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15.好きということ、楽しむということ(3)



「でも、自分より上手い人とか、才能のある人とか見ると、怖くなりませんか? 自分の無力感に苛まれるというか……」


「怖くは、ならないかな。時松さんは怖いって思うの?」


「それは……」


 突然、ぐふぐふっと二ツ森先輩が咳き込む。喉にオムライスが詰まったのだろう。氷の溶け切ったオレンジジュースを一気飲みして、息を吐く。


「大丈夫ですか?」


「あ……うん、大丈夫! 変なところ入っちゃって……。で、才能の話だっけ?」


「そうです」


「才能、ねぇ……。天才だったなぁとは考えたことあるけど、自分の演奏を振り返ってみるに、オレは天才ではないよなぁ。でも、才能があるかないかは、オレにはわからないかなぁ」


「そうですか」


 スッと身を引いた。喉が渇く。愛音はコーラを飲み切ってしまったことを思い出して、話す前にドリンクを取りに行けばよかったと思った。


「才能があるかは、わからないけど」


 二ツ森先輩が一拍間をあける。綺麗に一拍だった。


「けど、オレはジャズとサックスが好きだから、吹き続けるよ。自分の下手さに嫌になる時もあるけどさ、それでも、好きなんだ。吹くのが楽しいんだ。たとえ、機械やAIが聞いた人、誰もが感動する完璧な演奏するようになっても、オレは演奏を続ける。それこそ、プロになれなくても続けると思う。だってさ、音で自分を表現するのって、めっちゃ楽しくない? 最高の音を奏でられた時、めっちゃ感動しない?」


「そう……ですかね」


 考えてみる。トランペットで自分を表現する、なんて考えたことなかった。でも、最高の音を奏でられたとき、すごく嬉しくなるのはわかる。いろんな楽器の音がピタッと合わさった時、胸がザワザワして、自分たちが特別なような気がして、飛び上がりたいくらい嬉しくなる。あの瞬間は、好きだ。


「それにさ、あのスポットライト、当たってみたくない? あのスポットライトの中に入ってみたくない? それで煌めく光の中で演奏するんだ。音を踊らせるんだ。それで、観客にスタンディングオベーションなんてされてさ。考えただけでも最高だよ!」


 二ツ森先輩が両手で拳を握る。


 あぁ、わかるな……。


 愛音は心の中で、力強く頷いた。


 あのステージに立ちたいのは、わかる。


 初めてトランペットを見たあの日も、昨日の演奏でも、思った。


 あたしがそこに立ちたい。あたしがそこに。


 心臓の鼓動が速くなる。二ツ森先輩に聞こえるんじゃないかってほど、速く強くなる。


 ドッドッ。ドッドッ。


 バレないように机の下で、ジーパンの上から太ももを押さえる。


 そっか。あたしはまだトランペットを吹きたいって思ってるんだ。


 昨日、ジャズ喫茶でトランペットの音を聴いた時から、いや、小学校の頃にトランペットに出会った時からずっと、ただそこに立つことだけを、吹くことだけを望んでいたのだ。


「才能があるかわからないけどさ、オレは吹きたい。楽しいから、いつか夢の舞台で演奏できるまで、吹き続けたいって思うよ」


 どうしてなんだろう。どうして、二ツ森先輩はこんなにまっすぐでいられるんだろう。キラキラと輝いた目でいられるんだろう。全然わからない。


 あたしも吹きたいと思う。吹いてステージに立ちたいと思う。トランペットが誰よりも好きだって心の底から叫んでしまいたい。


 だけど、怖いのだ。


 もう、苦しい思いはしたくない。実力がないことを知りたくない。好きだからこそ、自分には才能がないと分かりたくない。ただの趣味で終わるレベルの実力なのだと思いたくない。そんな惨めな思いをするぐらいなら、最初から吹かないほうがいい。


 そんな風に考えてしまう。


 きっと、二ツ森先輩は挫折など味わったことがないのだ。だから、純粋に好きだと言える。だから、純粋に自分の夢を信じられる。


 この無邪気さが羨ましい。中学時代の傲慢な自分に戻りたいとは思わないけど、無知な頃には戻りたいと思ってしまう。自分は誰よりも才能があると信じていたかった。それか、本気になったり、必死になったりせずに、趣味程度で終わらせて、傷つくことのないところから、眺めていたかった。


