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17.好きということ、楽しむということ(5)



 愛音と二ツ森先輩は食べ終わると、ドリンクで一息ついてから、早々に解散をした。もう手遅れかもしれないが、誰かに見られてデートだって思われるのが嫌だったのと、二ツ森先輩が「お家でゆっくり考えて」と配慮してくれたからだ。能天気なくせに意外と気遣いができるところには、感心する。


 愛音は今朝ファミレスに来た時よりもずっと身軽で弾むような気持ちになっていた。トランペットに触れたくてうずうずする。吹きたいっていう思いだけが、愛音の体を突き動かす。家に帰っても、その雰囲気のままだったのだろう。


「愛音、何かいいことあった?」


 家に帰り、夕飯時にテーブルでお母さんと顔をつき合わせた瞬間、問われてしまった。そんなこと言われると思っていなかったから、持っていた箸の手がぴたりと止まる。


「え、なんで急に?」


「だって、すごく笑顔だから。こんなに笑ってる愛音を見たの、久しぶりな気がする」


 柔らかな声と顔が、愛音の心を包み込む。吹部をやめてからというもの、愛音は家でずっと険しい顔をしていた。そのせいでお母さんにもお父さんにも心配かけていた。自覚があったからこそ、なんだか恥ずかしい。


「……うん。トランペット、もう一度吹いてみようかなって思って……」


「えっ、本当に?」


 お父さんが驚きの声をあげる。メガネの奥の目を大きく見開きぱちくりと瞬かせた。


「うん。吹部にまた入るかはわかんないけど……」


「そうか。また、トランペットやるのか」


「やるっていうか、ただ吹きたいと思ってるだけだよ。本格的にやるわけじゃなくて……」


「それでも、やるんだろう? そうかぁ……。だから、初めてトランペットを見た時みたいな表情をしてたんだな。そうかそうか」


 お父さんが何度も何度も頷く。


「お父さん、なに一人で納得してんの? 怖いんだけど。てか、初めてトランペットを見た時みたいな表情ってなに?」


 反抗期真っ只中な愛音はついつい強い口調で突っ込んでしまう。


「うふふ。それほど今日の愛音の顔が希望に満ち溢れてたってことよ。クリスマスの朝、サンタさんからプレゼントをもらった時みたいに、プレゼントの封を早く開けたくて仕方ないって顔をしてたの。親だからね、わかるのよ」


 愛音は狼狽え、視線を泳がせた。どんな顔してたんだろう。恥ずかしい。さっきよりもずっと恥ずかしい。


 もしや、二ツ森先輩の前でも同じような顔してた……?


「なにそれ。意味わかんない」


「わからなくてもいいさ。それよりもお父さんは愛音がまたトランペットを吹いてくれるのが嬉しいよ」


「やめてよ。お父さんの夢を勝手にあたしに押し付けてこないで」


 我ながらぶっきらぼうな物言いだ。両親のことは嫌いじゃない。だけど、親のお節介も親の言葉もムカついて反発したくなる。


「ごめんごめん。ただ、好きなものがあるってことは青春時代において大事なことだからな。それはトランペットじゃなくてもいい。ただ親心として愛音の好きなことをしていてほしいんだよ」


 ここでも『好きなこと』か……。グッと身が引き締まる。


 あたしはトランペットが好き?


 多分、昔はすごくすごく好きだった。初めてトランペットを買ってもらった時の高揚感、一曲上手に吹けた時の幸福感は今でも忘れられない。暇さえあれば、トランペットを吹きたくてたまらなかった。近所迷惑にならないように、お父さんに物置部屋を片付けさせ、防音室仕様にしてもらったくらいだ。


 だけど中学に入ったときから、好きという感情よりも、どうやったら上手く吹けるか、技術が向上するか、という頭でっかちなことばかり考えていた気がする。そして、上手くなければ価値がないとまで考えるようになってしまった……。


 そうだ。


 トランペットを上手に吹くのはいつしか義務となり、愛音の「好き」という感情を置いてけぼりにした。今の愛音には、トランペットが好きなのかどうかわからない。それが傲慢に繋がり、挫折につながり、愛音の首を絞めた。


 上手ければいい。あたしは誰よりも上手い。あたしは天才だから。なんでみんなできないの。同じだけ練習しているのに、全然できないなんて、本当に惨め。下手くそなのに何が楽しくて吹部にしがみついてるんだろう……。


 腕を軽くさすってみる。ピリッと舌先が痛い。かつての自分にも他人にも向けた言葉が突き刺さるようだ。


 ——才能のないアンタにトランペットを吹く権利はないよ。


 自分の声が聞こえる。その通りだって思う。このままトランペットを続けるのは惨めだと、プロになれないならやってる意味がないと、レギュラーメンバーじゃないって知られたら中学の部員のみんなに恥ずかしいと、心の底からそう思う。


