20.ジャズ研と同輩と(3)
恥ずかしい。舞い上がっていた気持ちがしゅるしゅると収縮される。
すごく調子に乗ってたよね、あたし。
「すごい! すごいすごい! 二ツ森くんから上手いって聞いてたけど、本当にトランペット上手いんだね!」
「本当にうまいね。奏真が執着してたのも納得するよ」
「わかってくれたか、弓弦よ! いやぁ、新出が時松さんを引き留めたい理由がわかったよ」
先輩方が口々に愛音を褒める。体がキュッと引き締まる。
「おい、奏真。お前、今まで時松さんの演奏聴いたことなかったわけ?」
「おん。聴いたことない。新出が言うんだから上手いだろって思ってただけ」
「お前ねぇ……なんでこんな能天気なんだか」
「二人とも、小競り合いしないの! 今は愛音ちゃんの演奏に余韻を浸るところでしょ!」
褒めてもらっていたのも束の間、いつもの先輩同士のじゃれあいに変わってしまった。やっぱり、面白い。この人たちと一緒にいると、気持ちがふわりと軽くなる。
その時、江幡と目が合った。綺麗な黒い瞳がちょっとだけ揺らしたあと、そっぽを向いて、
「……悪くなかった」
あっ、嬉しい。
ひねくれた男のまっすぐな褒め言葉だった。
悪くなかった。
愛音のことを嫌っている彼がそう言うのだ。本気で思っているのだろう。頬がほんのりと火照る。
「みなさん、ありがとうございます。今日はちょっと調子良かったみたいです」
「うんうん。素晴らしい人材がジャズ研にきてくれたとオレは今、感動しているところだ!」
「素晴らしい人材なんて、そんな。あたしより上手い人が吹部にはたくさんいますから、あたしなんて全然ですよ」
「そう? 愛音ちゃんは十分上手いと思うけど?」
かのん先輩が首を傾げる。
十分上手い。そうかもしれない。それなりに上手いのかもしれない。だけど、圧倒的才能を目の前にしたら、愛音の実力は大したことないことを知っている。
「時松さんはネガティブすぎ! だって、オレ、見えちゃったもんね。時松さんがステージに立って堂々と演奏をしている姿がさ!」
「あ、それわかる。時松さん見てたらこの教室がステージになったみたいで、俺もワクワクしたよ」
久島先輩の同意の声を聞いて、二つ森先輩がにんまりと笑う。
「だろ? だろ? 時松さん、それってすごいことなんだよ! 技術的に上手い人はこの世にたっくさんいるけどさ、観客にイメージを浮かばせる演奏とか、感動させる演奏とかって、そう簡単にできないよ!」
「そう、ですかね……」
「二ツ森くんの意見に賛成するのはなんだか癪だけど、わたしも二ツ森くんの意見に同意。上手くても心に響かない演奏は、いい演奏って言えないもの。その点、愛音ちゃんの音は草原みたいに朗らかで、とってもいいって感じたよ。すごくいい演奏だった」
「うんうん。平柳もわかってくれるか。表情豊かな音っていいよなぁ……。そこらへんが時松さんは抜きん出てる気がするな」
じんわりと心の奥が熱くなる。一筋の光が脳を掠める。
きっと、いくつかの言葉はジャズ研に入ってもらうためのお世辞だろう。わかってる。でも、お世辞だとしても、褒めてもらえることはすごく嬉しい。
「ありがとうございます。そんなこと、言われたことなかったので嬉しいです」
素直に頭を下げた。先輩方は首肯して笑っている。
すごくホッとする。こういうのを安堵感というのだろうか。キリキリと緊張していないゆるい感じが今の愛音には心地いい。別に吹部にずっと緊張感が走っていたわけではないけど、それでも上手く吹かなければいけないという圧迫感と、他の人と比べてしまう劣等感で、いつも胸の中がぎゅうぎゅうになっていた気がする。
音のイメージ。練習中にもよく言われることだ。「ここは薔薇の花のように優美に」「夕暮れのようにしっとりと」……。
