29.協調と前進(3)
その日から久島先輩は以前よりもほんの少し(愛音の自意識過剰からくる勘違いかもしれない)、ジャズ研の活動にやる気を出しているように思える。
元々周囲をよく見て発言することのできる先輩だったが、今までよりも積極的に(愛音の尺度だが)発言し、部員たちに気遣っている気がする。
だから、今だって下手くそだと思い込み悩んでいるかのん先輩に、ぶっきらぼうながらも、励まし送っている。
真面目で、優しい人なのだ。部員みんなを何かと気遣っている。
久島先輩の優しさも真面目さも周りがよく見えるのも、才能の一つなんだと愛音は密かに思っていた。
「みんながわたしを評価してくれているのはわかりました。だけどね、二ツ森くん。毎回毎回『ジャズを理解されるためにオレたちジャズ研が——』って話をするのやめてくれない? しかも、その話ずっと続けるじゃん。時間の無駄だと思うんだけど」
かのん先輩が呆れた口調で言う。
「それは俺も同感。曲の理解度を深めるためって言うなら、その前振りはいらないよ」
「いやいや。士気を上げるためにも、目標設定やスローガンについて話し合うのは大切だろ?」
「大切だとしても、長すぎって言ってるの。ちらっと話して終わりでいいじゃない。それなのに、毎回ジャズの歴史とか、ジャズが日本に浸透していないこと嘆いたりとか、とにかくお話が長くて練習時間が削れてるの。熱血なのは二ツ森くんの長所だけど、欠点でもあるよね」
「そ、それは言い過ぎだろ? みんな、うんうんって聴いてくれてるじゃないか! なぁ? 律斗?」
「えっ、僕ですか?」
「うん。いつも真剣に話、聞いてくれてるよな?」
「そうですね。僕は奏真先輩の蘊蓄とか好きなので楽しく聞けてますけど……。部全体の話で言えば、蘊蓄の時間を減らしてもっとセッションを増やした方がいいかなと思います」
「律斗まで……! 時松さんは? 時松さんはオレの話聞きたいよな?」
「あたしも楽器に触れる時間を増やした方がいいと思います」
食い気味に言う。二ツ森先輩がガクリと肩を落とした。
「クソ、ここにはオレの味方はいないのか……」
「あ、でも、最初の頃はいろんな話聞けて、面白かったですよ」
愛音はフォローを入れてみる。それに律斗が続いた。
「そうですよ。さっきも言ったように、僕は二ツ森先輩の話を聞くのが好きですから」
「そうだねぇ。最初の頃は、わたしもジャズのことを知るのに二ツ森くんの話をありがたく思ってたよ。最近は同じ話ばっかりしたり耳タコになってきたってだけで」
「そうそう。毎日同じ話でむさ苦しいのと、練習時間が欲しいってだけで、お前の話がつまらないわけじゃないんだ。それに、奏真が思ってるよりもずっと、ここにいる連中はちゃんと、ジャズが好きだよ」
「みんな……。そうだよな! もうオレに言われなくても、みんなジャズのことを好きになってるんだもんな! オレ、みんなのこと信頼してるつもりだったけど、信頼が甘かった」
二ツ森先輩は何度も真顔で首肯し、愛音たちの顔を一人一人しっかりとみる。
「みんな、ごめん!」
深々と頭を下げる。とことん素直で、裏表がない先輩だ。だから、きっと、みんな二ツ森先輩に文句言いながらもついていくんだ。
「わかればよろしい」
かのん先輩の声が広い部屋に響く。それは細波のように広がって、部屋中に柔らかい空気感が広がる。大きな窓から部屋に入り込む夏の暑い日差しも関係しているかもしれない。
「さて、それじゃあ、練習を始めようか!」
二ツ森先輩が手を叩いた。それを合図かのようにみんながフカフカなソファーから立ち上がる。愛音も相棒のトランペットを手に、みんなと共にピアノのある部屋へと歩みを進める。
あたしは紛れもなく、ジャズ研の一員だ。
そう感じる。最初は尻込みしていたのに、今やトランペットを吹くことが楽しい。下手くそだと自覚しているのに、自由で、楽しくて、たまらない。気ままな鳥になったみたいだ。
もっと吹きこなしたい。もっとこの子の良さを引き出したい。
向上心が愛音の顎を上げさせる。間もなく、夏休みが明け、本格的に文化祭の時期に入る。吹奏楽部はすでに県大会を勝ち抜き、支部大会への切符を手に入れたのだという。きっと吹部の皆からすれば、文化祭は全国大会までの繋ぎにすぎないだろう。もしかしたら、繋ぎですらないかもしれない。百合蘭の吹部の部員数はかなり多い。そのため、選抜じゃない子たちが演奏できる場として、文化祭の舞台を利用する可能性も十分考えられる。
