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25.表現方法の違い(3)



「ありがとう。……わたしね、ジャズピアノをやりたくないわけじゃないんだ。むしろ、やってみたいって気持ちが強くて、幽霊部員をやってるんだ」


 どういうこと?と、頭の中に疑問符が浮かぶ。「ジャズをやりたいのに、ジャズ研に来ない」という二つの関係性が結びつかない。だけど、人間の感情が単純ではないことを愛音は知っている。トランペットを本当は吹きたいのに、その感情に蓋をしなければ生きていけない時期があった愛音だからこそ、かのん先輩にも何か事情があるのではないかと察することができた。


 かのん先輩は穏やかだ。口調は落ち着き、凪いでいる。愛音にできることは、かのん先輩の言葉にただ耳を傾けること。


「わたしね、小さい頃からずっとピアノをやっていたの。お父さんの影響でね。……わたしのお父さん、指揮者なんだ。今はドイツのミュンヘンにいるの。わたしはずっとクラシックに囲まれて生きてきた。わたしもお母さんも、音楽が好きだから、音楽と共に生きることは全然苦だとは思わなくって、むしろ、この生活にすごく満足してるんだ」


 言葉とは裏腹に、かのん先輩の顔は少し苦い。


「わたしもゆくゆくは音楽の道に進みたいと思ってるの。お父さん的はわたしのそんな願いを知っているから、今すぐにでもわたしをドイツに呼ぼうとしてるみたいなんだけど、お母さんがそれを嫌がって……。わたしのお母さん、ドイツ人なんだけど、日本の方が暮らしやすらしいの。日本人のお父さんがドイツにいて、ドイツ人のお母さんが日本にいるって、なんだかおかしいよね」


 くすくす、とかのん先輩が笑う。


 やっぱりハーフだったんだ。透き通るような金髪も、ちゅるんと潤む茶色の瞳も、天然物で美しいお母様からの授かり物なのだろう。


 正直、羨ましい。愛音が授かったものなんて、湿気でうねる癖の強い髪と、カラコンでさえ全く映えない真っ黒な瞳だ。色素が薄いかのん先輩に妬ましさをほんの少し感じてしまう。


「それで、どうしてジャズピアノをやろうと思わないんですか。先輩は音楽が好きなんですよね?」


 律斗がかのん先輩を見つめる。その後、麦茶を口に含んだ。カランと氷とガラスがぶつかり合う音が鳴る。


「……それは、クラシックとジャズの性質が真反対だから」


 かのん先輩は身を引きながら、膝の上で指を組む。指を遊ばせながら、ふっと息を吐いた。


「真反対?」


「うん。クラシックでは、演奏に自我を出してはいけないの。作曲家の『想い』に忠実に演奏すること。わたしはそれがクラシックをやる上で一番大切だと思ってる。人様の楽曲を借りて演奏するわけだからね。人の楽曲で自分を表現するなんて、作曲家さんたちにすごく失礼でしょう?」


 かのん先輩は自身の指を切なげに見つめる。伏せる表情は霧のように深く、神秘的に見えた。


 そして、かのん先輩は顔を上げる。真剣な表情で愛音と律斗の顔を交互に見た。


「それに対してジャズは、自我を全面に出して、自分のやりたいことを、気持ちを、音を、楽曲の解釈を広げて表現するものでしょう。『作曲家』という枠を自分から取り払って、新たな表現を構築する……。ね、クラシックとジャズは正反対。演奏方法が真逆なの」


「……なるほど。クラシックの世界にいる先輩には変革を好むジャズに抵抗がある、と」


 律斗の言葉にかのん先輩が「ん?」と首を傾げる。子犬みたいだ。


「だから、平柳先輩はクラシックを冒涜するジャズをけしからんと思ってるんですよね?」


「え、そんなこと思ってないよ? むしろ、ジャズはすごくカッコよくて、わたしもやってみたいって思ってるくらいなんだから」


「じゃあ、どうしてやらないんですか?」


「さっきも言った通り、クラシックとジャズは全く違うの。自分というものを消して演奏するクラシックと、自分というものを最大限に出して演奏するジャズ……。ずっとクラシックの畑にいたわたしが、ジャズを演奏することが出来るのかって不安なんだよね」


 かのん先輩が麦茶の入ったグラスを手に取り、クルクルと回す。コロコロと音を立てる氷の音が心地いい。


「先輩、あんなにピアノ上手いのに? それなのに、不安なんですか?」


「うそっ。律斗くん、私のピアノ聴いたことあるの?」


「はい。入学式の日、音楽室で弾いてましたよね。その時、先輩の音を聴いて、僕は一目惚れならぬ、一聴惚れしたんです」


「うっわぁ……。恥ずかしい。吹奏楽部の人たちがいないからって調子に乗ったのが間違いだったなぁ」


 先輩が照れたようにはにかむ。


 律斗が聞き惚れるほどのピアノ……。あたしも聴いてみたかった。


「あんなに上手いのに、どうして不安なんですか。不安になることないじゃないですか」


 かのん先輩はゆるりと首を振る。そして、麦茶をすすった。


「律斗くんは買い被りすぎ。わたしなんて、全然だよ。コンクールで金賞を取ったとしても、親の七光りって陰口言われるような人間なんだ。だから、わたしは寄り道なんてできない。クラシックから離れることができない。人より努力して、自分の実力を誇示できなければ意味がないそれなのに、もし、もし……ジャズなんかに現を抜かして、自分そのものを表現する方法を知ってしまったら、わたしはクラシックが弾けなくなるかもしれない。藝大に入ることすらできなくなるかもしれない。わたしは怖いの。クラシック界に戻れなくなることが。家族の期待に背いて、クラシックから離れることが」


