3. 捨ておいた過去(3)
愛音が初めてトランペットに興奮を覚えたのは、今から七年前、九歳の時だった。桜が美しく散る春休みのある日、両親に連れらて観に行ったオーケストラのコンサートで初めてトランペットの音を耳にした時、金色に煌めく風が吹いたのだ。
トランペット奏者が演壇の一番前に立ち、主旋律を吹く。
圧倒的存在感。圧倒的に美しい音色。
緩やかで柔らかな旋律を一人で奏でている。藤色の美しいドレスに身を包んだ奏者もトランペットも煌めいて、輝いて見えた。
テンポの速い曲調から、ゆっくりの曲調。高い音から低い音。壮大さも繊細さも華やかさも柔らかさも……たくさんの顔を持つトランペットに魅了された。誘惑された。全ての音を任されたトランペットはオーケストラの中にいる王子様のように思えた。
うまく言葉にできないけれど、胸をグッと締め付けられて、うまく呼吸ができなくなる。愛音の体は奏者に釘付けになり、いつの間にか前のめりで曲を聴いていた。お母さんに「こら、後ろの人が見えなくなっちゃうでしょ」と言われた言葉も耳に入ってこない。
目も耳も体も心も、全てトランペットに奪われててしまった。スッと頬に温かいものが流れる。胸の奥がざわめく。苦しい。痛い。それでいて、幸せだ。
魔法だと思った。奇跡だと思った。
愛音は一瞬にしてトランペットの虜になった。
コンサートが終わって、両親と洋食レストランに行った際、愛音があまりにも興奮しすぎて、お母さんもお父さんも若干引いていたことを覚えている。
「すごいんだよ! ラッパのお姉さんがふぅーって口を膨らませると、世界がきらきらって輝くの! それでね!」
目の前にある大好物のお子様ランチに手もつけず、愛音は話す。
「みんながラッパに合わせて後ろで音を取るの! いろんな音があったけど、やっぱり愛音の一番はラッパ!」
「こらこら、スプーンを持って暴れない。早く食べないと、ご飯が冷めちゃうぞ?」
呆れたようにハンバーグを口に含みながら、お父さんが愛音を制する。
「まさか、愛音がこんなに音楽好きだとは思わなかった。しかもかなりの熱狂っぷり。やっぱり、私たちの子ね」
お母さんはコンソメスープを飲み下し、笑った。
「私たちの子って、どういうこと?」
「お父さんもお母さんも、ああいうオーケストラや楽器を使うコンサートが大好きなんだ。だから、愛音の名前も愛の音って書いて、愛音って名付けたんだよ。音楽を愛するように、音楽から愛されるようにって、そういう願いを込めて付けたのさ」
「音楽を……愛するように……。音楽に……愛されるように……」
「あぁ、そうだ」
お父さんの明るく優しい口調に、つられて笑顔になってしまう。自分の名前の由来を初めて聞いた。素敵な名前の由来だと思う。世界は音で溢れている。誰かが料理を作っている時の温かい音も、顔を洗っているときに流れる水音も、高速道路から聞こえるうるさいエンジン音も、誰かの喋り声も、全部、音だ。全部、音楽だ。このことに気がついたのは小学六年生くらいの時だったけれど、九歳の時の愛音も名前の由来に心がときめいた。音楽に愛され、愛す。音楽と相思相愛な関係。なんて素敵なのだろう。なんて誇らしいのだろう。歌い出したくなる気分だった。
だから、
「それってすごくいい名前。あたしの名前ってすごく素敵!」
辺りも気にせず、大きな声で喜んだ。お父さんとお母さんはぱちぱちと数度目を瞬かせ、お互いの顔を見合う。そして、ニコニコと愛音のことを包み込むような優しい笑顔になる。
「そう言ってもらえると、お母さんもお父さんも、すごく嬉しいわ」
お母さんはそう言った後、白無地のナフキンを手に取り、優雅な所作で口元を拭う。
「ねぇ、愛音もラッパ、やってみる?」
何を言っているのか理解ができなかった。オムライスを口に運ぼうとしていた手を止める。
「へ?」
「ラッパよ。正式にはトランペットって言うんだけどね。……うちの家の近くに、お母さんの知り合いがやっている小さな音楽教室があるの。そこで、トランペット習ってみる?」
「トランペットを……習う……」
そんなこと考えてもいなかった。
「もし、愛音が本気で習いたいと思っているなら、お母さん、トランペットのお姉さんに頼んであげるよ」
眼前に先ほどのコンサート風景が広がる。眩いばかりに光る金色のトランペットとスポットライトを浴びて淡く輝く藤色ドレス。その美しいドレスを身に纏っているのは、愛音だ。
あたしが、舞台の中心でトランペットを吹く。
「……やってみたい。愛音、トランペット、やってみたい」
知らずうちに握り拳を作っていた。お母さんをまっすぐ見つめて懇願する。お母さんはあっさりと頷いた。
「よし! そしたら、お母さん、マユコお姉さんに連絡とってみるね。お父さんも、いいでしょ?」
「もちろんだ! まさか愛音がトランペットをやりたいだなんてな。お父さんもトランペット、やりたかったんだぞ? 血は争えないといったところかぁ……」
「なにしみじみとしてるのよ。お父さんはトランペットをやりたかっただけで、一度も吹いたことないじゃない」
「まぁ、そうだけど、お父さんの心は歴とした奏者なんだよ」
「なによ、それ」
お父さんとお母さんが和やかな雰囲気で和気藹々と笑い合う。空気が緩んでいた。優しかった。それの雰囲気に当てられて、愛音の気持ちはより昂ってしまう。
体内が震え上がり、心臓がバクバクと音を立てる。
あたしが、トランペットを吹く。あたしが、世界を煌めかす魔法をかける。
ワクワクした。ソワソワした。
自分の胸元をギュッと握る。
あたしはトランペットをやる。
それからすぐに、愛音は真弓子先生にトランペットを教えてもらうこととなった。お父さんに買ってもらった新品のトランペットを持って、真弓子先生の自宅へ週に一回通う。真弓子先生はふくよかで、地味目な女性だった。けれど、真先生さんがトランペットに口をつけた瞬間、真弓子先生はキラキラと輝き出す。やはり、トランペットは魔法の楽器なのだと九歳の愛音は興奮した。
愛音のトランペット生活は小学校の頃が一番輝いていたように思う。真弓子先生が褒め上手だったため、自信を持てたのである。初めてマウスピースで音を出せた時は「こんな短時間で音が出せるなんてすごい。素質あるよ」と褒め、トランペットで何か音を出せば「舌の上げ下げが上手だね。綺麗に音が出てるよ」と演奏が好きになるような声かけをしてくれた。今思えば、愛音のトランペットの技術は飛び抜けてすごいわけではなかった。真弓子先生の持ち上げ上手さと、的確なアドバイスで人並みに上達していっただけだ。
何度も言うが、愛音のトランペット生活は小学生の頃がピークだったのだ。だから、高校でここまで落ちこぼれるなんてこと、想像もできなかった。