 なのに、吹きたい。技術とか、才能とか、真面目とか、そんなの関係なく、今、あたしは、トランペットを吹きたい。吹きたくて吹きたくて心臓の高鳴りが止まらない。


 先ほど部屋の奥から引っ張り出したキラキラと煌めきを放つ黄金色のトランペットに触れた時のことを思い出して、身体中が熱くなる。


 それってつまり、あたしがトランペットを好きということになるのかなぁ。


「ほぉら! おしゃべりに夢中になってないで、あったかいうちに、ご飯食べてちょうだい! 何をするにしても、栄養補給が一番大切なんだからね」


 対面に座るお母さんがウィンクをする。愛音は刻む胸を抱えたまま、お母さんの作ってくれたとびきり美味しいトロミのある野菜炒めを食べ始める。


「うん、わかってる。今日のご飯もすごく美味しいよ、お母さん」


「本当に? よかったよかった。あっ、そうだ! 明日はお寿司でもとっちゃう?」


「え、急になんで?」


「愛音のトランペット再開記念として!」


「それいいなぁ。お寿司、とろうか」


「ちょっと待ってよ。流石に大袈裟すぎない?」


「こういうこじつけがなきゃ、お寿司取ったりなんてしないんだからいいのよ」


「なんだ。愛音のためじゃなくて、お母さんのためだったのか。危ない危ない。お父さんはお危うくお母さんの口車に乗せられるところだった……」


「いいじゃないの、ねぇ? 愛音もお寿司食べたいでしょ?」


「まぁね。お寿司食べたいかも。あたしのお祝いなら、トロづくしがいいかな」


 二人のノリに乗っかってみる。


 つくづくいい両親だと思う。心配してくれて、明るく振る舞ってくれて……。こんなこと人前では恥ずかしくて言えないけれど、親の愛を感じる。


 一緒に住んでてイラつくことはたくさんあるけど、それでも大好きな家族だ。


「トロづくし? かなり高くつくじゃないか……。でも、まぁでもいいか! 今回は大奮発だ!」


 愛音はトランペットのことを考えながら、両親に感謝しながら、明るい食卓に臨む。


 夜、しっかり今後のことを考えよう。そう決意しながら。



 

 翌日放課後、愛音は三階の世界史準備室のドア前に立っていた。廊下にはおしゃべりしている女子生徒が数人ほどしかいない。愛音は一日中緊張しっぱなしだった。


 世界史準備室とは名ばかりの空き教室は、ジャズ研の活動部室であった。部室の中は話し声で騒がしい。閑散としている廊下とは大違いだ。


 よし。入ろう。


 愛音は両頬をパンッと軽く叩く。気合いを入れなければ、足を踏み込めないからだ。


 愛音はジャズ研に仮入部という形でお世話になろうと決めたのだ。


 昨夜、トランペットを吹くための選択肢を色々と考えた。葉月先輩に期待されているなら吹部に戻ろうかだの、ジャズという新しい世界に足を踏み入れてみようかだの、ジャズ研に入ったら吹部のみんなに「ジャズ研に逃げた」って思われるかもしれないから、やはり吹部に戻ろうかだの、それとも一人で防音室で演奏するだけに留めようかだの、いろんな思考や行動パターンが頭を巡った。思考が止まずに寝れなかったくらいだ。


 そうして、考えて考えて考え抜いた結果、愛音はジャズ研を選んだのである。


 その理由は、底抜けに明るい二ツ森先輩のそばにいたら、愛音のせせこましい価値観や、「才能がない奴は惨めだ」と思ってしまうの思考を変えられるかもしれないと思ったことと、ジャズ喫茶で見た自由の翼が生えたトランペットを忘れられなかったことだ。


 あたしも自由に音を響かせたい。


 そんな想いが愛音の心を支配する。


「こ、こんにちは!」


 ドアを開けると同時に、ガチガチに固まった喉をこじ開けて挨拶をした。男の人が三人一斉にこちらを見た。江幡律斗と久島先輩、そして、二ツ森先輩だ。どうやら、かのん先輩はまだ来てないらしい。


「えっ! 時松さん?」


 座っていていた二ツ森先輩が立ち上がる。椅子がバタンと勢いよく倒れた。本当にこの人は、子供みたいな動きをする。


「そうです。他に誰に見えるんですか」


 そっけなく返事をした。照れ隠しだ。


「時松さんにしか見えません! え、ほんとに? もしかして、ジャズ研に入るつもりになった?」


「……入るかどうかはわかりませんが、仮入部的な感じで一週間ほど参加させていただきたくって……。学校としての仮入部期間は終わってますし、失礼なのは重々承知ですが……仮入部をして、どうするか決めたいと思っているんです」


「ほんとに? マジで? よっしゃあ!」


 二ツ森先輩が飛び上がる。本当にぴょんっと飛び上がった。


「奏真の粘り勝ちか」


 久島先輩が二ツ森先輩の傍に来る。江幡律斗は机に肘をつけながら、無言で不機嫌そうに窓の外を見ている。


「てことは、受け入れてくれるんですか?」


「もちろんだよ!」


 二ツ森先輩はいつもの明るく弾けた声で言う。


「ようこそ! 我らジャズ研へ!」


 仰々しく頭を下げた二ツ森先輩は顔を上げると、ニカッと笑った。

 愛音も頭を下げる。

 顔を見合わせてはにかみ合う。江幡律斗だけが口を結んだまま、こちらを見ている。


 開いたカーテンから風に揺られる青が見える。もう夏が目の前に来ていた。

 



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