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19.ジャズ研と同輩と(2)


 

 仮入部宣言をした次の日、かのん先輩は顔いっぱいに笑顔を浮かべ、部室に現れた。愛音がトランペットをみんなの前で披露する前のことだった。


 全員が向かい合うように椅子を並べ、ジャズ研の部員たちが楽器を持って座っている。中央ではなく端っこで座っているのは、ドラムセットが教室の隅にあるからだ。


 あぁ。緊張する。


 人前で吹くのはいつぶりだろう。昨日はトランペットも持ってこず、勢いだけで来てしまったため、挨拶しかしなかった。だから、本格的にジャズ研の一員として活動をするのは今日からなのだ。


「昨日の宿題はやってきてくれたかな?」


 二ツ森先輩がテナーサックスを抱えてニヤリと笑う。宿題とは、「簡単な曲をなんでもいいから吹けるように練習してきて」という昨日唐突に出されたものだ。


「あっ、はい……」


 ついつい、まごついてしまう。緊張しているのもあるが、対面にいる二ツ森先輩の雰囲気が心なしかきりっと引き締まっている感じがして、夜の森の中を歩いているときのようなザワザワ感が襲ってくる。こないだのジャズ喫茶にいた奏者の影響か、サックスを持つ二ツ森先輩がカッコよく大人っぽく見えたのだ。


 全く……二ツ森先輩が大人っぽいわけないじゃない。しっかりしなさいよ、愛音。


 首を左右に振り、愛音は目の前の三人の男性を見回す。久島先輩は夏服のシャツのボタンをきっちりと留め、江幡は学校指定のポロシャツを着ている。そして、二ツ森先輩はシャツから黒Tをのぞかせて、着崩している。改めて見ると個性的なメンバーだ。彼らは一体、どんな音を出すのだろう。


 スマホを膝上に置いて、チューナーアプリを開く。

 マウスピースを口に当てる。


 基準音、Bの音を出す。


 基準音と音がぴったりと重なり合い、一つの音に聞こえてくる。


 うん。いい感じ。高めのピッチにもならず、本当にピッタリだ。今日は調子がいい。最近まで吹いていなかった割にはよく音が合っていると思う。


 昨日、ブレスやロングトーン、フィガリング等の基礎練習をしっかりと時間をかけてよかった。まだ完全に感覚を取り戻したわけじゃないけれど、きっとそれなりにうまく吹けるはず。多分。


 ふっと息を途切れさせたその瞬間、ガラッと開けられたドアから風が吹き抜ける。カーテンが風で膨らみ、壁に貼られた取れかかっている黄ばんだ世界地図がパタパタと揺れた。


「おまたせ!」


 かのん先輩が透き通る金髪を靡かせ、緑風と共にやってきたのだ。


「かのん先輩!」


 愛音は思わず立ち上がった。かのん先輩がトランペットに当たらないよう優しくぎゅっとしてきた。抱擁はすぐに解かれ、かのん先輩の長い指が肩を叩く。


「おお! 愛しの愛音ちゃん! 主役は遅れて登場だよぉ!」


「平柳、遅いぞ。てか、主役は高松さんだから。間違えんな」


「もぉ、二ツ森くんってば、久しぶりにジャズ研のマドンナが来たっていうのに冷たいなぁ」


「ジャズ研のマドンナを自称するなら、もっと部活に顔出せよ。……ったく」


「うふふ、ごめんごめん。わたしも色々とね、忙しいもんで」


 ちゃっかりと椅子を愛音の隣に寄せて座ったかのん先輩は、愛音の方に体を乗り出し、キラキラとした目で愛音を見つめる。


「さてさて、愛音ちゃんの演奏、聴かせてもらいましょうか!」


 愛音はふっと息を吐いて座った。足をやや開いて、腰、胴体、頭が一直線になるように上半身を座骨に乗せる。


 胸の中がむずむずする。トランペットを本気で吹くときの構えに怖気付く。この場所に誰もいないような孤独感に苛まれる。


 マウスピースに口を当てた瞬間、場所が体育館ギャラリーに変わった。キュッキュッというバスケシューズの音、葉月先輩のどこまでも伸びる美しいロングトーン、そして、「周りの音をよく聴いてから、歌って」という渚先輩の声が響く。もちろん、幻想だ。ここは体育館ギャラリーではない。他のトランペット担当の人達もいない。でも、くっきりと見えてしまう。嫌になるくらいくっきりと。


