26.表現方法の違い(4)
「律斗くんみたいなこと、考えたこともなかった。わたしはいつも、どうやったら父親の影から抜け出せるのか、そんなことばっかり考えてた気がする。父親の権威を選択肢の一部にするなんて、考えもつかなかった」
「マジですか? 先輩が先輩のお父様のことをどう思っているのかは僕にはわからないですけど、でも、恵まれた環境にいるんですから、利用しないなんてもったいないと思うんです」
「利用する、か。そんな簡単に割り切れたらいいんだけどね……。でも、そっか。ストレートで藝大に入ることに拘らなくても、いいのか」
かのん先輩は儚く笑うと、短い髪の毛先をいじる。
「とか言いつつ、ストレートで入れなきゃ、プライドはズタボロになって、メンタルも死んで、生きる屍みたいになっちゃいそうだけど」
かのん先輩が膝の上に両手を揃える。ピシッと姿勢を正す。そして、深々と頭を下げた。とても美しい所作だった。
「二人とも、不甲斐ない先輩の戯言に付き合ってくれてありがとう」
「うわっ、やめてください! 顔を上げてください! 憧れの平柳先輩に頭を下げられるなんて、僕の気持ちが許しません」
「そうですよ。かのん先輩、頭をあげてください」
そもそも、あたしは何もできてませんし……。
喉から出そうになった言葉をキュッと飲み込む。自分を否定する言葉は相手に気を遣わせてしまう。今は、かのん先輩のターンだ。愛音のことで気を遣わせてしまうのは、違う。
「あはは、二人ともありがとう」
かのん先輩は顔を上げ、ふわりと笑った。
「まだどうするかは決められないけど……なんとなく、道筋が見えてきた気がする」
「……ってことは、先輩、ジャズ研に来てくれるんですか?」
「律斗、急すぎ。どうするか決めてないって言ってるでしょ。短絡的な律斗にはわからないかもしれないけど、人には考える時間ってものが必要なの」
「は? 僕は短絡的じゃないけど。短絡的なのはどちらかというと愛音だろ?」
憎まれ口を叩き合う。律斗を『律斗』と呼ぶことにも、『愛音』と呼ばれることにも、この数時間でだいぶ慣れてしまった。人の慣れというのは本当に恐ろしい。
「って、あの、平柳先輩……。ちょっと、トイレをお借りしたいんですが……」
「あっ、ごめんね。またわたしったら気が利かなくて……。えーっとね、この部屋を出て、階段を通り過ぎた右手にトイレがあるよ。エレベーターが見えたら右って覚えとけば大丈夫」
「あざす」
律斗がぺこりと頭を下げ、そそくさとリビングから出ていく。かなり我慢していたのだろう。一度も愛音たちの方を見なかった。
「律斗くんってさ、意外と二ツ森くんと似てるよね」
律斗がドアの外へと消えた途端、かのん先輩がくすりと笑う。
「そう、ですかね?」
「うん。口が悪くて不器用で小狡い二ツ森くんって感じ」
「……それ、二ツ森先輩に似てるって言えるんですかね」
「言えるよ。ジャズが好きっていうところも、真っ直ぐに向き合ってくれるところも、言葉と行動が先走っちゃうところも、そっくり」
「うーん……そうかなぁ……」
愛音は腕を組んで考える。二ツ森先輩と律斗が似ているなんて思えない。二人は全く重ならないのだ。
「ま、二ツ森くんと違って、律斗くんは愛音ちゃんにカッコつけてるもんね。あれは確実に惚れてますな」
「へっ? そんなわけないじゃないですか。からかわないでください」
かのん先輩がテーブルをぐるりと回り、隣に座る。かのん先輩が愛音の顔を覗き込む。完璧な造形の目が愛音の瞳を捉えた。
「おやおや、当事者の愛音ちゃんは気づいてないわけですか。初々しいですのぉ……」
「初々しくなんてないです。律斗があたしのこと好きなんて絶対の絶対にありえないですから」
「そうかなぁ? 結局、律斗くんはなんだかんだ理由をつけて、わたしのことをかのん先輩って呼んでくれないし、極度の女嫌いだし、下の名前で呼んでる女の子なんて愛音ちゃんくらいしかいないんじゃないの? 愛音ちゃんは、特別、なんだよ」
かのん先輩は『特別』を強調して言った。
「もうっ、そんなわけないじゃないですか。そもそも、惚れられるほどの時間を過ごしてないですし」
「愛音ちゃんはわかってないなぁ。恋愛っていうのは時間じゃないの。直感とトキメキなの」
「おまたせしました……って、二人して何してるんです?」
トイレから戻ってきた律斗が、不思議なものを見るような眼差しで、愛音とかのん先輩を見る。
「ふふ。ガールズトークだよ。だから、律斗くんには内緒」
かのん先輩が口元に人差し指を添えて、笑った。
愛音と律斗は息を呑んだ。二人してぴたりと動きを止める。かのん先輩のピアノに動きを止めさせられたのだ。息をすることも忘れて、かのん先輩の奏でるピアノの音に聞き惚れる。心も、視線も、耳も、体も、全てがかのん先輩に注がれる。かのん先輩以外の全てが生死する。時さえも止まったようだ。重苦しく悲痛を訴えるような音が耳から、皮膚から入り込み、沁み入り、包んで、身も心も揺るがされる。そんな音色だった。
「ショパンの革命のエチュード……」
律斗の口から言葉が落ちた。
革命のエチュード……。この曲のタイトルだろうか。
律斗に尋ねようと思ったけれど、うまく口が回らない。愛音の体全てがかのん先輩のピアノに囚われていた。
うねるような激しさと、怒りと、寂しさと、痛みと、力強さと、繊細さが入り混じった曲だと感じた。
重い。苦しい。呼吸が荒くなる。一つ一つの音に思いが乗っている。有名な曲だから、曲調は知っている。でも、以前聴いたものとだいぶ違う気がした。激しさが繊細さを凌駕し、愛音に襲いかかってくる。
こんなに重くはなかった。激しさもこれほどまでに感じなかった。
後半にかけて音が柔らかになる。柔らかになっても激しかったのだけれど。
リズムに合わせて波打つかのん先輩の金色の髪が光を浴びて煌めく。
かのん先輩って、こんなにかっこよかったっけ?