 本気になればなるほど、できない自分に腹が立つ。そして、傷つく。痛みが大きくなる。もう二度と深傷なんて負いたくない。


 でも……。


 この無邪気な先輩と一緒にいると、気持ちが引っ張られてしまう。トランペットに心が引き戻されてしまう。華やかな音色とリズムに煽られて熱を待つあの瞬間。身体の内側から波立つ感情の嵐。ここではないどこかへと自由に飛び立つあの感覚。昨日の聴いた演奏の瞬間からへ気持ちが一気に連れていかれる。


 怖い。怖いけど、もう一度トランペットに触れみたい。


「オレはさ、音楽をやる上で才能なんて実はそんなに必要ないと思うんだよね」


 才能を持つ者の戯言が耳に滑り込んでくる。


「楽しいとか、好きという気持ちだけでいいと思うんだ。そうして練習しているうちに、実力はそのうちついてくる」


「……それは、先輩に才能があるからじゃないんですか」


「え? 才能? いやいや。さっきも言った通り、オレに才能があるかなんてわからないよ」


「あるから、そう言えるんですって。好きっていう気持ちだけでいいなんて……あたしには到底、思えないんです。だって、自分の演奏の理想と現実がかけ離れてたら辛くなるじゃないですか」


「でも、演奏するのは楽しいよ。練習で理想に近づいた時なんて、最高に楽しいじゃんか!」


「ほら、そういうとこです。そもそも、そうやって真っ直ぐに、好きという気持ちだけで、楽しいって気持ちだけで、頑張れるってことが……。それこそが才能なんですよ」


 口に出して納得した。そうだ。直向きに頑張り続ける。苦行も苦行と思わず楽しんでやる。好きという気持ちを持ち続ける。それができることって、本当はものすごい才能なんじゃないか。失敗することも傷つくことも、恐れない。もしかしたら、才能のある者は失敗した時の転び方も傷つき方すらも違うのかもしれない。


 夢に向かい続ける勇気と折れない信念を持てることこそが、才能だ。


「そもそも」


 二ツ森先輩が顎を上げる。


「時松さんはさ、なんで好きだけじゃダメだと思うの? 才能が必要だと思うの?」


 愛音は固まる。体からずっと血の気が引いて、二、三秒後、再び体に熱が供給される。心臓の鼓動が速くなる。


 なんで? どうして? そんなの決まってる。


「だって、才能がなくちゃ、選抜されないじゃないですか。才能がなくちゃ、価値がないじゃないですか。好きなだけで上手くなれるわけじゃない。才能がなければ、越えられない壁があるんですよ」


 呼吸が荒くなる。激しい運動をしているわけじゃないのに、ハッハッハッと息が切れ、肩が揺れる。


「選抜……。もしかして、吹奏楽部の話してる?」


「え……あ……」


 口から声が漏れ出る。いや、声というより音に近い唸り声だ。


 そうだ。吹部の話をしている。でも、吹部に限った話じゃない。レギュラーメンバーになるにしても、プロになるにしても、全て誰かから選ばれなければいけない。そのためには、人より秀でていなければいけない。秀でてなければ価値がない。価値がなかったら、惨めじゃないか。誰かから後ろ指を刺されて、「あの子、選ばれなかったのよ」とか「下手くそなのよ」とか「あんなに努力してたのにね。なんて可哀想なの。才能がないのよ」とか言われてしまう。そんなの……そんなのって耐えられない。悪意や軽蔑に晒されてしまうのはすごく嫌だ。


「まぁ……でもそうだよなぁ。好きなのにステージで吹けないってのは、きついよな」


 二ツ森先輩が空になったコップをいじりながら頷く。


「……はい」


「時松さんは才能がないって感じちゃったわけ?」


「……はい」


「だから、吹奏楽部をやめた」


「…………はい」


 声を絞り出す。ここで嘘をついても仕方がないと思った。というより、嘘をつく余裕がなかったのだ。


「そっか。だから、トランペットはもう二度と吹かないって宣言したんだね」


 二ツ森先輩がコップをいじっていた手を止めて、愛音を見る。はい、という二文字が喉につっかえて出なかったから、小さく頷いた。唇の端が歪む。


「そっかぁ。それは、キツイな……」


 二ツ森先輩が天井を仰ぎ見る。大切なことを考えているようなそんな顔だ。こんな二ツ森先輩は初めて見た。


「オレはさ、吹奏楽部が合わなかったんだよね」


「えっ」


 突然の告白に、愛音はまっすぐに二ツ森先輩を見る。二ツ森先輩が気まずそうに頭を掻いて、笑った。先ほどまでの深刻な雰囲気はない。




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