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12.ジャズとの出会い(7)



「はい。みんな自己紹介をありがとう! まだまだ時間もあることだし、今からこのジャズ研の歴史を話そうと思います。ぜひ時松さんに知ってもらいたいからね」


「歴史って……。たった一年しかやってない弱小のあるかないかわからないようか部活じゃん。歴史なんてないでしょ」


「ちょい、弓弦くん。そういう水を指すことを言わないの。いい? 今、この時を過ぎれば全部歴史なのよ。さっき駅で集合してたのも歴史。自己紹介をしてたのも歴史。つまり、ジャズ研にも歴史があるってこと。それに、時松さんだって我がジャズ研の歴史、聞きたいよね?」


「いや、別に……」


「ほら、聞きたいって。ということで話したいと思います!」


 久島先輩とかのん先輩が顔を見合わせて、肩をすくめる。二ツ森先輩はそんな二人を気にもせず、勝手に話し始めた。


 二ツ森先輩はここのジャズ喫茶の常連さんで、久島先輩とは中学からの知り合いだったという。久島先輩は中学の時、親と二ツ森先輩に無理やりコントラバスを押し付けられ、吹奏楽部に入り、そこでコントラバスにハマった……らしい。らしいと言うのは、熱弁の途中で「ハマってない」という久島先輩本人の注釈が入ったからだ。本当かどうかわからないが、二ツ森先輩曰く、コントラバスにハマった久島先輩は百合蘭吹奏楽部に入るために百合蘭を受験することを知って、二ツ森先輩も勉強をかなり頑張ってたとか、なんとか。


 それから、無事に二人揃って合格し、入学して早々久島先輩を吹奏楽部入部を止め、ジャズ研を作るために部員集めに奔走。久島先輩とかのん先輩を含め、四人の勧誘にやっとこさ成功して、念願のジャズ研を作った。だけどその後、すぐに三人が幽霊部員となってしまって……。


「二ツ森くんって話長いよね。こうなると全然止まらないの」


 かのん先輩がコソッと耳打ちをする。かのん先輩の息のかかった耳たぶがポッと熱を帯びる。


「自分の世界に入っちゃってるんだ。こういう時はね、何してても二ツ森くん、全く気がつかないから、二人で仲良くガールズトークでもしよ」


「え、いいんですか」


「いいのいいの。ほら、久島くん、見てみなよ。大きな欠伸してる」


 久島先輩は大きく開けた口を押さえて、眠そうに目をぱちぱちとさせていた。完全に聞いていない。しかも、二ツ森先輩には従順そうな江幡律斗がいつの間にか久島先輩の隣にいる。


 この人たち、自由人すぎない?


 あまりの空気感の緩さに驚いてしまう。集団行動や調和を大切にしていた吹奏楽部と大違いだ。


「そこで、オレは言ったんだ! 弓弦、お前のウッドベースがオレたちの音に必要なのだと!」


 二ツ森先輩は立ち上がったり座ったりしながら、まるで舞台演劇をしてるかのように自分の世界に入り込んで話すものだから、見ていて吹き出しそうになる。


 ホント、変な先輩。


「立ち上がるの恥ずかしいからやめてって言ってるのに、全然やめてくれないんだよねぇ。あとこの話、ほとんど盛られてるから、真剣に聞かなくていいよ」


「やっぱり、盛ってるんですか?」


「当たり前だよぉ。二ツ森くんって自分に酔う癖と思い込みが激しいところがあるからさ……。話半分で聞くのがいいよ」


 あぁ。


 納得する。きちんとジャズ研を断らなかったせいで付きまとわれるようになってしまったことを思い出す。


「それに、もし愛音ちゃんがジャズ研に入ったらこの話、めっちゃ聞かされると思う。だから、覚悟しといたほうがいいかも」


 かのん先輩がストローでアイスティーをかき混ぜながら、笑みを浮かべる。


「実は……。あたし、ジャズ研に入るつもりなくて……」


「えっ、そうなの?」


「はい」


 愛音もリンゴジュースを手に取った。二ツ森先輩はまだ一人演劇をしているし、お客さんも増えてきて、あたりは人の熱で満たされ始めていた。人混みの圧迫感。ちょっとだけ、苦手だ。程よいリンゴジュースの甘さが胸の鼓動を落ち着かせる。


「今日来たのも、断るために来たようなもので……」


「あー……なるほど。二ツ森くんの強引な勧誘を断ち切るためにここに来たって感じか」


「……はい」


「そっかぁ。トランペットと距離置いてるんだもんね。ジャズの楽曲を弾こうって気持ちにはならないよねぇ……」


 かのん先輩がステージの方を見つめる。


「でも、もしかしたら、演奏を聞いて気持ちが変わるかも」


「え?」


「わたしもね、最初はジャズ研、入るつもりなかったの。幽霊部員でもいいって言うから名前だけ貸したけど……。だから、実は、今もほとんど幽霊。でも、ブルーセッションで演奏を聴く課外活動だけは、来ちゃうんだ。ここに来る人たちの演奏ってね、すごいんだよ」


