32.輝く未来を(1)
夏休みが明けて間もなく、大きな出来事がいくつかあった。
一つは、愛音と律斗が付き合っていると言う噂が学年中に流れたこと。
おそらくこれは、夏休みを通じて、愛音と律斗の距離感が以前よりも増したせいだ。
お互いがお互いを名前で呼び合い(みんなの前では名字で呼ぼうと思っていたのに、ついすっかり忘れてしまっていた)、朝も放課後も一緒にいる。同じ部活だと主張しても、普段女子を避けている律斗が、女子である愛音と仲良くしている姿から、一組以外の人たちも皆、愛音と律斗が付き合っているという噂を信じ始めていた。
めんどくさいと言えば、めんどくさい。だけど、律斗も他のジャズ研の人たちはもちろんのこと、同じクラスの比較的仲のいい女子たちも、愛音と律斗が付き合っているという噂を気にしていない。幸運なことに、まわりに恵まれているのだ。
二ツ森先輩の掲げるジャズ研の目標は『ジャズを世間に広めること』。これを達成するために、現在、文化祭で演奏する曲の練習だけじゃなく、地域のイベントに出るために、様々な曲を練習している。曲のレパートリーを増やしているのだ。だから、これからも律斗と共にいる時間が増えるだろう。そして、さらに噂の元になる……。
そう考えると憂鬱になるけれど、「いやぁ、愛音と僕が付き合ってるって噂、めっちゃ助かる。この噂のおかげで、告白してくる女子減ったもんな」なんて、呑気に笑う律斗を見ていると憂鬱になっている自分がバカらしく感じられてきたのだ。
それでも、女子たちの視線が痛くて、逃げ出したくなるんだけど……。
「ねぇ、アンタと律斗くんって付き合ってるの?」
夏休みが明けて、何度も何度も聞かれた問いだ。愛音は決まって「付き合ってないです」と答える。それで大抵はやりとりが終わるのだが、今回は違っていた。
「嘘。だって律斗くん、否定しなかったもん」
「え、は? 本当に?」
「うん。付き合ってるのかって聞いたら、『お前には関係ないだろ』ってはぐらかされたの」
ガツンと頭を殴られた気分だった。
どうして? なんで? なんで否定しないの?
愛音は必死に弁明して、そして、その日の部活の時(部室にはピアノがないため、かのん先輩の家で引き続き、部活動をしている)に、律斗に問い詰めた。
「別に否定しなくてもいいだろ。否定したところで噂がなくなるわけじゃないんだし。言いたい奴には言わせておけばいいんだよ」
「否定し続けてれば、いずれ噂はなくなるでしょ? 否定してくれなきゃ、噂はより一層酷くなるんだから!」
「別に僕と愛音が付き合ってるってなったらなったでいいと思ってるから」
「は? なんで」
「僕が誰かと付き合ってた方が女が近寄らなくなるだろ」
ふざけんな。
愛音は拳を握る。
ふざけんな。人間の嫉妬の怖さをこの男は知らないのだ。モテモテの律斗と付き合っている噂が本当だと信じられたら、律斗のことを好きな女の子たちに何をされるかわかったもんじゃない。「なんで地味でブスなアンタが?」「時松さん、調子乗ってるよね」など、酷い言葉を浴びせられ、いじめられる可能性だってあることを、コイツは何もわかっていない。
怒りがふつふつと湧いて、顔が引きつる。
「んふふぅ〜? 律斗くん的には愛音ちゃんとの噂が立った方が幸せだもんねぇ? 周りから固めてく、みたいなぁ?」
かのん先輩が、ニヤニヤ顔で顔を出す。彼女はまだ律斗が愛音のことを好きだと誤解しているのだ。
「え? それってどう言う意味ですか?」
当の律斗はかのん先輩の気持ちを読み込めず、キョトンとしている。
「いいのいいの。気にしないで? ふふっ」
「あ! そうだ! かのん先輩、かのん先輩がいいじゃん!」
「は? 何が?」
「だから、かのん先輩が律斗の彼女ってことにすれば! かのん先輩、めちゃくちゃ美人だし、律斗と釣り合ってるし、非の打ち所がない完璧なカップルじゃん。え、我ながら、ナイスアイデアすぎる」
律斗とかのん先輩が顔を見合わせ、そして、律斗が向き直る。そして、大きくため息を吐いた。
「なにバカなこと言ってんの。先輩のこと巻き込めるわけないだろ。先輩に迷惑もかかるし」
「じゃあ、あたしは迷惑かけてもいいってわけ?」
「同輩だからな。持ちつ持たれつ、だろ」
前から思っていたことだが、律斗は上下関係を重視する傾向にあるようだ。上下関係を意識することは大切だが、その考え方にイラッとしてしまうことがある。今みたいに。
「持ちつ持たれつって……今のところ、あたしにはなんも利点ないんですけど」
「まぁまぁ。二人とも落ち着いて。……いいですか、律斗くん。これからは噂をきちんと否定すること。相手の嫌がってることはしちゃダメだよ。愛音ちゃんに嫌われちゃうよ」
かのん先輩が取りなす。人差し指をピンっと立ててる。こんなときでも可愛らしいんだから、羨ましい。
「嫌われるのは、困るな……。人間関係のゴタゴタはジャズの演奏にモロ響くし」
「でしょ? だから、そう言うことしちゃダメ、わかった?」
「ウッス」
律斗が律儀に頭を下げる。
コイツ、本当、先輩の言うことだけは素直に聞くんだから。……だけど、かのん先輩には感謝だ。これで変な噂は途中で立ち消えるだろう。
「かのん先輩、ありがとうございます」
ピアノまで戻るかのん先輩を追って、愛音も頭を下げる。
「ん? なにが?」
「律斗を嗜めてくれて……。多分、あたしが言ってたんじゃ、いくら言っても聞いてくれなかっただろうから。それと、その……さっきはかのん先輩のこと巻き込んで『かのん先輩とカップルに!』なんて言って、すみません」
「いいのいいの! こういうのも先輩の役目、でしょ? かのん先輩は可愛い後輩ちゃんが二人もできて幸せなんだから」
かのん先輩がピアノの鍵盤を撫でながら、にこりと笑う。
律斗にイライラしたり、自分のトランペットの下手さに辟易したりすることもあるけれど、でも、やっぱりジャズ研は居心地がいい。
二ツ森先輩が「そろそろ合わせをしよう」という声をあげる。それに合わせて、愛音も律斗もかのん先輩も久島先輩も「はい!」と答える。
ジャズも好きだけど、それ以上に、この空間が好きだった。大切にしたいと思った。
よし、頑張ろう。と踏ん張れるのは、この人たちのおかげだ。
だから、頑張ろう。
愛音は金色に輝く美しいトランペットを手に取った。