「音をイメージして。ここは色っぽく。ここは馬が駆け抜けるみたいに。そう。みんなうまいよ。もっとタンギングをはっきりね。ちょっと音色が硬いかな? 唇をふわふわの状態にして吹くように意識してみて」


 渚先輩の的確でハキハキとした声が聞こえる。


 かつて愛音もやっていたパートリーダー。愛音なんかよりも断然リーダーとしての素質があり、コミュニケーション能力のある渚先輩に圧倒された。そして、化け物のように上手なトランペッターたちを猛獣使いさながら、統率する渚先輩の力に畏怖さえ覚えたのだ。


「愛音はすごいなぁ、将来プロになっちゃうよ」


 不意に、明朱花の尊敬の眼差しが見えた。


 なれないよ、明朱花。百合蘭にはね、あたしよりすごい人がたくさんいるんだ。あたしなんかよりずっと上手い人たちがたくさんね。あたしは井の中の蛙だったんだよ。


 今の愛音ならそう答えるだろう。背中を丸くして、下を向いて、何もかも諦めたように、答えるだろう。吹奏楽部の一員としてトランペットを吹く姿が想像ができない。スポットライトが当たる感覚を想像できなかった。


 あぁ、辛いな。自分が下手だと認めざるを得ない。集団の中の一人でいることが苦痛であることを思い知らされてしまう。この感覚が嫌だ。だから、音楽から離れたのに。


 愛音はマウスピースに触れ、後悔している。一度マウスピースから口を離す。そして、息を吐いてから、もう一度押し当てた。


 吹く曲は『聖者の行進』。


 アメリカ黒人霊歌の一つで、ジャズナンバーとしても有名だ。トランペット初心者の練習曲としても知られている。


 トランペットとジャズと聞いて、思い付いたのがこの曲だった。初心者のときよく練習をしたけれど、中学の吹奏楽でも吹いたことがある。軽快で愉快でソロを吹いていて気持ちよくて、愛音も好きな曲だ。


 ドの音をしっかりと踏み込め。そして、ソに向かって駆け上がるんだ。


 相棒に息を吹き込む。手に馴染んだあたしのトランペット。大好きだったけど、一度距離を置いたトランペット。それなのに、トランペットは愛音をずっと待っていた。ピストンに指が吸い付くようだ。


 手が、息が、体が、ほとんど無意識にトランペットと合わさる。愛音の居場所はここだよと教えてくれているみたいだった。


 ここには愛音しかいない。相手の音はない。ハーモニーは存在していない。愛音だけがメロディラインを吹いている。それでも、はっきりと聴こえた。ドラム、トロンボーン、クラリネット、サックスの音が脳内に反響する。


 先ほどまで巨大な壁のように見えていた先輩たちの姿が消える。体育館ギャラリーがブルーセッションの舞台に変わる。眩しいスポットライトが愛音に当たる。隣には頼もしい仲間たち(ここで見えていたのは、ブルーセッションで見た奏者さんたちだ)が愛音を見て頷いている。


 なんか……。すごく楽しい。


 こんなに楽しいのは久しぶりかもしれない。


 翼が生える。魂が解放される。


 どうしてだろう。


 自分の音を聞く。ブランクがある。だから、演奏は決して上手いとは言えない。


 だけど、楽しい。


 上手い、下手じゃない。久しぶりに人前で吹くトランペットが楽しくて、みんなの「おっ」と息を呑む視線が嬉しくて、頭の中に広がるステージがどこまでも広がっていって……。


 うまく吹かなきゃとか、うまく合わせなきゃとか、みんなを出し抜かなきゃとか、そんなふうに考えない演奏って本当にすごく楽しい!


 楽しい。楽しい。楽しい。


 心が何度も気持ちを反復する。


 あたし、トランペットが好きだ。ずっとずっと好きだったんだ。


 プロになれるほど上手くない。レギュラーメンバーには選ばれない。だけど、好きだ。誰よりも、好きだ。


 見栄や傲慢だからではなく、好きだから。好きだから、吹いていたい。好きだから、上手くなりたい。もっともっと上手く。そして、他の楽器とセッションをしたい。


 気持ちを音に乗せて歌う。


 リズムを感じて、しっかりとスウィング。そして、愛音の演奏が終わった。


 飛び立った羽根が世界史準備室へと戻ってくる。


 肩を上下させる。疲れた。少ししか演奏していないのに、なんでこんなに疲れてるんだろう。


 パチ。パチ。


 かのん先輩が手を叩く。それを皮切りに。


 パチパチパチパチパチ。


 四人の大きな拍手の合奏になった。



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