16.好きということ、楽しむということ(4)
「オレも中学までは吹部に入ってたんだよ。まぁ、サックス吹ける場所なんて吹部ぐらいしかないからさ。……でも、合わなかった」
「合わなかったっていうのは?」
二ツ森先輩の言葉を待たずに、つい、聞いてしまった。失礼なことだとわかっているけど、どういうことなのか早く知りたかった。
「人間関係っていうのかなぁ……。大人数のチームプレイ、みたいなのがオレには合わなかったんだわ。型にハマってキチッキチッってやる感じ?」
「なんとなく、わかります。二ツ森先輩って自己中で自由人って感じですもんね。協調性からかけ離れたところにいるっていうか」
「わっ。時松さん、言うじゃん。……まぁ、時松さんの言う通りなんだけど」
二ツ森先輩の喉仏が上下する。
「オレはさ、サックスを吹くのは好きだった。だけど、それ以上に部活が辛くってさ。もしかしたら、中学の時のメンツが合わなかっただけかもだけど……でも、サックスが好きって気持ちだけじゃその辛さを乗り越えられなくって、退部しちゃったんだよね」
「そう、だったんですね」
愛音は深々と首肯する。
部活で苦しんでいる二ツ森先輩を想像できない。愛音の知っている二ツ森先輩はいつだって笑顔で、いつだってポジティブだ。だけど、二ツ森先輩も吹部で苦しんだんだ。その苦しみがどんなものなのか見当もつかない。部員たちとのトラブルなのか、はたまた、愛音が感じたような挫折感だったのか。二ツ森先輩も胸が張り裂けそうなくらいの痛みや、呼吸ができないほどの苦しみを味わってきたんだろうか。もしかしたら、二ツ森先輩は吹部から逃げて、ジャズを始めたのかもしれない。
「だけどさ、オレは本当にサックスが好きだったんだ」
二ツ森先輩の底抜けに明るい声が耳にぶつかってきた。愛音の心は目の前の二ツ森先輩に引き戻される。
「そして、ジャズもね。オレは中学二年を最後に部活を辞めちゃったけど、でも、サックスだけは続けたいと思ったんだよ。本当に好きだからさ」
「好き、だから……」
「そう。オレはさ、吹部が合わなかった。吹部で演奏するような曲も好きじゃなかった。それは変わらない事実だ。でも、オレのサックスを吹きたい気持ちやサックスを好きだという気持ちには関係ないと思ったんだ」
「そうですかね……」
「うん。そうだよ。オレはサックスが好き。でも、吹部は合わなかった。ただそれだけのこと。それ以上でもそれ以下でもない。吹部が合わないということは、オレのサックスが好きという気持ちを否定しない。そうだろ?」
唾を呑み込む。二ツ森先輩の言葉を自分の状況と重ね合わせる。
才能がないということは、トランペットを好きということを否定しないだろうか。
……否定、しないかもしれない。
「選抜メンバーになれない辛さ、めっちゃわかる。それで部活を辞める人の気持ちもわかる。でも、辞めない人もいるだろ? そういう人たちにはさ、演奏が好きだとかさ、部員が好きだとかさ、いろんな理由があると思うんだ。でもきっと、根底に『好き』があるから、みんな部活が続いてるんだと思うんだよね。好きじゃなきゃ続けられないんだから」
「まぁ……たしかに」
「だろ? だろ? 辛い以上に、みんな好きだからやるんだと思う。だからさ、時松さんもトランペットが好きって気持ちがあるなら、吹部をやめてたとしても、トランペットを続けたらいいと思うんだ」
愛音の黒目がうろつく。二ツ森先輩のポジティブさに心がついていかない。だから、愛音のネガティブさをぶつけてみることにした。ウジウジと一人で悩むよりも、今は答えを知りたい。愛音の感情の答えを。
「だけど、惨めじゃないですか?」
「惨め? なんで?」
「だって、全国大会常連の吹部をやめた落ちこぼれがトランペットを続けるのって、みっともなく思われそうっていうか……。才能がないくせに、なにトランペットにしがみついてんだよって思われそうじゃないですか?」
「えっと、それは、誰に?」
「それは……。吹部の部員とか、他の同級生とか……?」
言葉が詰まる。具体的に『誰』と特定できなかったからだ。
「そんなこと思う奴はクソ喰らえだよ。気にしちゃだめだめ。誰に何と思われようが、時松さんがトランペットが好きなら続けた方がいいし、そっちの方が人生楽しいよ」
「……そんなこと言われたって、無理です。人の目は気になります。気にしないなんて無理です」
「そうかなぁ……。てか、そもそも、高松さんの言う『みんな』は、さほど他人のこと気にしてないと思うけどな」
