24.表現方法の違い(2)
地獄の坂を下り、電車に乗り、いつもは通過してしまう駅で降りる。かのん先輩からもらった住所を地図アプリに打ち込み、それを頼りに歩く。
真夏の日差しがアスファルトを反射して、足元から熱気が立ち込める。今年は猛暑になりそうです、とお天気キャスターが言ってたけれど、毎年の「猛暑になる」と言っている気がする。酷暑ではない、涼やかな夏なんて存在するのだろうか。もしあるなら、体験してみたい。
暑さでぼんやりとする頭でそんなことを考える。
「お、ここじゃね?」
と、律斗が足を止めて戸建て住宅を指差す。大きな家だった。通りかかった時に、ふと足を止めたくなるほどの美しい家だ。坂道に立つその家は、二段構造になっており、一階には木目調に塗られたシャッター付きガレージに、高級そうに見えるツヤツヤした木製っぽいドア。下から見上げると、広々としたバルコニーと、開けた庭が見える。
「……もしかしなくても、かのん先輩ってお金持ち?」
ごくりと息を呑む。律斗がわかりやすく呆れた。
「気づかなかったの? 住所見た時に気づくでしょ。この辺って金持ちばっかが住む地域なんだし。ていうか、百合蘭に通う生徒なんて大抵お金持ちだと思うけど。女子校時代は有名なお嬢様私立学校だったんだから」
気がつかなかったし、知らなかった。
地理や地域のことなんて微塵も興味がないし、百合蘭は吹奏楽部が強いという情報しか耳に入ってこなかった。愛音は意外にも自分のこと以外、無頓着なのだ。
お金持ちとか、お嬢様とか、別にどうでも良くない? お金持ちだからとか、そういうレッテル貼りはしたくない。
そんな風に考えていた。だけど、いざ、大きな家を目の前にすると、驚いてしまうし、尻込みもしてしまう。
「なにぼーっとしてんの。いくよ、愛音」
律斗に腕を引っ張られる。律斗は空いている方の手でインターフォンを押した。
「はーい!」
ザビザビする電子音と共に、かのん先輩の麗らかな声が響く。それと同時にドアの施錠音が聞こえた。
「開けたから入って!」
ドアを開け、大きな玄関から足を踏み入れる。真っ白な壁に、真っ白な床。折り返し型の階段には、中世ヨーロッパを彷彿とさせる優雅なアイアンの手すりには、小さなランプが取り付けられており、オシャレでインテリアの一部となっていた。一階から三階まで突き抜ける天井には豪華なシャンデリアがぶら下がっている。あまりにお城っぽ過ぎて、愛音はあんぐりと口を開けた。
そのとき、トタトタと階段を降りてくる音が聞こえる。かのん先輩が階段の踊り場で立ち止まり、愛音たちを見下ろす形で手を振った。
「二人ともいらっしゃーい! 上がって上がって! そこにあるスリッパどれ履いても大丈夫だからねー!」
愛音と律斗は「お邪魔します」と丁寧にお辞儀をして、置いてある毛皮っぽい茶色のスリッパに足を入れる。ふかふかで柔らかい。が、夏の暑い時期にこのスリッパは足が蒸れて最悪だと思った。お高そうなスリッパが汚れてしまうのではないかと、ヒヤヒヤしてしまい、気が気でない。
二人はかのん先輩に促されて、二階へと上がっていく。
「わぁ……!」
思わず声が漏れ出てしまう。目の前にドドーンと広がる大きな部屋たち。目の前には、白と茶色がうまく調和した広いダイニングキッチンと、大きな謎の円柱の先には、ピアノの置かれた不思議な空間がある。重厚なカーテンが取り付けられた大きな窓からは、眩いばかりの光が差し込み、閉塞感のないこの部屋は開放的で、風通しが良いように感じた。
「すごく、素敵な家……」
愛音の口から感嘆の言葉が出る。かのん先輩が左手の大きな扉を開けながら、照れくさそうに笑う。
「そうかな? めんどくさい作りの家だと思うけど。あそこのエレベーターは邪魔くさいし、この装飾も仰々しいっていうか、わざとらしいっていうか……。お母さんの趣味が高じて、こんな家になったらしいんだよね。わたし的にはもう少しシンプル家がいいんだけど」
あの謎の円柱、エレベーターなんだ。
愛音は無意識に頷いた。エレベーターがついている家を初めて見た。かのん先輩が扉を開けた先を覗き込む。愛音は目を見張った。
白い石面調の床と、アンティーク風なテーブルに、フカフカなソファー。テーブルの下にはきめ細やかでクラシカルな柄が特徴的な分厚いラグが敷かれていた。大きな窓からは広い庭園が見え、風に揺られる緑がとても美しい。
ここはリビング? それとも応接室?
