4. 捨ておいた過去(4)
天狗になる、うぬぼれる、自信過剰、思い上がり……という言葉は中学三年生の愛音にぴったり当てはまる言葉だった。
つまり、最上級生、かつ、吹奏楽部部長の愛音はどうしようもなく調子に乗っていたのだ。
本当、アホみたい。
一年前の自分に言葉を冷ややかな投げかける。一年前に戻って、無知でアホでどうしようもない自分自身をぶん殴ってやりたい。正直、思い出すのも嫌なほど、中学三年生の愛音は驕り高ぶっていたのだ。
中学一、二年のときは上手くやれていた、と思う。中学入学して間も無く吹部に入り、トランペットを吹き、能天気でノリのいい明朱花に出会った。
最高、とまではいかなくても、それなりに楽しかった。心を一にする同級生、優しい先輩と可愛い後輩たち。卒業は遠い先のことで、まだまだ愛音には未来がある。あの頃の毎日は、花火のように華やかで儚くも美しい日常だった。
トランペットと吹奏楽が愛音にとって、中学生活の全てだった。この二つが愛音は大切だった。誇張なく、愛音の中学生活の全ては吹奏楽部にあったのだ。だけど、わからなかっただけで、この頃から愛音とトランペットとの関係はきっと綻び始めていたのだと思う。
「愛音はいつもトランペットに真剣だねぇ」
明朱花がそう言ったのは、二年生の夏の日、地区大会が三日後に迫っているときのことだった。愛音たち吹部はコンクールのために夏休みの間も連日部活に勤しんでいたのである。
「そう? 普通だと思うけど」
「そんなことないない! いつだって真剣に吹いてるし、誰よりも上手いもん。こんなこと言っちゃ先輩に悪いけど、この部で一番演奏が上手なのは、愛音だと思ってるよ」
「えー、そんなことないよ。ま、トランペットと誰よりも向き合ってる自信あるけどね」
愛音は否定しながらも、心の奥底で鼻高々になっていた。これでもトランペットとは五年の付き合いだ。中学に入ってから楽器を始めた人たちよりも上手い自信があったし、誰よりも才能があると思っていた。
「誰よりも向き合ってるって言い切れることがすごいよねぇ。友達に誘われたからって理由で吹部からトランペットを始めたウチとは大違い」
「明朱花だってトランペットよくできてるじゃん。一年の時、トランペット希望者、かなり多かったのに勝ち取ったわけだし」
「それは一年の時の話。ずっと続けてみて思うんだけど、思ったように音が出なくて苦痛なんだよね……。ウチが出す音は伸びやかじゃないっていうか。耳障りっていうか」
「全然そんなことないのに」
否定してみたけれど、明朱花の演奏はお世辞にも上手いとは思えなかった。明朱花は友達としては最高だし、誰にでも懐っこい彼女のことを尊敬していたが、トランペットの演奏に関して、愛音は明朱花のことを見下していたのだ。だって、スポットライトを浴びるには、明朱花の技術は全く足りていない。唇の使い方があまり上手くないし、ロングトーンはしょっちゅう揺れている。聞いていて不快に思うことすらあった。
明朱花が水道の蛇口を捻ってから(愛音たちはトイレ休憩でおしゃべりをしていた)、スカートのポケットからハンカチを取り出して、手のひらを拭う。
「わかりやすいおべっかをどうも」
「おべっかじゃないってば」
愛音より背の高い明朱花は屈んで愛音と目線を合わせる。
「ねぇ、嘘つかないで? ウチのトランペット、下手だと思ってるよね?」
口元も目元も笑っていた。責めている様子はないけれど、本当のことを言えと促している。
愛音は仕方なく、両手を小さく挙げる。
「ごめん。そんなに上手いとは、思っていません。時々、音外してるなぁって気になる時もあります」
「素直に言ってくれて、ありがとう。全く、ウチら親友じゃん。お世辞とかさ、見え透いた嘘なんていらないから」
明朱花は曲がっていた膝を伸ばし、腰に手を当て温厚な顔で笑う。
「うん、ごめん」
「いいの、いいのっ。愛音ほどトランペットが上手かったらさ、お世辞くらい言えないと変にやっかまれちゃうもんねぇ……」
