27.協調と前進(1)
季節はゆっくりと、けれども着実に、変化を人々に与えながら過ぎていく。
暖かく湿った風が吹き、青空には白く大きな雲がむくむくと盛り上がって、お盆が過ぎてもまだまだ暑い夏を讃えている。室内にいれば、彩り豊かに見えて美しい景色が、一歩外に出た瞬間、牙を向く。湿気の含んだじっとりと気持ち悪い暑さと、モヤがかった空気が体全身を灼くのだ。
八月の下旬。あと少しで学校が始まる夏休みの終わる頃。愛音たちは本格的にジャズの練習に取り掛かっていた。
有名な曲がいいだろうということで、ハード・バップを代表するアートブレイキーの『モーニン』と、今、世間で流行っているJPOPアーティストの曲『シングルアイス(アニメのOP曲だ。アニメをあまり見ないと愛音でも知っているほどに流行っている)』をアレンジすることになった。
「『シングルアイス』のリズムは四ビートでジャズを特徴づけるリズムだ。ジャズはいろんなところに溶け込んで、今ではジャズのリズムを聴かない日はないくらいだ。だけど、世間的にはそれがジャズだと理解されていない。その状況を打破するために、オレたちジャズ研が一役買いたいと思っている」
いつものように、熱い口調で語る二ツ森先輩に久島先輩がだるそうに聞き、律斗がうんうんと頷いて、かのん先輩はひたすらにリズムを取り続けている。いつもの光景だ。
「そういう御託はいいよ。はやくピアノ弾きたいからチャチャっとミーティングは終わらせて」
光が窓から燦々と注いでいるのに暑さを感じないかのん先輩ん家の応接室で、かのん先輩が気だるそうに呟く。
「なに言ってんだよ! イメージ作り、曲へのアプローチの仕方、弾く楽曲への理解……どれもジャズを演奏する上で大切なことだ。楽器を通じてコミュニケーションを取るのも大切だけど、言葉でコミュニケーションを取るのも大切なんだよ!」
二ツ森先輩が鼻を鳴らしながら、熱弁する。
「それはわかってる。わかってるけどさ、わたしはみんなと違って、ジャズは初めてなの。アレンジとかみんなの呼吸にうまく合わせられないの。楽譜通りじゃないと、うまく弾けないから、ついついリック(ジャズでよく使われる短いフレーズのことだ。リックばかり繰り返しているのパズルみたいで機械的だとリックに対して批判的な人もいる、らしい)に頼っちゃうし……。だから、少しでも使えるリズムやリックを増やして、体にジャズの演奏法を染み込ませたいの」
「平柳がそこまでやる気を出していることに、オレは今、とても感動している……!」
「それはどうも」
「しかぁし!」
二ツ森先輩が大声を出す。かのん先輩が反射的に耳を塞いだ。
「熱心なのはいいことだが、ジャズは一人で練習してどうにかなるもんじゃない。ジャズは瞬間の音楽だ。一瞬一瞬の間に最善の選択を選ばなきゃいけない。ジャズは一人で家で練習するだけじゃダメなんだ。人と合わせて、その瞬間、なにを考え、いつ、どう演奏したらいいか、話し合い、そして、実演できなくちゃダメなんだよ」
「そうは言うけど、わたしはまだみんなと合わせるレベルにも達してないの。わたしはジャズができてない……。他人に聞かせられるレベルじゃない。ド下手くそのド下手くそ。全然ダメ。だから」
「なに言ってんの? 高校生なんだから下手くそなのは当たり前じゃん」
かのん先輩に反論したのは久島先輩だ。かのん先輩は視線を動かし、久島先輩を見る。
「ある程度しっかりできてないと人前でできないって感覚、捨てちゃっていいと思うよ。そりゃ、上手く弾けたら、そっちの方がいいけどさ、俺たち高校生なんだから、限界があるでしょ」
「そう、だけど……」