 アイスティーの入ったグラスを置いて、グイッと体を愛音に寄せる。


「なにが、すごいんですか」


 息を呑んだ。かのん先輩の美しく色素の薄い瞳がランプの光を受けて、キラキラと光り輝いている。


「ふふっ、それは聴くまでのお楽しみってことで」


 ふっくら柔らかな唇に人差し指を当ててから、かのん先輩は体を回し、伸びをした。かのん先輩の白桃のような甘い香りにくらりとする。くらりとした愛音を穏やかなサックスの音色が受け止める。その時になって初めて、店内にジャズのBGMがかかり始めていたことを知った。


 一体、いつから流れていたのだろう。愛音たちがお店に入った時は、流れていなかったはずだ。気づいていなかったけれど、音楽を聴けないくらい気持ちが張り詰めていたのだろうか。


「やぁ、どうもどうも」


 屈託のない声がした。振り返る。真っ黒なフェドラハットを軽めに被った四十代くらいの男性が、手を振って笑っている。髭面でちょっと強面だ。そんな男性に続き、カウンターの奥からゾロゾロと四人の男性が出てきた。みんな似たような黒い服を着ていた。


「待ってたぜー!」


「今日も最高の音楽をよろしくなー!」


 各席から賛美が投げられる。男性たちは指笛や「よっ」というかけ声に照れる様子もなく、左手を挙げて応えていた。


「そろそろ始まるよ」


「えっ、でもまだ一時になってませんけど……」


「ここの喫茶店は緩いんだよねぇ。予約のお客さんが全員入ったら、演奏が始まっちゃう時が稀にあるの。しかも、ちゃんと予定の終了時刻までやるんだよ。もちろん、時間ぴったりに始める人の方が多いんだけどね。奏者も疲れちゃうから」


「なるほど」


 かのん先輩が丁寧に教えてくれる。チラリと横を見る。真剣な顔があった。あれだけジャズ研の歴史を熱弁していた二ツ森先輩が口を閉じ、ピシッと卒業式に挑む時のような姿勢で、ステージにのぼる男性たちを見つめている。


 すごい集中力……。


 愛音も居住まいを正した。見ているこちらも気が引き締まってしまう。本気で、だけど、希望に満ちたキラキラとした目をしている二ツ森先輩に怖気づく。本気の人の気迫。大会前に精神統一をしていた、かつての自分自身を思い出してしまう。


「二ツ森くんっていつもこうなの。ジャズには真剣っていうか……よくわかんないんだけど、演奏が始まる前、まるで自分が演奏する時のように緊張してるんだよね。一度、演奏が始まっちゃえば一番ノリノリになるんだけど」


 かのん先輩が少し前屈みになって二ツ森先輩を見ながら言う。当の本人は、かのん先輩の視線にも気がついていないようだ。かのん先輩の隣には江幡律斗がいつの間にか戻っていた。


 プォーン。


 サックスのダイナミックな音が鳴る。


 それを皮切りに、楽器たちがチューニングを始める。懐かしい。この感じ、すごく懐かしい。


 久しぶりにこんなに近くで生の楽器の音に囲まれた気がする。吹部を辞める前は毎日楽器の音を聞いていたのに。不思議な感じがする。


「みなさん。今日は集まっていただき、ありがとうございます」


 サックスを吹いていた男性のダンディーな声がマイクを通じて、喫茶店内に響き渡る。


「えー……。ちょっと早いですけど、演奏を始めましょうか」


「いぇっ!」「ヒューっ!」「ウォーイ!」という合いの手がさまざまな席から聞こえてくる。初めての類の歓声に、気持ちがソワソワとする。筋肉がギュッと引き締まった気がした。これから、演奏が始まるのだ。


 奏者たちがスッと楽器を構える。


 辺りがしんっと静かになった。神聖で静粛な森の中にいるみたいな静けさだ。奥の人が持っているトランペットがピカッと光る。


 音が鳴った。肉厚で荘厳で力強い音色が一瞬にして存在感を放つ。


 サックスだ。


 真ん中の男性がサックスに声を宿らせているのだ。


 愛音は口をグッと結ぶ。翼が見えた。伸び伸びと羽を広げ飛翔する翼だ。愛音が知っているサックスとは全然違う。自由なのだ。自由に音が飛んで跳ねて舞っている。髪の先が男性の動きに合わせて、揺れ動く。


