18.ジャズ研と同輩と(1)
ぎらつく太陽の日差しが世界史準備室に注ぎ込まれる。
特に直射日数が当たるこの場所はとても暑い。暑いし、痛い感じもする。愛音は部室に入ってすぐにカーテンを閉めた。光がだいぶ遮断される。それでも、カーテンを貫通してくる熱気は、素肌に突き刺さってくる。
あぁ。もう最悪。なんで一番に来ちゃったかな。
一番最初に部室に来るなんて、一番損な役回りだ。クーラーが効くまで、炙られ熱せられた教室のむわんとした空気を耐えなければならないのだから。
「やぁやぁ、おはよう、時松さん! 朝から精が出るねぇ」
「時松さん早いね。おはよう」
「よっす」
ガラガラと扉が開かれる。二ツ森先輩、久島先輩、江幡の順番で部室に入ってきた。三人とも汗が額にびっしりと浮かび、首筋には汗が流れている。
「って、まだクーラー効いてないじゃん。どうせ一番に来るならもっと早くこいよ」
「は? なんで江幡に指図されないといけないわけ? あたしがいつ来ようがあたしの勝手でしょ」
思わず毒づく。江幡がバカにしたように鼻を鳴らした。
ほんとムカつく、コイツ。絶対、一生、分かり合えない。
「一番ペーペーの部員なのに気が利かないって言ってんの。こういうのは後輩が一番にきて、先輩を立てなきゃいけないんだよ」
「今は令和だよ? なにそんな昭和チックなこと言ってんの。時代遅れすぎ。てか、江幡だって後輩なんだから、アンタが一番に来ればいいじゃん」
「は? 僕は時松より先に入部したんだから、先輩みたいなもんだろ。キミが一番最後に入部した部員なんだから、キミが先輩たちをもてなさないと」
「嫌です」
愛音は呆れたように首を振る。ピーチクパーチク鳥のようにうるさい江幡は、無視するのが一番いい。
お人形さんみたいな美しい顔が、不機嫌そうに歪む。仮入部のときから、何度も何度も江幡に向けられた顔だ。だけど、この表情はまだマシなことを愛音は知っている。
「三組の時松愛音ちゃんって知ってる? 律斗くんを追っかけてジャズ研に入ったらしいよ」
「知ってる知ってる! 二年生の先輩と付き合ってるって聞いたけど、もしかして二股?」
「かなり尻軽って話だよ。律斗くんが迷惑してるのにも気づかないで、グイグイアプローチしてるらしい」
「吹部やめたのは、吹部の男子全員たぶらかしたからみたいだよ。そのせいで先輩たちに目をつけられたとか」
「えーキモ。典型的な男好きじゃん」
女の子たちが教室の隅で、トイレで、廊下で噂しているのを知っていた。俗にいう嫉妬ってやつだ。愛音が江幡と仲良くしているという事実を江幡を好きな女子は受け入れられないのだろう。
腹が立って仕方がなかったし、「根も歯もないこと言わないで」と言ってやりたかった。
噂をする彼女たちは狡猾で、決して愛音の前で悪口は言わない。陰口であることを徹底するのだ。だから、文句を言うことが叶わなかった。もし、悪口を直接言われていない今の状況で文句を言えば、「自意識過剰すぎるでしょ」と更に馬鹿にされるのが目に見えている。
それでも、噂をしているのは江幡と同じクラスの女子たちで、三組の大半の子たちや、吹部の部員たちが変な噂を信じていないのは幸いだった。
「コミュ障の愛音が男好き? ないないない。そんなわけないじゃん。そんな器用な子じゃないよ」と噂を否定してくれる子もいた。五組の聖奈にさりげなく噂のことを聞いたら、「そんな噂聞いたことないよ。一組の一部の女子が盛り上がってるだけじゃない?」と、こともなげに言われた。
それくらい拡散力の低い噂話なのだ。夏休みが明ける頃には、こんな根の葉もない噂は収まるだろう。そう信じられたから、愛音は女の子たちの噂に耐えることができた。
江幡の顔は確かに良い。アイドルや俳優として活躍しててもおかしくないくらいの風貌だ。
だけど、女子に対する態度はかなり最低だった。睨みつけるのは当たり前。暴言を吐くのも当たり前。女の子に話しかけられると、不快げに顔を顰めるのも当たり前に行われた。それも、大嫌いな食べ物を口にした時にするような本当にひどい顰めっ面だ。だから、不機嫌に少し顔を歪ませるくらいじゃ、可愛いもんなのだ。
愛音自身、ジャズ喫茶に行く前にかなりの悪態をつかれたもんだから、仮入部宣言をしに行ったあの日、愛音は江幡を前にして、身構えた。僕シングのファイティングポーズの構えまでして。
「……なにそのポーズ」
「アンタって嫌味ったらしいでしょ。攻撃されないように防御してんの」
「……あっそ」
江幡は、興味なさげに顔を背けた。嫌味ひとつ言ってこない。驚きだ。
「何も言わないの? 『僕を追いかけてジャズ研にきたんでしょ?』とかそういう馬鹿みたいに自己肯定感高い妄言」
「……なに? ケンカ売ってんの?」
愛音の方を向いた江幡の眉間に皺が寄る。やばい。怒らせたかも。だけど、愛音も江幡にひどいことを言われたのだ。ちょっとくらいやり返したい。
「そういうわけじゃないけど。アンタ、初めて会った日、あたしに自意識過剰の気持ち悪いこと言いまくったじゃない。だから、またきっしょいこと言われるのかなって思っただけ」
「やっぱ、ケンカ売ってるでしょ?」
「売ってない売ってない」
「今はもう僕を追いかけてジャズ研に来たって思ってないってだけだよ」
「どうして」
「どうしてって……。あんな顔してジャズを聴く人が僕目当てでジャズ研に来るとは思えなかったからだよ」
「あんな顔って、どんな顔よ」
「あんな顔はあんな顔だよ」
江幡はこれ以上話す気はないと言わんばかりに、再び顔を背ける。愛音もまた江幡と距離を取った。世界史準備室とは名ばかりのただの空き教室には、十五セットほど机と椅子があった。同い年だからといって、すぐ近くに座る必要はない。愛音は江端の真反対、ホワイトボードがある場所から一番遠い席に腰をかける。けれど、
「時松さん、そんな遠くじゃ声が聞こえないでしょ? こっち来て」
と、二ツ森先輩に言われ、渋々江端の近くに行くことになってしまったのだが。
「今日も平柳は休みだってさ」
久島先輩が口を開く。
「えっ、かのん先輩いないんですか?」
「うん。あの人は基本的に部活に来ないからね。時松さんが来るって知ってたら、顔出しぐらいはしたと思うけど」
——今もほとんど幽霊。でも、ブルーセッションで演奏を聴く課外活動だけは、来ちゃうんだ。
かのん先輩の声が蘇ってくる。そういえば、幽霊部員だって言ってた気がする。かのん先輩に会って、ちゃんと挨拶したかったのに。
「そっか。かのん先輩……いないんだ」
愛音は目を伏せ、誰にも聞こえないくらいの小さい声でつぶやいた。