 胸の奥がきゅるきゅると疼く。かのん先輩の恐怖が胸の内に入り込んでくる。


 わかる。怖いんだ。


 未知への恐怖。知ることの恐怖。向き合うことの恐怖。


 知るということは心や感情を変化させる。好きなことに執着すればするほど、変化が怖い。好きだったものが好きじゃなくなるのも、変わってしまうのも、全部怖い。だから、知りたくない。知ってしまったら、否応なしに変化するしかなくなってしまうから。


「先輩、そんなことを言ってる時点で、ジャズをやりたくてたまらないんじゃないですか?」


 愛音の思索を止めたのは、律斗の混じり気のないまっすぐな声だった。


「やりたいなら、あれこれ考えずやってみたらいいじゃないですか」


 律斗の言葉は、これ以上ないほど明快だ。


「ちょっと、律斗。かのん先輩の話聞いてなかったの? そんな簡単な話じゃないの。かのん先輩にとってはジャズをやるかどうかで、人生が変わるんだから」


「そんなこと言ったら全部の選択がそうじゃん。僕が百合蘭に入学したことも、吹部じゃなくジャズ研に入ったことも、こうしてかのん先輩の家に愛音と来たことも、全部僕の選択だ。一個一個の選択で、僕たちの人生は変わっていってるんだよ。そんなこと、アホな愛音でも、考えたらわかるだろ?」


「一言余計」


「いでっ」


 律斗が苦痛の声を上げる。愛音が肘で小突いたのだ。


「いったぁ……。なにすんだよ」


「律斗があたしのことバカにするからでしょ」


「してないよ。愛音も平柳先輩も、考えても仕方ないことでウジウジしてたから、喝を入れただけ。二人ともウジウジウジウジ、そっくりすぎるだろ。やりたいならやる。やりたくないならやらない。それでいいじゃん」


「だから、物事はそんな単純じゃないの。やりたい、やりたくないだけじゃ、選べないこともあるんだよ」


 本当に?


 愛音の声が愛音の中に響く。


 本当に、そうなの?


「選べないんじゃなくて、選ぼうとしてないだけだろ。まったくさぁ……」


 律斗がぶっきらぼうに言った後、威儀を正した。律斗の視線の先にいるかのん先輩も居住いを直す。


「平柳先輩」


「はい」


「先輩って、お金持ちですよね」


「はい……って、んん?」


「お金持ちなら、余計に自分がやりたいことを選んでいいんじゃないですか。もし、ジャズをやって、クラシックに戻りたいと思ったら、戻ればいい。音大受験だって毎年やってるでしょう? かのん先輩はお金持ちだから、ジャズ研のせいで一年遅れをとったとしても、浪人しても問題ないでしょうし。それに、お父様が指揮者ならコネでもなんでも使ってやればいい。平柳先輩はそういうことができる家に生まれたんですから、活用しない手はないと思うんですけど」


 律斗の配慮のない物言いに、愛音はたじろぐ。かのん先輩もまた目を白黒させている。この男はなんて無礼なんだ。そう思うのに、意気地なしな愛音は口を挟むことができないでいる。


「あ……いや、でもわたしは……。親のコネとかそういうの使わないで、自分の実力で……事を成したいというか……」


「だから、もしもの話ですよ。ジャズを選んだって、平柳先輩の前には豊富な選択肢があり続ける。僕や愛音みたいな一般庶民とは違って、たくさんの選択肢があるんです。それに、親のコネとか、親の七光りで、何が悪いんですか? この世界は努力だけで全てがうまくいくわけじゃない。運だって重要なんです。運だって才能のうちなんです。平柳先輩は音楽家の、しかも、有名な指揮者の子供として生まれたんだから、かなぁーり、運がいいんです。それも、先輩の実力のうちです。普通の人は易々と手に入れられない大きな後ろ盾がある。だから、不安なんて思わずに、やりたいことをやったらいいって思うんですけど」


 毅然とした態度で喋り続ける律斗の言葉には、説得力があった。本気の言葉だ。律斗は心を許した人には本気になる。表面だけの、外面を整えた当たり障りのない付き合い方ではなく、本気でぶつかってくるのだ。


 とても眩しいのに、痛い。


「ねぇ。さっきから失礼だよ。かのん先輩の家にはかのん先輩の家なりの事情ってものがあるんだから、そんな決めつけてズケズケと入り込んだらダメでしょ」


 愛音の声が震える。まさか自分でもこんなに震えるなんて、思わなかった。まっすぐな言葉は痛いのだ。痛すぎて、自分を覆いたくなって、当たり障りのない言葉を吐いてしまう。


 愛音の言葉に答えたのはかのん先輩だった。


「愛音ちゃん、フォローありがとう」


 かのん先輩の声も震えて響く。



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