 かっこいい。


 すごく、すごくかっこいい。


 サックスを操る手が、サックスを吹く姿が、サックスから出る音が、かっこいい。こんなにかっこよくサックスを吹く人を見たのは初めてだった。


 豪快だと思ったら、軽快なリズムに変わり、軽やかだと思ったら、しっとりとしたメロディに変わる。目の前で奏られる音楽は、今までどこで聴いた音楽よりも迫力があった。ドラム、コントラバス、ピアノ、トランペット、そして、サックス。それらの異なる音色がぴたりと重なり合い、たった一つの特別な曲になる。


 ジャズなんて、全然よく知らないけど、力強い音と、肌にビンビンと伝わってくる響きと、魂を震わせる音の波が一気に押し寄せ、愛音の心を揺さぶり起こす。


 すごい。すごい。すごい。かっこいい。


 一瞬の静寂の後、拍手と歓声が湧き上がる。愛音も一緒になって手を叩いた。手が痛くなるくらい叩いた。


 そしてまた、静寂。奏者たちは一言も発せず、次の曲が始まった。


 その瞬間。


 パチッ。パチッ。


 オレンジに煌めく火花が散った。


 体に音が突き抜ける。体が痺れる。息がほとんどできない。体を突き上げる衝撃が愛音を襲う。トランペットの優雅な音が会場を熱気の渦に巻き込んだのだ。


 愛音は無意識に胸を押さえた。心臓がどくどくと激しく唸っている。凍てついた風と灼きつくような熱風を同時に感じた。音を聞くのが怖い。でも、聞きたい。耳を塞いでしまいたい。それなのに、体が前のめりになる。


 ごくっという音が喉の奥から鳴った。


 聴き慣れた音。愛音の大好きな音色。まっすぐに届いてくる。まっすぐにぶつかってくる。鼓膜だけでなく、身体中の皮膚という皮膚を震わせる。苦味が口中に広がる。傷に塩を塗られたときのような痛みが全身に駆け巡る。


 痛い。苦しい。なのに、美しい。


 トランペッターのおじさんの汗が煌めいた。真剣に吹いているのに、笑顔が見える。身体中でリズムを取って、大きな翼を広げる。


 どうしてそんなに楽しそうなの?


 どうしてそんなに自由に吹けるの?


 パチッ。パチッ。


 火花が飛び散り続ける。金色に反射する光が眩しい。


 あぁ。苦しいな。


 愛音はぎゅうっと胸を両手で抑える。そうしていないと苦しくて苦しくて耐えられなかったのだ。この痛みも、自由な音色も、煌めくトランペットも、歓声も、彼らを観る人々の視線も耐えられない。全てが挫折したあの日につながっていく。


 押さえつけていた思いが、心の奥底に沈み込ませていた願いが、溢れ出てしまう。


 あたしも吹きたい。


 あたしもそっち側に行きたい。


 演奏する側へ!


「愛音ちゃん……? 大丈夫?」


 異変に気がついたのか、かのん先輩が愛音の背中をさすりながら、囁く。


「大丈夫です」


 顔を持ち上げ、ニッと笑った。うまく笑えてるかはわからない。かのん先輩の繊細で細い指先が、すっと離れる。


「無理、しないでね」


「……はい。ありがとうございます」


 話している間も音楽は鳴り続ける。みんな夢中だった。夢中になって弾むトランペットの音を聴いている。


 知らなかった。こんなにポップなジャズの曲があることも、全身全霊で音を響かせることも、楽器がピカピカチカチカと眩い光を放つことも、愛音は知っているようで、何も知らなかったのだ。


 自分自身の中に備わった全ての感性が研ぎ澄まされていく。胸の奥の情念が蠢く。体の水分が想いに変わり、感情の汗がほとばしる。そして、一つの想いに収束していく。


 ——トランペットが吹きたい。


 ——あたしも、そっち側に行きたい!


 愛音は唇をギュッと噛み、夢中になって演奏を見た。嗅いだ。味わった。聴いた。感じた。


 目の前にはスポットライト。その中心に立つのは優秀なトランペッター。だけど、そこに愛音自身を見た。ステージに立っている愛音の姿を。


 なに考えてるの。あたしは、才能がないからもう二度とトランペットを吹かないと決めたのに。


 愛音は喉元にまで出かかった願望に蓋を押し付ける。それなのに、ドキドキして、ワクワクして、ソワソワして、止まらない。


 ジャンッ。


 音が途切れた。薄暗い喫茶店に拍手喝采が起こる。


 演奏が終わったというのに、心臓の鼓動は早くなるばかりだ。


 そっち側へ行きたい。トランペットが吹きたい。


 自分自身の声が再び聞こえてきた。


 遠くから、けれども、力強く、体の内側から響いてきた。




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