21.ジャズ研と同輩と(4)
「えっと、あの……」
もごもごと愛音が呟くと、「ん」と、顎で机を指す。座れ、ということらしい。
愛音は素直に腰をかける。一体なんなんだろう。何が始まるというのだろう。
「ごめん」
「へ?」
「だから、ごめん」
江幡が唐突に謝った。下へ下へと沈み込むような暗い声だ。視線は泳いでいる。
なにがごめんだというのか。今までの無礼な態度? それとも、他の何か? 愛音が考えていると、
「僕、キミに割と酷いことを言った。勝手に決めつけて、酷い態度をとった。だから、ごめん」
「あぁ……」
納得した。
きっと、かのん先輩あたりに謝れと諭されたのだろう。これから仲間になるのだからわだかまりはない方がいい、とかなんとか言われて謝っているのだ。
心のない謝罪は腹が立つ。普段の愛音ならば受け入れない。だけど、もしかしたら、ジャズ研に入るかもしれない。それならば、謝罪を受けて、穏便に済ませた方がいいかもしれない。意味のないところで、角が立つのは嫌なのだ。
「ごめん。急に二人っきりになって、謝られても困るよな」
「……まぁ、うん」
「僕が二ツ森先輩に頼んだんだ。このままだとギスギスしそうで嫌だから、謝罪の機会を設けてほしいって」
「え、アンタから頼んだの?」
「うん」
意外だった。まさか江幡から謝罪をしようと思っていたなんて。
「なにその『アンタも謝ることあるんだ』みたいな顔。僕だって悪いと思ったら謝るし、罪悪感にもかられるよ」
「……アンタって自分のイケメンさを鼻にかけてるうざい男だけの男じゃないんだね」
「ちょっと、時松さんもだいぶ失礼でひどいこと言うよね? 僕もキミに謝ってもらいたいくらいなんだけど」
「アンタが前にひどいこと言ってきたから返してるだけ。売り言葉に買い言葉ってやつ」
「はぁ。なんでもいいけど」
端正な顔がため息を吐く。眉間に皺は寄っていなかった。気を抜くと敵意のない江幡の美しい顔に、見惚れてしまいそうになる。
「とにかく、ごめん。僕、女は全員敵だと思ってて、時松さんも例に漏れず敵認定してた。だけど、そこまで悪い人じゃないのかなって、今は……思ってる」
さっきから歯切れが悪い。謝っているというのに、全く視線が合わない。視線があったのは、さっき愛音に言い返してきた時だけだ。
「ふぅん? 女は全員敵だと思ってるアンタがどうして、心変わりしたわけ?」
江幡の黒目がスッと縦に動いて、愛音を見た。心臓がどきりと跳ねる。澄んだ美しい瞳を真剣にぶつけてくる江幡にトキメキを覚えてしまいそうだった。
愛音はほんの少し体を引いて、江幡から若干距離をとる。
「時松さんのジャズを聴く姿が本気だったから」
江幡の言葉は力強いのに微塵も尖っていなくて、敵意などこれっぽっちもなかった。
「えっと……それは、つまり?」
まっすぐな目に身じろぐ。歯切れが悪いのは愛音も同じだ。
「時松さんは本当に僕に興味がないんだってわかったんだ」
教室の外が騒々しくなる。どこかの部活の団体が部室の前を歩いているのだ。明るい声、しゃがれた声、笑い声、生徒たちの楽しそうな声が空き教室を包む。そして、台風のような騒がしさが去ってから、江幡は再び口を開いた。
「僕ってこの容姿だろ? 昔っから、女にモテちゃってさ」
「それ、自分で言う?」
「事実だからね。嘘ついても意味ないし。とにかく、僕はモテる。そのせいでたくさん困ってきた。初対面の女に告白されるなんてザラだし、僕が行く場所すべてについてくる執念深い女たちがいるんだ。僕が百合蘭に行くからってついてきた中学の同級生もいるんだぜ? ありえないだろ」
ひどく不快そうに“女”を強調して江幡は言葉を紡ぐ。たしかに、ありえない。自分の進路を「好きな人がいるから」という安易な理由で決めるなんて、愛音には考えられなかった。しかも付き合ってもいないのに、よくそこまで熱心に執着できるなと感心すらしてしまう。そして、ストーカー紛いの被害に遭っている江幡に対しても同情心が湧いた。