優雅で、お洒落で、しなやかで、見るものの心を奪うこの部屋は、居心地が悪かった。
そわそわして、落ち着かないのだ。
部屋に足を踏み入れれば、透明感溢れる上品な香りが、愛音の全身を包み込む。洗練された芸術作品のような部屋に、ガサツな愛音は受け入れてもらえないような気がした。
急にお腹が満たされ、感情が閉塞される。かのん先輩は根っからのお嬢様で、お金持ちなのである。非日常っぽいこの家は、かのん先輩にとって日常の家なのだと考えると、住んでいる世界が違うという言葉を身に沁みて感じてしまう。
「愛音ちゃん、なにぼーっとしてるの? ほら、座って」
かのん先輩と律斗はふかふかで心地良さそうなソファーに座り、愛音のことを見つめている。愛音は大きな扉を閉めてから、部屋に圧倒されているのを勘付かせない自然な動きで(自分では自然だと思っているけど、もしかしたらぎこちなかったかもしれない)律斗の隣に座る。体がふわっとソファーに沈み込んだ。あまりに柔らかな感触に目をぱちくしりしてしまう。
「うわっ。今の愛音の顔、魚が餌を待ってる時みたいなアホみたいな顔になってて、おもろ。うわぁ、写真撮ればよかった」
「はぁ? なにそれ、うざ。そんな顔してるわけないじゃん」
多分、してた。自覚している。だけど、反論する。律斗にバカにされたように笑われるのは、愛音の心情が許さない。
「驚いた。二人とも、いつの間にそんなに仲良くなったの? 律斗くんが愛音ちゃんを名前呼びしてることにも驚きだよ」
愛音と律斗の様子を見ていたかのん先輩が、今度は大きな目をぱちくりさせる。愛音はほんの少し気恥ずかしくて、密やかに目を伏せる。
幽霊部員のかのん先輩は愛音と律斗が仲良く部活動をしている姿を見たことがない。むしろ、律斗が愛音に暴言を吐いている姿の方が印象深いはずだ。だからこそ、かのん先輩が愛音に対する律斗の態度を見て、驚愕するのもわかる。愛音自身もまさかここまで律斗と仲が良くなるなんて思ってもなかった。
それでも、恥ずかしい。男の子と下の名前で呼び合うなんて小学校ぶりだし、犬猿の仲だと思われていた相手と親しくしている姿を見られるのは、かのん先輩の『時松愛音』像からはみ出しているみたいで、むず痒い。愛音は良くも悪くも、誰かの想像の枠からはみ出したくないのだ。
「二人が仲良くなって、わたしはすごく嬉しい……! 律斗くん、えらいぞぉ!」
「愛音は無害だって気がついたので。僕だって分別があるんですから、女なら誰でも彼でも嫌いになるわけじゃないですよ」
「そうかもだけどぉ、愛音ちゃんを下の名前で呼ぶってことは、律斗くん、愛音ちゃんに気があるんじゃないのぉ?」
「まさか! 僕が江幡って呼ばれるのが嫌だったので、お互い下の名前で呼び合うことにしたんです。こんな芋くさい女に気があるわけないじゃないですか。もし、平柳先輩が僕のことを『江幡くん』って呼んでたら、平柳先輩にも下の名前で呼んでくれって頼んでましたよ」
「でもでも、わたしのことは『平柳先輩』って呼ぶでしょ? わざわざ下の名前で呼ばないじゃない? でも、愛音ちゃんのことは『愛音』って呼ぶ。……つまり、それって」
涼しく快適な部屋にいるおかげで引いていった汗が、嫌な汗となり背中に噴き出てくる。
恥ずかしい。やめて欲しい。律斗があたしに気があるなんてこと、絶対ないんだから。
心の中でかのん先輩にツッコミを入れる。喉がカラッと乾いてきた。
「それは平柳先輩が先輩だからですよ。僕なりに気を遣ってるんです。奏真先輩と弓弦先輩は名前で呼べって最初に指定されたので、そう呼んでるだけで」
律斗は照れることなく、事実だけを淡々と応える。この人は人の心に鈍感というか、大雑把というか、適当なやつだ。愛音が恥ずかしがっていたのが、バカみたいに思えてくる。律斗は誰にどう見られているとか、キャラとか、わくからはみ出るとか、なにも気にしていないのだ。だったら、愛音も変に気にしなくていいのではないだろうか。学年一の美少年と名前で呼び合っていても、気にせず飄々としてればいいのではないだろうか。
……いや、無理だな。
考えてみて、すぐに否定する。小心者の愛音は律斗のように図太く生きられない。
「ふーん。そうなんだ。つまんないの。……って、わたしったら、やだ。お茶とかなんも出してなかった! ごめんね。今すぐ用意するから。えーっと、オレンジジュースとリンゴジュース、麦茶と牛乳があるけど、なにがいい?」
