30.協調と前進(4)
「ねぇ、愛音」
通し連が終わった後、律斗が声をかけてきた。このところ、律斗に下の名前で呼ばれることに何も抵抗を感じなくなっていたし、愛音自身、律斗と呼ぶことに違和感がなくなった。
「なに?」
「さっきのソロ、めっちゃ良かった。ただ、ソロ終わる時、二ツ森先輩にアイコンタクトしたほうがいいかも。いつもしてるのに、今日忘れてただろ」
「あ、ごめん。思いの外ソロが気持ちくて……」
「まぁ、気持ちはわかる。今日、すごい乗ってたもんな」
「うん。ゾーン入ってたって感じ」
「まじ?」
「あー……ゾーンは盛ったかも。でも、うん。楽しくは吹けたかな」
「そっか。それはよかった。楽しいのが一番だよな、実際」
うん、と愛音は頷き、律斗のぱっちり二重の目を見つめる。本題を促しているのだ。この話は前振りで、本題が別にあることを愛音は悟ってきた。
「えーっとさ、宣伝、進んでる?」
「あぁ……。まだ全然声掛けしてないや」
愛音はサッと目を逸らし、床に置かれていたペットボトルを拾う。宣伝とは、学祭の公演の宣伝のことだ。
ジャズを広めるためには、観客がいてくれなければ意味がない。そのため、自他校関係なしに声をかけてくれと二ツ森先輩から言われているのである。
「だよね。僕も誰にも声かけてないんだよね」
「律斗の場合は、声掛けなんてしなくても大丈夫でしょ」
「なんで?」
「そりゃあ、ねぇ?」
愛音はつま先から頭まで律斗の全身を舐める様に見る。そのことの意味をわかったのか、律斗は体をぶるりと震わせた。
「やめろよ。迷惑害悪付き纏いクソ女たちは出禁にするって決めてんだ」
「出禁って……律斗が勝手に出来ることじゃないでしょ」
「そうだけど、アイツらが聴きにくるって考えただけで、まじで、無理。誘う気もないし、時間とか何も教えないつもりだから」
「ふーん、あっそ」
文化祭は九月の最終週に行われる。金曜日の学生のみの日と、土日の一般公開日の三日間での開催予定だ。ジャズ研は、金曜日と日曜日に、講堂で十四時からの公演予定している。本当は地下ステージでもう一枠取りたかったようなのだけれど、地下ステージではほとんど軽音部たちの独壇場で、ジャズ研の入り込む隙はなかったのだという。さすが、音楽に強い百合蘭だ。披露する場の倍率も高い。そう考えると、十四時といういい時間に、しかも、二日間も講堂での演奏を勝ち取れただけでもすごいことのような気もする。
「中学の奴らはさ、僕がジャズが大好きなことと、ジャズ研があるって理由で百合蘭に行ったことを知ってるから、誘いたいんだけど……」
「だけど?」
「ちょっと口が軽いところがあってさ、クラスの女子に伝えなくても、アイツらの姉貴とか妹とかに伝えると思うんだ……。そこからどんどん僕がジャズをするってのが広まって……」
「考えすぎだよ」
律斗の顔色がかなり悪い。おそらく、友達の姉妹に色々とされたのだろう。イケメンに生まれるっていうのも、案外大変なのかもしれない。
「考えすぎとかじゃなくて、本当に大変なんだって! ……というわけで、僕は中学までの友人を誘えないから、集客は愛音に頼みたくってさ……」
顔色が悪いまま、律斗が本気で懇願してくる。縋るような眼差しだった。
「そんなこと言われても。あたしだって友達が多いほうじゃないし、たくさんの集客は無理だよ」
「君たち、わかってなぁい!」
突然の声にギョッとして、思わず体がのけぞった。にょきっと二ツ森先輩が愛音と律斗の間に割って入ってきたのだ。
「ふ、二ツ森先輩、突然出てくるのやめてください。びっくりするじゃないですか」
「仕方ないだろう。ジャズ研存続に関係のある話なんだから」
「ジャズ研存続?」
律斗が尋ねた。
「そうだ! 講堂は全生徒が入るぐらい広い。その会場がジャズ研の演奏の時だけ、スカスカだったらどうなる? そう、ジャズ研の信用度がなくなり、ジャズの評判も地に落ち、そして、オレたちの野望であるジャズを広めるという大義が失われることになるのだ!」
二ツ森先輩がわざとらしく両手を上げる。口調もどこか劇風だ。
「というわけで、君たちはあらゆる知人に勧誘の連絡をしなさい。これは強制です。律斗もです。わかりましたか?」
「うげっ……」
「じゃ、よろしく!」
二ツ森先輩は言うだけ言うと、久島先輩とかのん先輩の元へと行ってしまった。律斗が頭を抱えている。
「……大丈夫?」
「無理。大丈夫じゃない。二ツ森先輩の野望は叶えてあげたいけど、女たちが観に来るなんて嫌すぎて、ゲロ出そう」
「大袈裟」
「いや、ガチで」
律斗が「ウェッ」とえずいた。
「ちょっと、あたしの前で吐かないでよ?」
「人が本気で具合悪いのに薄情なやつ」
「だって、吐かれるの嫌だし」
律斗の理由とは違うけれど、中学の友達を誘いたいけど誘えない気持ちは痛いほどわかる。愛音も中学の頃の友達(ほとんど吹部の子達だ)を誘う気はなかった。というより、誘う勇気がなかった。
なぜなら、中学の友達は皆、愛音がまだ百合蘭吹奏楽部でトランペットを頑張っていると思っているから。
明朱花から『百合蘭、支部大会出場決定おめでとう!』という連絡が来たが、肯定も否定もせず、適当に流してしまっている。
ジャズ研に入ったことに引け目はない。だけど、過去の愛音を知る人物に言うことは憚られた。
挫折したって思われたくない。あれだけ威張っていたのに愛音の実力が百合蘭で通用しなかったんだって、と陰口言われるのも嫌だ。
我ながら、醜いプライドと小さな自尊心だと思う。だけど、この気持ちにうまく折り合いがつかないのだ。
それでいいの? ジャズが好きになったのに、胸を張ってジャズをやってるって言えないなんて、悲しくない?
そんな自分自身の声が、愛音の体の内に広がり、響く。
そんなこと言われても、言えないよ。
愛音が愛音を否定する。
この宙ぶらりんな状態が苦しかった。気持ちに折り合いをつけたかった。今回が、折り合いをつけるためのチャンスなのかもしれない。
休憩を終えた愛音は内なる自分の声に耳を傾けながら、トランペットの練習を続けたのだった。