「それに、平柳は自分が思ってるよりジャズができてるよ。メロディーはしっかり弾けてるし、コードもしっかり読めてるし、アドリブの基礎も抑えられてる。なにより、ジャズの曲が弾けてるし。十分、ジャズやれてるよ。だからあとは、一緒に音を作り上げるだけ。一人でやる座学の段階は超えてるんだよ」
久島先輩があまり通らない声で、かのん先輩に語りかける。
「平柳、日常生活はゆるっゆるなのに、ピアノに関して厳しすぎ。俺たちはプロじゃなくてアマチュアなんだから、もっと気楽にやっていいんだって」
「そうは言っても……」
「濱さんだって、平柳の技術を褒めてたじゃない。自信持ちなよ」
濱さんは以前、ブルーセッションで演奏していたピアニストだ。愛音たちジャズ研は以前ブルーセッションで演奏していたグループである『ウィスパーブルー』に特別コーチをお願いしている。なんと、久島先輩の叔父さんがウィスパーブルーのコントラバス担当なのだ。そういった強いパイプにより、ジャズ研はタダでプロのコーチングを受けることができている。
愛音のコーチをしてくれるのは、奥谷輝正さん。あのキレッキレのかっこいいトランペッターの人だ。
初めてのジャズ、初めてのアレンジ、初めての即興。ジャズ研に入部した愛音は、今のかのん先輩以上に、尻込みした。
楽譜からはみ出るなんて、今までやったことがない行為だ。ピアノの演奏と同じで、吹奏楽で重要なのは個を出さず、譜面通り吹くこと。しかし、ジャズは真逆だ。具体的な楽譜はなく、コードだけが渡される。コードだけで、上手に吹けるわけがない。アドリブができるわけがない。
だって、あたしは天才じゃないのだから。
ジャズを選んだ時点で、ある程度、吹っ切れたつもりだった。だけど、まだ引きずっている。うじうじしてしまう。自分には才能がないと自分で自分を責めてしまう。そんな自分が嫌で、情けなくて、嫌いだ。
だけど、それを含めて『時松愛音の音』になるのだと、奥谷さんが教えてくれた。
「いいかい。音楽はね、その人の生き様が出る。だから、面白い。いろんな人がいていいんだ。いろんな気持ちがあっていいんだ。自分で自分のことが嫌いでもいい。そうやって自分自身を受け入れたときに、時松さんだけの音が生まれる。感動を生み出す。そういうものなんだよ、音楽って」
そうだろうか。
愛音にはわからない。何年も吹奏楽一筋だった愛音は、他の三人に遅れをとっているし、音楽的センスだって、多分ない。そんな愛音でもいい音が出せるだろうか。
十五歳の愛音にはわからなかった。だけど、ちょっとだけ心が軽くなった気がする。
愛音だけの音。愛音だけしか出せない音。
いつかそれを表現できたらいいと心から思う。
「ま、自分らしい音を出すためにも基礎練は大切だ。ジャズの初歩の初歩から俺が教えるから、大船に乗ったつもりでいてね」
「はい!」
大きく頷く。
ジャズと吹奏楽ではトランペットの音の出し方や、軸となる音が全く違う。
最初に奥谷さんに教えられたのは、五度圏表を使ってコード練習をするやり方だ。吹奏楽のトランペットで大事になるコードはB♭、それに対して、ジャズでよく使われるコードはCだ。だからこそ、Cでコードを読む練習をしなくちゃいけない。
難しいのはそれだけじゃなかった。吹奏楽部では「拍の頭を強くしなさい」と言われたり、「裏拍遅れるの厳禁!」と言われたりするが、ジャズはこれまた正反対。裏拍にアクセントを入れるのが大切になってくるのだ。
これがまたすごく難しい。小学校の時も、中学の時も、クラシックやビッグバンドを想定して練習してきた。おおよそ六年間、ずっとだ。ほとんど無意識に、癖のように拍の頭を強くしてしまう。音の頭よりも音の尻尾を大切にするということも意識しないとできない。
