないから、先輩の鼻のあたりだけを一心に見つめる。低いけれど、しなやかな曲線を描く鼻だ。
胸の中で居心地の悪い思いがぐわりと揺れる。
「とにかく、愛音ちゃんは周りの音を聞いて。それだけで演奏が格段に良くなるから。もし、悩みがあるならいつでも相談してよ。私でもいいし、他の先輩でもいいし。いつでも私たちは力になるよ」
「はい」
「じゃ、話はこれでおしまい! 長々とごめんね! さっ、音楽に室行こっ!」
先輩は優しく愛音の肩を叩き、軽い足取りで他の先輩と合流する。愛音も椅子に置いてあったトランペットのケースを取り、一人で体育館を出た。渡り廊下に西陽がダイレクトに差し込み、眩しい。
周りの音を聞いて、先輩たちに相談する。
愛音は人知れず首を横に振った。
どっちもできない。どっちも無理だ。だって、あたしの耳は音を聞くことを拒絶している。
CDや音楽配信サービス、プロのオーケストラの音楽を聴くことはできる。彼らは雲の上の存在だからだ。比べたときに、愛音の方が下手なのは当然だし、実力差があるのは当たり前だ。……でも、同い年の、たった一、二年しか歳が変わらない人たちの、上手い人の演奏は聴きたくない。自分の近しい、それも、手が届きそうな人たちに負けているのが悔しくてたまらなかった。自分が才能がないのはわかってる。自覚している。でも、同世代の才能溢れる人を見ると胸の奥がズクンズクン痛んで耐えられなくなる。だから、もちろん、先輩に相談などできない。自分の下手さを認める発言をするのは、負けを認めるみたいで嫌だったのだ。
あたしだって、もっと。
いや、あたしには無理だ。
あたしの方が、ずっと。
いや、足元にも及んでない。
二つや相反する思いがせめぎ合い、愛音の心を傷つける。
この時初めて、愛音は周囲とのボタンのかけ違いに気づいた。
下手くそなのにプライドだけが高いトランペッター。
最悪だ。中学の時、独りよがりに張り切っていたのが、高校に入って有頂天になっていたのが、すごく、すごく恥ずかしい。
愛音は五月が終わってすぐに、聖奈と共に吹奏楽部を辞めた。卑怯な愛音は、聖奈が愛音に吹部をやめることを相談したのに乗っかったのだ。渚先輩にも、他の同級生にも、惜しまれたし、引き止められた。それもかなり。でも、愛音の決意は揺らがなかった。
愛音は選抜に選ばれるだけの努力をし続けることも、埋まらない実力の差を感じ続けることも、がむしゃらに吹き続けることも、自分の才能のなさと向き合うことも、できなかった。
トランペットと相容れなかった。
ずっとずっと相棒だったトランペットが生活からどんどん遠ざかっていく。部活を辞めてから、吹いてすらいない。相棒はケースに入れられ、部屋の隅に置かれている。光を浴びることはきっともうないだろう。相棒は既に輝きを失くしてしまった。
朝も放課後も、校内には百合蘭高等学院吹奏楽部の練習音が響き渡る。
苦しい。聞きたくない。立ち止まりそうになる。だけど、学校には行かなくちゃいけない。隣には同じ苦しみを共有した聖奈がいる。だから、あたしは大丈夫。
ふっと息を吐いた。
柔らかな雨の音が愛音の心を解きほぐす。トランペットという生きがいがなくなった。だけど、愛音の高校生活は続いていく。雨音が哀れみ深いメロディを奏で、愛音の一歩を後押しした。