ため息混じりの声の漏らす。明朱花の目が細まり、キュッと口元が締められる。笑っているけど、苦々しい笑顔だった。
愛音は黙る。心当たりがあったからだ。出る杭は打たれる。ことわざの通り、先輩よりも技術のある下級生は、上級生の汚い嫉妬で陰口を言われたり、無視されたりして、打たれてしまう。
吹部は愛音の居場所だった。居場所がなくなるのは嫌だったし、何より演奏に支障を来すのが嫌だったのだ。吹奏楽はみんなで音楽を作り上げる。心の不調はそのまま楽器の音に反映する。それなら、不和はないほうがいいに決まっている。だから、愛音は本音と建前をうまく使い分けていたし、無愛想ながら先輩たちに嫌われないようにアンテナを張り巡らせていた。
かなりめんどくさい。めんどくさいけど、団体に所属するということは、そういうこともこなさなければいけない。愛音は半ば諦めたように人間関係を構築していた。
「でもさぁ……コンクールで金賞狙うなら、ソロは愛音にすべきだと思うんだよなぁ……」
明朱花が再びため息混じりにつぶやく。
「え、いきなりなによ」
「だって、本気の本気で愛音が一番上手いじゃん。中川先生(中学の時の音楽の先生、兼、吹部の顧問だ)も愛音には一目置いてるしさ。でも、年功序列とか言ってソロは三年生が担当するし。そのくせ『全国大会出場』とかいうでデカい目標掲げてるでしょ? 矛盾してるよねぇ」
明朱花が見下ろす形で愛音を見る。愛音を称えるような、吹部に呆れているような、曖昧な眼差しだった。
「まぁ……そうだけど。でも、仕方ないのはわかるよ。三年生は最後の部活で、絶対にソロ吹きたいだろうし。あたしが三年生の立場なら、あたしより上手い後輩がいたとしても『中学最後の大会はあたしがソロを吹きたい』って思っちゃうだろうから」
「そうだけどさぁ……。まっ、ウチ的には全国だろうが、支部だろうが、県だろうが、楽しければなんでもいいんだけどね」
「うん」
「でも、愛音は本気じゃん? みんなが口先だけで言ってる『全国』っていうの、本気で目指してるじゃん?」
「うん、そうだね」
「だよね? 今の吹部の態度って、愛音や、本気で全国行きたいと思ってる部員にすごく失礼だと思うんだよ。『全国』を目標にしてるのに、『全国』のための行動を何一つとれてない。だったら最初から、『全国』なんて言わなければいいのに」
まっすぐな眼差しと、言葉と、思いがドンッと胸にぶつかってくる。その思いがあったかくて、優しくて、じんわりと胸から体中に広がっていった。
普段はふざけてばかりいるのに、友達のことになると熱くなる明朱花が、愛音は大好きだった。明朱花のように、人を思いやることは、口に出すほど簡単じゃない。
「……ホントだよね。最初から全国なんて言ってなければ、期待することもないもんね」
苦笑いをして答える。
全国。全吹部の憧れの夢の舞台。大して練習もしてないそこらの公立高校では、決して届くことのない吹奏楽の聖地。
全国に行きたいと本気で望んでいた。多分、同じ部活の誰よりも望んでいたのだと思う。だから、中途半端に『全国』を目標に掲げる現吹部に嫌気がさしていた。
明朱花はそんな愛音の想いを汲んでくれたのだ。
「ねぇ、ウチらが三年生になったらさ、本気で全国、目指してみる?」
「へ?」
「だからさ、来年、本気で全国目指そうよ。愛音の演奏にはそれだけの価値があるし、ウチも本気で吹奏楽、やりたいの」
明朱花は真顔だった。愛音は目を見張る。まさか、いつも適当に生きている明朱花が、「本気で吹奏楽やりたい」なんて言うとは思わなかったのだ。
嬉しかった。本気で演奏に向き合う仲間がここに一人いる。その事実が愛音の胸を熱くさせた。全国。全国。全国。明朱花と二人なら、全国に行くことは夢じゃないのかもしれない。
そんなバカみたいなことを考えていた。この時から既にボタンを掛け違えていることにすは気が付かずに。
痛い。喉が苦しい。頬が燃えるように熱い。