「そんなことないと思います。だって、あたしがあたし自身に思っちゃってるんですもん。アンタは下手くそ。下手な奴はトランペットを吹く資格はない。才能がないならとっととやめればいいのにって」
少し早口で、一息に言い切る。そして、息を止めた。呼吸するのが難しくなったのだ。
「才能がないなんて惨めだ」という蔑みは、今まで愛音が中学の演奏の下手な部員に対して向けてきた感情だ。今になって、自分が他人に向けてきた蔑みが、自分自身を蝕んでいる。
そのことに気がついてしまった。
体がグッと締め付けられる感じがする。
「なるほど。下手くそな自分を責めちゃってるんだね。時松さんは完璧主義者なんだね」
「そんなことは、ないです」
「でも、下手な自分を受け入れられないんだろ? オレからしたら完璧主義者だと思うな」
愛音が首を横に振る。今日は感情が荒波立って、俯いてばかりだ。
なんかほんと、つらいなぁ。
「時松さんさ、少しだけ肩の力を抜いてみたらどうだろう? 完璧な演奏も、完璧な人間も、いないよ。才能があると言われてる人たちだって、失敗やうまくいかないことはあるよ。完璧な演奏じゃなくて、楽しい演奏をしてみようよ」
「簡単に、言いますね」
「うん。だって、物事は案外シンプルなものだからさ。楽しいから好き。好きだから楽しい。楽しいからやる。好きだからやる。それでいいんだと思うんだよなぁ、オレは」
乾いた笑いが漏れる。この人はどこまでも楽観主義者だ。愛音の話を聞いた上で、さっきと同じ話を繰り返している。
二ツ森先輩の才能はこのポジティブさなんだろうな。
「それにさ、完璧な人ばっかりを求めてたら、誰も音楽なんてできなくなっちゃうよ。だって、一生、上には上がいるんだよ? 例えば、高校生の中で一番になったとして、その上には音大生がいる。さらにその上には、プロの演奏家。さらにさらにその上には、世界最年少なんとかとか言われる人たち。さらにさらにさらぁにその上には、モーツァルトとかベートーヴェンとか偉大な音楽家たちがいる。……ほらね? 上を目指すことは大切なことだけど、その人たちを超えなければ音楽する資格がないなんて言ってたら、だぁれも才能がなくなっちゃうし、だぁれも音楽できなくなっちゃうよ」
さらりと説教をされる。そういえば、さっきから、人生相談の解答みたいな、人生のお説法みたいなことを二ツ森先輩は述べている。それなのに、押し付けがましさがない。上手く言えないけれど、二ツ森先輩の言葉はさらりと辛いんだを
それは言葉が嘘っぽいとか、安っぽいとかいう意味ではない。二ツ森先輩は普段のどうでもいいような会話(たとえば、好きな食べ物の話とか)をしているときのように、飾りっ気なく話す。かしこまって説教されるよりも、ずっと聞きやすい。べとべととした粘りっ気のある押し付けがましさがないからだろうか。
二ツ森先輩の話を聞いていると、「なに言ってんだ、この人は」って、肩の力が抜けてしまう。明らかに底抜けに明るい二ツ森先輩の空気に飲み込まれてる。
「それにさ、選ばれないのが辛いなら、選ばれる環境に行けばいいじゃんか! たとえば、ジャズ研とか!」
「へ?」
「ジャズ研にくれば絶対的レギュラー。絶対的トランペッターになれるよ!」
さっきよりも粘度のある口調で二ツ森先輩は言う。愛音は吹き出した。どれだけいいことを言っていても、やっぱり二ツ森先輩は二ツ森先輩だ。
「結局は、ジャズ研に繋がるんですね」
「当たり前だよ! オレは時松さんを引き抜いてるんだから! ……だけど」
「だけど?」
二ツ森先輩が少し前のめりになっていた身をすっと引く。
「もし、時松さんの表現したい音楽が吹奏楽部にあるなら、ジャズ研じゃなくて吹奏楽部に戻ったほうがいいと思う」
「えっ、急にしおらしくなって、どうしたんです? ジャズ研を勧めない二ツ森先輩なんて、二ツ森先輩じゃないですよ」
「えっ、ひどいなぁ! オレだって時松さんが一番いい選択肢を選べるようにって考えてるのに!」
「それは、どうも。……だけど、どうしていきなり吹部に戻ったほうがいいなんて、言うんです?」
軽快なメロディが鳴った。後ろの席に座っているお婆さんのスマホの着信音だ。思考が逸れる。
この曲、あたしが小学生の頃に流行ってた映画の主題歌だ。
「……実はさ、新出が言ってたんだ。時松さんに吹奏楽部に戻ってきて欲しいって」
「え……。葉月先輩が……?」
「うん。オレがトランペッター探してるって言ったらさ、時松さんが吹奏楽部を辞めたって話をしてくれて。それで、できればジャズ研には勧誘せずに励まして、吹奏楽部に戻ってきて欲しいことをそれとなく伝えてくれ、って言われたんだよね」