「それは大変だったね」
「かなりな。僕はさ、ずっと女につきまとまれて生きてきた。それは百合蘭に来てからも同じ。アイツら、僕がジャズ研に入るって知った途端、ジャズも楽器も興味がないくせに、ジャズ研に押しかけてきたんだ」
江幡の目尻がひくりと動いた。整った顔が醜く歪み、嫌悪でいっぱいになる。
「奏真先輩は大喜び。名も知られてないジャズ研にこんなに入部してくれるなんてってさ。でも僕は耐えられなかった……」
愛音はなるほどと、小さい声で呟いた。だから、愛音が初めてジャズ研に顔を出した時(校外での課外活動だったけど)、不愉快そうな顔をしたのだ。愛音も江幡を追っかけてきた女の子だと思い込んで。
「最初は大歓迎ムードだった奏真先輩もさ、僕の気持ちを察してか、『ジャズ研を始めるならまずは楽器を買ってもらう!』とか『毎日筋トレ、毎日朝練、帰宅後は自主練!』とか、初心者には厳しい課題を出してさ……。それで、ほとんどの女は根を上げて辞めていったんだよね」
ドアの向こうに気配がある。ドアの小窓から先輩たちがそば耳を立てているのだろう。江幡はそれに気がついていないようだ。
「多分、平柳先輩で慣れてたんだと思うんだよね。ほら、あの先輩もずば抜けて美人だろ? 去年も平柳先輩目当ての男がわんさか入部したらしい。まぁ、平柳先輩の場合は、平柳先輩が幽霊部員だったのもあって自然と部員が減っていったらしいけど」
江幡がはっと鼻で笑う。苛立って仕方がないという様子だ。
江幡が好きな女子にも、かのん先輩が好きな男子にも悪意はないのだろう。彼女らが持っているのは仄かな恋心と純粋な好意だ。けれど、押し付けがましい好意は、時に人を攻撃する。人に重しを与える。悪意がない分、余計に扱いづらい。恋人いない歴イコール年齢な愛音でもそれくらいはわかる。
「女どもは楽器が高い〜とか、こんなに練習するなんて〜とか、音符読めな〜いとか、バカみたいなこと言って辞めてったよ。なかなか辞めてくれない人もいたけど、僕が無視し続けたら心が折れたのかいつの間にかいなくなってた」
絶対に無視しただけじゃないでしょ。
そう言ってやりたかったけれど、苛立っている江幡にそれを言ったら火に油な気がして、口をつぐんだ。
愛音にもしてたように心無い言葉を女の子に浴びせ続けたであろうことは容易に想像ができる。
江幡はやはり性格が悪い。女を心からバカにしているのも伝わる。仲良くなるなんて絶対に無理。
だけど、性格が悪いのにはそれなりの理由があって、性格が悪くなってしまった分だけ、江幡が苦しんできたのもわかる。もし愛音が江幡と同じ立場だったら(大好きでずっと続けてきたトランペットを辞めた愛音のことだ)、もっともっと捻くれて、異性だけとは言わず、人との関わりをやめてしまっていたかもしれない。その方が楽だし、めんどくさくないからだ。
江幡の気持ちはわかった。だから、これからは江幡に強く当たらないようにしよう。もちろん、向こうが喧嘩をふっかけてこない限り、だけど。
「そんなこんなで、時松さんがジャズ研に来るって聞いた時、またかって思ったんだよね。しかも今度は吹部出身ときた。楽器は持ってるだろうし、百合蘭の吹部にいたくらいだから、スパルタ練習も慣れてるのが予想できる。だから、どうやって追い出せばいいかって本気で悩んだんだ」
江幡は姿勢を整え、まっすぐに愛音を見つめなあと、深々と頭を下げる。
「マジで、ごめん。勝手に勘違いして、勝手に酷い態度をとって、勝手に暴走した。マジでごめん。今までつらつら言ってたのも言い訳みたいだけど、ホント、悪気があったけど、悪気はなかったんだ。本当にごめんなさい」
予想もしていなかった本気の謝罪に、愛音が慌てる。
「ちょ、顔をあげてよ。確かに最初は腹だったけど、別にそこまで怒ってないし、そんな謝らなくていいから」
「……本当に?」