正直、その言葉の意味がよくわからなかった。イメージってなんだ。弾けるようにとか、ゆっくりととか、明るく、といったような明確に再現できそうな指示は理解できる。だけど、薔薇の花とか夕暮れとか、そんな曖昧なイメージでうまく吹けるものか。譜面通りに吹いていれば、上手に吹くことができる。楽譜という正解があるのに、どうしてイメージをしなければいけないんだ。
ずっとそう思っていた。だけど。
今なら、イメージをしてと再三言ってきた先輩の言葉の意味がわかる。
愛音は目を閉じた。ステージの風景とここにはない音が愛音の内側に流れ込んでくる。部室の外から聞こえるサックスやトロンボーンの音も、愛音の内側に流れ込んでくる。どんどん感覚が研ぎ澄まされていく。
どうしてだか、泣きたくなった。
感動してるとか、興奮してるとか、悲しいとか、辛いとかじゃない。胸の内が満たされて泣きそうになる。
これがきっと、音のイメージ。愛音のイメージは音そのもののイメージとは言えないのかもしれないけど、自分の立っている場所をイメージすると、見えている世界が、音が、変わる。譜面だけの単調な音じゃなく、生きている音になる。
昔々、初めてトランペットを聞いた時の、吹いた時の感覚が身体に戻ってくる。好きという気持ちで身体が満たされる。
好きであること。楽しむこと。音をイメージすること。
それらが演奏をする上でどれだけ大切なことなのかを思い知る。
愛音は目を開けた。
目の前には笑顔の先輩たちと顔を背けた江幡がいる。
愛音は大きく深呼吸をした。
明朱花。あたしね、明朱花が思うほど上手くないの。プロになるなんて夢のまた夢。だけどねトランペットを吹くのがすごく楽しいんだ。トランペットが好き。だからあたし、もう少し音楽を頑張ってみようと思うよ。
「これから、よろしくお願いします」
愛音はもう一度、頭下げる。
皆の柔らかな拍手が愛音のことを歓迎する。そして、二ツ森先輩が口を開いた。
「こちらこそ、よろしくね。……さてさて、時松さんが素敵な演奏を聴かせてくれたんだ。次はオレたちが音の花を咲かせよう!」
高らかに手を挙げる。久島先輩が鼻で笑い、江幡が肩をすくめる。
「音の花って……。ほーんと、二ツ森くんはカッコつけるの好きだよねぇ」
「別にカッコつけてるわけじゃないなくてだな? オレらもビシッと決めたいじゃん? ビシッと!」
「僕は奏真先輩のこと好きですけど、時々寒くなるところはいただけないと思います」
「律斗までそんなこと言っちゃう?」
「奏真ってホント、先輩の威厳ないよね。この調子じゃ、時松さんにも呆れられちゃうよ」
「そ、それは困る! 時松さんには絶対にジャズ研に入って欲しいんだから!」
「二ツ森くんのそういう熱いところもかなぁり子供っぽいよ?」
「そんなことないだろ? な? 時松さん。オレは子供っぽくないよな?」
「子供っぽいです」
「そんな……! オレの先輩としての威厳が……」
皆の笑い声が広がる。愛音も笑う。だけど、心はそわそわと浮き立っている。
この人たちはどんな音を出すんだろう。
小競り合いも楽しいが、早く皆のセッションを聴きたくてたまらなかった。
二ツ森先輩がパンパンッと軽快に手を叩く。
「はいはい、オレをオモチャにするのはもうやめてください。みんなにオレ達の演奏を時松さんに聴いてもらわないと!」
「あ、ごめん。わたし、ピアノだからさ、演奏できなさそう。キーボードとかもないし」
「平柳は出来なさそうじゃなくて、する気がないんだろ。わかってたから大丈夫です。じゃ、弓弦と律斗は準備はいい?」
二人がこくりと頷く。かのん先輩の顔が一瞬だけ無表情になった気がした。本当に一瞬だけだから、見間違いかもしれないけれど。
チューニングを終え、律斗がドラムスティックを叩く。