練習部屋に着いた。相変わらず豪華絢爛で圧倒されるような部屋だ。そんな中で練習する愛音は、お嬢様になったみたいでとても心がワクワクした。
そっとケースを開けてみる。きらりとトランペットが煌めく。
吹部に劣等感を感じないと言えば、嘘になる。
だけど。
あたしはあたしのいる場所で音の翼を羽ばたかせるんだ。あたしは、あたしらしくトランペットを吹くんだ。
愛音は一抹の不安を吹き飛ばすように、マウスピースに口をつけた。
「ジャズはさ、格式高くてハードルの高いジャンルの音楽だって思われてるんだ。オレはそれを払拭したい」
ほとんど毎日のミーティングで、二ツ森先輩が言っていることだ。
愛音は二ツ森先輩の発言に、概ね同意している。愛音もジャズ喫茶でジャズを聴くまで、ジャズは初見さんお断りの、狭い世界で構築されているものだと思っていたからだ。
「もちろん、ジャズファンやジャズ奏者に閉鎖的な部分が……それなりに、あることも認めよう」
二ツ森先輩が苦々しく笑いながら、首元を触る。
「『ウィスパーブルー』のメンバーは何でもありの奏者だからマイルドだけれど、ジャズに強いこだわりがある人も多いんだよ。俺たちはそういう人たちに嫌われてるしね」と、以前、奥谷さんも言っていた。
「オレはそれじゃあ、いけないと思うんだ。音楽はみんなに開かれてあるべきものだ。閉鎖的でいたら、ジャズは衰退の一途を辿るだけだよ。オレはそんなの絶対に嫌だ。だから、オレはジャズ奏者やファンに邪道だと言われても、みんなが楽しめるようなジャズをやりたいって思う」
愛音も二ツ森先輩のその言葉を胸に練習をしている。奏者も楽しくて、みんな(それがジャズを知らない人でも)も楽しい。それが理想だと、愛音自身も思うからだ。
ジャズの楽しさは即興にある。もちろん、それだけじゃないことを今の愛音は知っているが、それでも、即興がジャズの醍醐味であるのは事実だ。だから、元の曲を知っていれば、より一層ジャズは楽しくなる。どこがアドリブで、どこが主旋律なのか。それを知っているだけで、楽しむ幅が格段に上がるのだ。
故に、今回の演奏曲はジャズらしい曲である『モーニン』と今を駆け抜ける話題のアニメ曲『シングルアイス』なのである。
「頑張ろう」
愛音は小さい声でつぶやいて、マウスピースに唇を当てる。
今回、『シングルアイス』のメロディを吹くのはサックスの二ツ森先輩。だけど、サビでは愛音が主旋律を、二ツ森先輩がハモりを担当する。緊張する。即興も緊張するけれど、みんなが知っている歌のサビを一人で担当することがとても緊張する。
間違えても言い訳が効かない。全て自分の責任。
ファンッ。音が外れる。
その度に毎回身がすくむ。誰も愛音を見ない。
今は通し練。外れても曲は続いていく。
丁寧に、大胆に、しっとりと、ゆっくり、激しく……。
コロコロと変わっていく音たちに愛音は翻弄される。奏者はコンダクターでなくてはいけないのに。
まだどこか手探りで、音はおぼつかない。
だけど、時々、音がピッタリと合うことがあるんだ。
みんなの意図していることがわかり、手が勝手に動いていくとき。
愛音のトランペットの音で、サックスの音が綺麗に引き立ったとき。
ソロ前のアドリブで、ピアノが、ドラムが、コントラバスが、サックスが、トランペットの発散を許したとき。
その瞬間、最高に気持ちがいい。
頭の中に、ステージが、観客が浮かび上がる。
スポットライトを浴びて、一人、トランペットを吹いているのだ。
瞬間瞬間の快楽を、愛音は知った。
音楽をやってる限り、この快楽は絶対に、忘れられないだろう。
——吹奏楽は複数の楽器で一つの音を作るもの。独りよがりでは絶対にいい音は作れない。きちんと音を合わせるには周りとうまく協調しなきゃ。
——愛音ちゃんは周りの音が聞けてないの。まずはパートのみんなの音を聞いて。
渚先輩の声が頭の中でこだまする。
協調が大事なのはわかっていても、劣等感で上手く協調することができなかった。同年代の上手い人の音なんて聴けないと思ってた。
でも、協調するって、共鳴するって、こんなに気持ちいい。
音を聴くって、最高に面白い。
全体の中に自分がいる。自分の音が存在している。みんなの音が存在している。
初めて一緒に演奏している人たちを“仲間”と感じることができた。
これからももっとたくさんの曲を一緒に演奏したいと思った。
すべてジャズが教えてくれた楽しいことだ。
ジャズって、本当にすごい。このすごさをみんなに伝えたい。
愛音の中にそんな感情が芽生え始めていた。