「でも、どうして? どうして葉月先輩は私に直接言わず、二ツ森先輩に頼ったりなんか?」
「吹奏楽部の人が引き留めようとしたときに、時松さんがかなり萎縮しちゃってたから、話しかけづらいって言ってたな。それに、吹部関連のことで傷ついてるみたいだから、部員である新出が話しかけて、その傷を抉りたくないって。そういうわけで、オレに白羽の矢が立ったってわけ」
あぁ、だから、二ツ森先輩はあたしに執着してたのか。
ずっとずっと気になっていた部分が腑に落ちる。
愛音のトランペットの音を聴いたこともないくせに、しつこく勧誘するのはおかしいと思っていた。それもこれも全部葉月先輩の気配り故だったんだ。
「オレはさ、新出がそこまで引き留めたいって思ってる一年生っていうのに興味が湧いちゃったんだよね。それに、ジャズ研もトランペッター探してたから、新出の言い付けも守らずに、勧誘させていただきました」
「なるほど。理解しました」
ふざけた調子で、小さく頭を下げる仕草をする。愛音は調子を変えず、言葉を続けた。
「でも、誰が辞めたとしても、葉月先輩は引き留めたと思いますよ。優しい先輩ですもん」
「どうかな? 新出はトランペットに関してはストイックというか、厳しい面があるからな……。見込みのない奴なら見限ってると思うよ」
自意識過剰かもしれないけど、同意してしまう。葉月先輩は本当にすごいトランペッターだ。このままいけば絶対にプロになるような人。絶対に妥協を許さないような芯のある強い人だ。だから、下手な人を気に掛けたりなど絶対にしない。
だから、嬉しい。お世辞だとしても、特別な葉月先輩に気にかけてもらえたことも、愛音のことを考えて配慮してくれたことも、すごく嬉しい。吹部に個別レッスンにと、忙しい葉月先輩を思い悩ませてしまって申し訳ない気持ちにもなるけど、嬉しいという思いが勝つ。
「ま、とにかくさ。才能云々は置いておいて、時松さんがまだ少しでもトランペットを吹きたいと思うなら、オレはトランペットを続けて欲しいって思う。それが吹奏楽部でも、ジャズ研でも、一人でやる趣味でも……。せっかく好きなものがあるんだ。それをスルーして生きるのって、勿体無いだろ?」
いつのまにか緩んでいた頬に手を当てる。
あたしは本当にトランペットが好きなんだろうか?
嫌いだとは言えない。だけど、胸を張って好きとも言えない。
それでも、昨日の演奏を聴いて、トランペットを吹きたいって思った。ステージに立ちたいって心から思った。
それは紛れもない事実だ。
あたしはどうしたい?
真剣に、本気で、心に問うてみる。返事はまだ帰ってこない。
「あっ! やば! ご飯めっちゃ冷めてる……! ごめん。オレが熱く語っちゃったせいで……。多分時松さんのハンバーグも冷めちゃってると思う……」
ご飯を取り上げられた子犬のように大袈裟にしょんぼりする二ツ森先輩を見て、笑いが込み上げる。
マイペースでほんと、愉快な人。葉月先輩が二ツ森先輩に頼った理由がなんとなくわかる。どれだけ不貞腐れてても二ツ森先輩のペースに乗せられてしまう。第一印象は最悪で、強引さに腹も立っていたけど、今や二ツ森先輩のスピード感が心地よい。もしかしたら、葉月先輩も二ツ森先輩に救われたことがあるのかもしれない。
「ちょ、そんなに笑うことないじゃん。オレ本当に申し訳なく思ってんだよ?」
「あはは、ごめんなさい。お店もかなり混んできましたし、早く食べちゃいましょうか」
愛音も二ツ森先輩に倣って、ハンバーグを口の中に押し込む。冷えてチーズが固まりつつあるけど、ちゃんと美味しい。
才能がなければ、いろんなことに選ばれないのは事実だ。愛音が葉月先輩のお眼鏡にかなったのだって、それなりにトランペットが吹けるから。だから、才能がない人間のことを惨めだと思ってしまう。どちらかといえば、自分が惨め側の人間だってことも理解している。だけど……なぜか今、トランペットを吹きたいって思っている。部屋の隅に置かれた相棒の顔が見たいと思っている。昨日の演奏に感化されたから? それとも、二ツ森先輩の言葉に感銘を受けた? わからないけど、愛音の心を揺さぶられたのは確かだ。
吹きたい。ただ、トランペットを吹きたい。それだけ。
なんて単純なんだろう。音と言葉に簡単に誑かせるなんて。
自分の感情の変化に苦笑してしまう。自分で自分を馬鹿にしてみても、吹きたいという気持ちは変わらない。