軽快なテンポの曲が始まる。
あっ、この曲知ってる。テレビCMにも起用されたこともある有名な曲だ。なんていうタイトルだろうか。忘れてしまった。
…‥だけど、おかしい。この曲ってこんなにアップテンポの曲だっただろうか。
ムーディな雰囲気で、ウイスキーやワインが似合うようなそんな曲だった気がする。
それなのに、今目の前で演奏されている曲は、コーラのようにパチパチと弾けて明るい。抱いていた印象と全然違う。
「あの人たちも、それなりに上手いよね」
声を潜め、かのん先輩が聞く。
「はい」
流れるメロディを聴きながら、短く、端的に答える。
「みんな、わたしと違ってジャズが好きなんだよ。だから、ああやって楽しそうに奏でられる。……にしても、アレンジかけすぎだね。サックスソロをトランペットソロにしたら気持ちいいだろうなぁって感じで吹いてる。愛音ちゃんを意識してるのがバレバレ」
「……そう、ですかね」
「そうだよ。それに、こないだの愛音ちゃんの反応を見て、モダンジャズそのままじゃなくて、快活なアレンジをしてるんだと思う。二ツ森くんのアレンジ技術もすごいけど、それに合わせられちゃう久島くんも律斗くんも優秀だなって思うよ」
正直、アレンジのことはよくわからなかった。モダンジャズを知らないし、そもそも曲をアレンジするという発想すらなかった。ただ、二ツ森先輩が吹いている部分をトランペットで吹いたらすごく気持ちいいだろうなというのは感じる。それと、ブルーセッションで聴いた演奏に比べて、粗くてわざとらしい感じがするのに、彼らの音がピッタリと合わさっていることも、わかった。
必死で吹き、必死で弾き、必死で叩く。
彼らの姿を見て、胸がざわつく。初めて百合蘭吹奏楽部の演奏を聴いた時とはまた違った胸の騒ぎ方だ。なにがどう違うのかは上手く説明できないけれど、ワクワクするのは彼らの演奏だった。
それに、彼らが優秀と持て囃されても不思議と気持ちが荒立たない。どうしてだろう。前までは同年代の上手な演奏を聴くたびに、嫉妬の渦に飲み込まれていたはずなのに。
胸を揺すられるような衝動とざわつき感はあるけれど、不快感は一切ない。
演奏が終わった。愛音は無意識に拍手を起こす。かのん先輩も拍手をしている。
「どうもどうも。いやぁ、そんな真剣な拍手をされると、照れますなぁ。これもそれもオレ達の演奏が素晴らしかったからだねぇ」
「素晴らしかったのはいいけど、奏真、一人で突っ走りすぎ。俺と律斗が戸惑ってたのわかんなかったの?」
「わかってたよ? でも、合わせられてたんだからいいじゃん」
「よくない。もう少し一緒に演奏する人のことを考えて、吹きなさい。全く」
息のあったやり取りを続ける。
アドリブ。すごいな。アドリブで吹くのも、それに合わせる彼らもすごい。
あたしはこの人たちの中に入ることはできるんだろうか。
「ちょっと、二人とも。愛音ちゃんが引いてる。愛音ちゃんのための演奏だったんでしょう? もっと愛音ちゃんを気にかけてあげて」
硬い表情をしていたのだろう。かのん先輩がすかさずフォローを入れてくれる。優しくていい先輩だ。かのん先輩が幽霊部員だなんて、寂しすぎる。
「あ、ごめんね。つい癖で。……よし。演奏も聴き終わったことだし、まずは親睦会と行きますか!」
二ツ森先輩がパチンと手を叩くと、愛音と江幡を交互に見た。
「まずは、同輩同士、だな。同い年で仲が悪いとか最悪だからな。オレたち二年は一旦、出て行くから、二人でちょっと話し合ってくれ」
「え、は?」
愛音は戸惑う。先輩たちは笑顔で去っていき、江幡もドラムスティックを置いて、楽器のない端っこの机の方に足を向ける。迷いはないようだった。
江幡は机同士をくっつけ、対面になれるように配置してすぐに、椅子に座った。