かのん先輩がサッと立ち上がり、大きな扉に向かいながら尋ねる。愛音と律斗は麦茶をお願いして、かのん先輩が戻るまで待った。その間、二人は感嘆の声を上げ続けた。互いに、立派で豪勢な大部屋をキョロキョロと見回し、唸ることしかできない。窓から見える夏らしい清々しい緑が、吹き渡る風に波打ち、外の暑さを呼び起こさせる。
「お待たせ。はい、麦茶。気が利かなくてごめんね。後輩呼んだのなんて初めてだからさ、テンパっちゃって」
先輩がコースターとお茶が並々入ったガラスコップを愛音と律斗の目の前に置く。
「えっ、そうなんですか?」
律斗が言う。かのん先輩も愛音たちの反対側のソファーに座り、笑いながら答える。
「うん、そうだよ。というか、後輩という存在ができたのが、今回が初めて。中学の時はピアノを弾ける部活がなくて、帰宅部だったから。百合蘭学院中等部には、オーソドックスな部活しかなかったし、ね」
「かのん先輩って百合蘭中等部出身なんです?」
「あれ? 愛音ちゃんに言ってなかったっけ? 律斗くんは知ってたよね? これでも中等部生の女の子です。ま、中等部生は一学年に五十人くらいしかいないから、レアではあるよね」
百合蘭は高校からも入ることができる中高一貫校だ。だから、中学から百合蘭に通う生徒もいるが、百合蘭の中等部は狭き門であることで有名だった。中高一貫校では珍しく、中学受験よりも高校受験に力を入れている学校なのだ。そのため、中等部からエスカレーター式で上がってくる生徒はかなり少ない。ただ、中等部からの生徒と、高等部からの生徒の学力の差が著しくなってきて(中等部の生徒の方が授業が進んでいるのだ)、中等部の受験に特化させ、高等部からの受け入れがなくなるんじゃないかという噂がある。噂程度で本当かどうかはわからないのだが。
「そんなこんなで、律斗くんと愛音ちゃんは初めての可愛い可愛い後輩ちゃんなのです! わたし、中学の時から後輩ちゃんを家に招くのが夢だったんだ……! それで、勉強会とか秘密の特訓とかするの。ふふ、楽しそうでしょ?」
かのん先輩が無邪気に笑う。愛音は首肯した。
「楽しそうです。あたしも初めて『先輩の家』というものにお呼ばれしたので、緊張します」
「へっ、そうなの?」
かのん先輩が間の抜けた声を出す。
「そうですよ。先輩が家に後輩を招待するってあまり聞いたことないですもん。あたしも後輩を家に招いたことないですし」
「うっそぉ! だって、アニメとかドラマとかだと先輩後輩が仲良くなって、お家行き来してたりするじゃん!」
「それは創作物の中の話だけですよ、平柳先輩」
かのん先輩の瞳がわずかに揺れる。理想が崩れてショックを受けているみたいだ。
「そうなんだ……知らなかった。でもでも! 後輩を家に招くっていうわたしの夢は叶ったわけだから、それが普通のことじゃないとしても関係ないよね!」
かのん先輩が太陽に負けないほど明るい笑顔でニッと笑う。
かのん先輩の笑顔は可愛すぎて、心の殺傷力が高い。愛音は瞬きもできないまま、かのん先輩を見つめていた。この屈託のない笑顔に惚れない人はいないのではないだろうか。
「それで、どうして僕たちを家に招いてくれたんですか? 後輩を招くのが夢ってだけで、呼び出さないでしょう?」
惚れない人間がここにいた。それもそうか。律斗自体が美しくて可愛くてかっこいいの権化なのだ。毎日鏡の中の美を見るおかげで、美に対して耐性ができてしまっているのかもしれない。
「あはは。バレちゃった? 実はね、ジャズ研のことで相談したいことがあるの。本当は二ツ森くんとか久島くんに相談したいところなんだけど……彼らは中立じゃないというか、ジャズに肩入れしすぎているところがあるから、相談できなくって」
かのん先輩の頬に朱が差す。目尻が心持ち下がったようだ。
「僕も割とジャズに肩入れしてる方だと思いますけど……」
「律斗くんはわたしがジャズをしないと言っても、決してわたしを丸め込もうと思わず、わたしの決定を受け入れてくれるでしょう? 愛音ちゃんは最初、ジャズやる気なかったみたいだし。相談相手にはぴったりかなって」
愛音と律斗は顔を見合わせてから、かのん先輩に頷く。
「話、聞きます」
二人の声が重なる。