この日の出来事を思い出すたびに、胸の奥底が疼いて、羞恥で消えたくなる。
どうして調子になんて乗っちゃったんだろう。
胸の奥が疼くから考えたくないもないのに、思考は止まってくれない。後悔の念だけが舌の先に残る。
二年生後半、三年生が引退した吹部で、愛音は部長、明朱花は副部長に選ばれた。愛音は一番演奏が上手いことに加え、自己主張が強かったし、明朱花は人をまとめる能力に長けていた。二人が役職に就くことは、吹部みんなの想定通りだったため、特に異論などもなく、受け入れられた。副部長に白石さんという子もいたが、彼女は良くも悪くも事勿れ主義で、基本的には愛音と明朱花に意見することはなかった。白石さんは、愛音を含めた部員みんなの話を聞く役に徹してくれていたのだ。
そうして迎えた三年生の夏。七月の地区大会を勝ち抜き、県のコンクールの演奏を終えて、愛音たちは泣いていた。金賞だった。でも、俗にいうダメ金(金賞を受賞しても上位大会に出場できない金賞のことだ)だった。しかも、愛音たち以外の金賞の学校はすべて、支部大会に進んでいる。
みんな、泣いた。
静かに、声を押し殺して、唇を思いっきり噛んで、ハンカチを目元に覆って、戦友に抱きついて、泣いた。
「それでも金。みんな、すごいよ。県大会で金賞を取るなんて、すごく久しぶりなんだから。本当によく頑張りました」
顧問の中川先生がコンサートホールの広場の前で、愛音たちに優しく声をかける。
悔しい。すごく悔しい。あんなに、あんなに頑張ったのに。朝も放課後もあんなに……。
けれど、不思議と涙はあまり出なかった。悔しくてたまらなかったけれど、なんとなく金賞を取れないことがわかっていたのだ。
「最後に時松部長、一言をお願いします」
田中先生に促され、愛音はみんなの前に躍り出る。
「みなさん。今日は、本当によく頑張りました。今までで一番良い演奏ができていたと思います。……あたしたち三年はこれが最後の大会だけれど、後輩のみんな、どうかこの頑張りを続けて、悲願の全国大会出場を果たしてください。みなさん、本当にお疲れ様でした」
パチパチパチパチ……。
拍手が鳴り響く。啜り泣く声も聞こえる。その音が大きくなればなるほど、気持ちが冷めていくのを感じた。
みんな、本気じゃなかったじゃない。本気で吹いたり、本気で弾いたりしてなかったじゃない。適当ではなかったけど、全力じゃなかった。下手くそだった。音がぴったりハマってなかった。そんなこともわからないの?
そんな義憤に似た思いが胸にひしめいていたのだ。
今ならわかる。部員みんな本気だったってこと。何人もの部員が本気で全国を望んでいたということ。部員が愛音のスパルタレッスンについて来てくれたこと自体が奇跡だったこと……。すべて、わかる。それに対して本気の「ありがとう」を伝えたい。
でも、一年前のあの時、愛音はかなり驕っていたのだ。だから、みんなの変化に、気持ちに気がつけなかった。
あたしが、一番うまい。なんでみんなそんなに下手くそなんだ。雑談している暇があるなら練習をしろ。なぜもっと上手くなるように努力しないんだ。どうしてそんなにチグハグな音で気持ちよく演奏ができるんだ。なんで音がわからないんだ。あたしならみんなの音がわかる。あたしならみんなに合わせられる。あたしなら……。あたしなら……。あたしなら……。そう、あたしは天才だ。ここにいる奴らとは違う。
練習中、ずっとそんなことばかり思っていた。思っていることは態度に出る。同級生からも下級生からも「部長張り切りすぎ」「練習キツすぎるよね」「全国なんて行けるわけないのに」「全国、全国って押し付けてきて本当ウザい」なんて、陰口を言われた。その度に明朱花が周りを宥めていたけれど、それさえも「明朱花が甘やかすから、みんながつけあがるんだ」なんてバカな勘違いをして、明朱花につっけんどんな態度をとってしまったときもあった。
本当に未熟だった。だから、大会当日も、心の中でみんなを見下してしまったんだ。