頭を軽く下げたまま、目線だけを上げる。前髪から覗く瞳が上目遣いになっている。江幡の幼い顔がより幼く見えた。
「うん。まぁ……アンタのこと、いけ好かないとは思ってるけど、言われたこととか特に気にしてないし。これからの行動を改めてくれれば大丈夫だから」
「よかったぁ……」
江幡が姿勢を崩す。ほとんど椅子にもたれかかっていた。
「マジでよかった」
あまりの安堵っぷりに愛音の頭にクエッションマークが浮かぶ。
「なんでそんなにホッとしてるの」
「いや、このままジャズ研に時松さんが入部したら、かなりやりづらいじゃん? それだけじゃなくて、先輩たちからも『時松さんに謝れ』っていう無言の圧を感じてたからさ。許してもらえて、本当によかった」
あっ、僕は本気で時松さんに悪いと思ってるんだよ?と付け足して、ニッと笑う。
まったく、コイツは本当に性格が悪い。食えない奴だ。それでも、嫌い、ではない。友達にはなりたくないけど、同じ部活の同輩としてなら付き合っていけそうだ。
愛音は吟味するように江幡を見てから、肩をひょいっと上げる。
「でも、勘違いが解けたなら、これからつっかかってこないでよ。本当、あの口調や言い回しうざいし、自意識過剰でキモイから」
江幡の口の端がぴくりと動く。
「時松さんさぁ……。僕が謝ったからって、調子に乗らないでくれる? キミのその口調も言い回しも、イラッとくるんだけど」
「ごめんごめん。アンタの第一印象が最悪だったせいで、ついつい口が悪くなっちゃって」
「それも」
江幡が愛音の顔を指さした。
「それ?」
「アンタっていうのやめてくれる? 僕は敬意を込めて『時松さん』って読んでるんだから。キミも僕に敬意を払ってもらわないと」
「じゃあ、江幡ね」
「ちょっと! 僕は時松さんって呼んでるんだから、それに合わせるなら『江幡さん』でしょ」
「……江幡にさん付けしたら、負けな気がして」
「なににだよ?」
「さぁ? あたしにもわかんないけど。とにかくあたしは江幡のこと、江幡さんとは呼ばないから。もし不公平だと思うなら、江幡もあたしのこと時松って呼べばいいよ」
愛音は意識してアンタと言わないように気をつけながら、江幡と口にする。呼び慣れない名前に、口の中がむずむずする。気を抜いたら、すぐに「アンタ」呼びに戻ってしまいそうだ。
江幡が長い長い吐息を漏らした。呆れて物も言えないといった具合だ。
「とりあえずはそれでいいよ。そしたら、僕も時松って呼ぶから」
「そうして」
「うん」
江幡が居住まいを正す。そして、左手を差し出してきた。握手の合図だ。
「ま、じゃあそんなこんなで、これからよろしく」
愛音は顎を上げて、江幡の左手に右手を重ねる。ほんのりと汗ばんでいた。
「うん、よろしく」
江幡は性格に難ありだけど、悪い奴じゃない。多分、愚直で、不器用で、潔くて、真っ直ぐな奴。江幡は自分の失敗を認められるし、女が苦手でも全ての女を毛嫌いしているわけじゃない。相手を見極め、判断することができる奴だ。
だから、きっと、同輩としてうまくやっていけるだろう。
そんな気がした。
不意に、視線を感じる。視線を追い、ドアを見る。
ドアは開かれ、先輩たちが身を乗り出していた。
「なにやってるんですか、先輩」
自分でもびっくりするほど冷めた声が口から飛び出た。
「えっ! 先輩方! そんなところでなにしてるんですか?」
「あはは。ごめんなぁ? 弓弦がどうしても後輩たちが気になるって言って聞かなくて」
「ちょっと。どうして俺なの。気になるって言ってたのは奏真と平柳だろ? 勝手に俺のせいにしないでくれる?」
二ツ森先輩と久島先輩のいつもの小競り合いが始まる。
「でも、久島くんも気になるって言って覗いてたよね? 覗いた時点で共犯だよ?」
そこにかのん先輩も参戦して、いつものジャズ研メンバーのやりとりになる。
愛音と律斗は笑った。
優しい声色、ゆるい空気感が教室の中に広がり渡った。