慣れや癖を改革するのは大変だ。
意識して、意識して、意識して、それでも間違える。それでも、うまく吹けない。完璧じゃなくていいとは言われても、アクセントのタイミングやコードで戸惑っていては、みんなに合わせるという段階にすら、いけない。
今までも音を意識して吹いていたつもりだったけど、それだけじゃ足りない。
難しい。吹奏楽部にいた時よりも下手くそになってしまった自分のトランペット技術にうんざりする。ここでもまた、天才じゃないことを再認識させられてしまう。
最悪だ。本当に最悪だ。
それなのに、楽しいと思っている自分がいる。
プロトランペッターの奥谷さんから直々にコーチをしてもらっていること、新たなトランペットの一面を知ることができること、そして、下手ながらも上達していく感覚が久しぶりに味わえたこと……。
その全てが愛音の心をワクワクさせる。成長しているという実感を得たのは、本当に久しぶりだった。成長は自信につながる。程よい自信は愛音の演奏をよりよくする。まぁ、中学の頃の愛音は自信が行きすぎて過信になり、成長することを辞めてしまったのだけど。
初めはアドリブと言われて戸惑っていた愛音も八小節をきちんと意識し、アプリを使いながらコードトーンの練習をして、少しずつアドリブができるようになってきた。もちろん、一朝一夕とはいかない。本当に少しずつ、だ。プロと比べれば浅いアドリブ。それでも、みんなとのセッションでうまくアドリブを入れられたときはとても気持ちがいい。
かのん先輩は愛音よりも遅く(といっても、一、二週間くらいの差しかないのだが)始めた。それでも、基礎力が違うのか、かのん先輩の方が上達が早い。その日教えられたことは全て吸収するかのように、前日にできていなかったことが、次の日にはできるようになっている。ジャズが大好きな二ツ森先輩や、生まれた時からジャズが体に染み込んでいる久島先輩に「ジャズの基礎ができている」と言わしめるくらいなのだ。
それなのに、まだ足りないとかのん先輩は宣う。
すごい。本当にすごい。ストイックで努力家で、かっこいい。
愛音は知っていた。かのん先輩が部活を終わった後、家でずっとピアノに齧り付いていることを。かのん先輩が部活終わりに愛音に言ったのだ。
「あーぁ。ダメダメだぁ。やっぱり、五時間の練習じゃ足りないのかなぁ……」
かのん先輩が頭をかいた。
「えっ、かのん先輩、五時間も練習してるんですか?」
「うん。部活の前と、部活の後で、だけどね。でも全然、ダメだなぁ……」
「すごいですね」
愛音は感心した。
部活が終わり、男性陣がかのん先輩に出されたジュースに夢中になっているときに、かのん先輩の独り言に反応したのだ。眩い夕陽が差し込むピアノ部屋でのことだった。
「すごくないよ。これでも足りてないくらい。もっともっと練習する時間を捻出することだって、できるのに……」
かのん先輩は悔しげに下唇を噛む。美しい顔が夕陽に照らされ、オレンジ色になる。儚さの中に力強さを感じられる表情だった。
あぁ、住んでる世界が違うんだ。
そう思った。この人は努力する才能がある人。ひたむきにピアノに打ち込める才能のある人。努力を惜しまないでできる人。
どれも愛音が持っていないものだ。そりゃ、愛音だって努力はしている。練習もしている。だけど、それはかのん先輩の足元にも及ばない。部活のある日は、練習してもせいぜい二時間くらいが限度だし、それ以上は体力的にも精神的にもできないのだ。だからといって、嫉妬はしない。だって、努力できることだって、才能の一部だということを知っているから。自分には直向きにトランペットに向き合うことはできないと、愛音は知っているから。