かのん先輩の姿そのものが、芸術だった。
その時、かのん先輩の動きが止まる。
魔法を解かれたように、愛音と律斗は動き出す。パチパチと拍手をする。かのん先輩の体がこちらを向いて、頭を下げた。拍手がより一層大きくなる。
「あはは。恥ずかしいな」
かのん先輩が顔を上げて、照れたように笑う。そこにはかっこよさは消え失せ、可愛らしさの塊があった。
「すごく、すごく上手だったです」
うまく声が出なかった。興奮で一瞬で喉がカラカラになっていた。たった二分くらいの曲だったのに、永遠に感じられた。
すごいな。かのん先輩。律斗が聞き惚れてしまうの、めちゃめちゃわかる。
「本当に上手いです。本当に……」
「ありがとう。これでも全然、まだまだなんだ。まだまだ実力が足りない。楽譜とちゃんと向き合えてない。でも……」
かのん先輩が胸元をぎゅっと握りしめる。
「ちゃんと楽譜にも、自分にも、向き合ってみようって思う。いろんな選択肢について考えてみようって思う。二人とも、今日は来てくれてありがとう。すごく助かりました」
そう言って笑うかのん先輩の表情は晴れやかだった。
かのん先輩の家から駅に向かう途中、隣を歩く律斗はかのん先輩を褒める言葉ばかり吐いていた。愛音もうんうんと、相槌を打つ。
「平柳先輩は本物の天才だよな」
「うん」
「天才であり、努力家なんだって思う。だって、あの革命はめちゃくちゃ難しい曲なんだよ。それをあんな風に表情豊かに表現できるなんて、きっと僕なんかが想像もできないほど努力してきたんだ」
「うん」
興奮冷め止まぬ勢いで、いつもよりも早口かつ大きな声で、話し続ける。目がキラキラと輝いて、大好きなおもちゃを前にした子供みたいだ。
「平柳先輩がジャズ研に来たら、僕達の演奏の幅がかなり広がる、そう思わない?」
「そうだね」
「だろ? だけど、その天才に飲み込まれたくないよな。僕達も頑張って技を磨いていかないと」
「だねぇ」
「あぁ! 平柳先輩とセッションするの、楽しみだなぁ」
「……あのさ、水を差すようで悪いんだけど、かのん先輩はジャズ研に来るとは限らないんだよ? ジャズじゃなくてクラシックを選ぶかもしれないじゃん」
「うん。わかってる。でもさ、ジャズじゃなくてクラシックを選んだってことは、平柳先輩の気持ちが固まって、腹が決まったってことだろ? つまり、クラシックを選んだら選んだで、平柳先輩の最高のクラシックピアノが聴けるってわけだ。どっちに転んだとしても、楽しみだ。あぁ、早くかのん先輩のピアノが聴きたいよ」
律斗が目を細め、オレンジ色の空に視線を彷徨わせる。それはかのん先輩に恋焦がれている表情に見えた。
かのん先輩。どうやら先輩の読みはハズレみたいですよ。律斗が惚れてるのは、きっと——。
愛音と律斗の影が駅に向かって伸びていた。
次の日、基礎練中にかのん先輩がジャズ研の部室に現れた。見慣れないジャージ姿で。部室がざわめく。
「さぁ、みんな! 基礎練が終わったら、わたしの家に行くよ!」
かのん先輩が高らかに声を上げる。誰もが目を瞬き、顔と顔を見合わせる。
「ほら、聞いてるの? ピアノは持ち運べないんだから、みんながピアノに合わせて行動してくれなちゃ困るよ!」
かのん先輩が笑う。優美で気品溢れるコロンの香りが鼻をくすぐった。




