11.ジャズとの出会い(6)
「『ようこそ、オレたちの聖地、ブルーセッションへ』……だってぇ! ダサいよねぇ!」
かのん先輩がおしゃれなソファに腰掛けながら、ケタケタと笑い声をあげる。
地下にある窓がほとんどなく薄暗い店内は、昭和レトロな喫茶店のような雰囲気だった。コーヒーの香ばしい香りが漂っている。久島先輩曰く、昼はカフェとして、夜はバーとして経営しているらしい。夜になると未成年は立ち入り禁止なのだとか。
本当にごくごく普通のカフェに見える。けれど、普通のカフェとは決定的に違う部分があった。それは、すべてのテーブル席がお店の奥にある小さなステージに向いていることだ。ちょっとの段差しかない赤く塗られたステージの上には、マイクスタンドやジュークボックス、ギターボックスなど、ライブや演奏に必要な機材が諸々置かれていた。
すごい。ここでジャズをやるんだ。……でも、ジャズっていうより、ロックとかのライブステージみたい。
愛音はキョロキョロと辺りを見回す。二ツ森先輩と久島先輩はカウンター席の端っこの丸椅子に腰掛けていた。
「そんな笑うことないだろ?」
「笑うよ、笑っちゃう。ね、久島くんも面白かったんじゃない? 自分の家を聖地にされるってどんな感覚なの?」
「いや、ホント……恥ずかしすぎるでしょ。しかも滑ってたし」
かのん先輩はニマニマ笑いながら話し続け、久島先輩は呆れたように肩をすくめた。二ツ森先輩だけが、居心地悪そうに頭を掻く。
愛音はかのん先輩の隣に座りながら、先輩たちの砕けた会話を眺める。本当に仲がいいんだな。羨ましいくらい。
江幡律斗も久島先輩の隣に座りながら、笑っていた。
やっぱり感じるアウェイ感。愛音は愛想笑いをするしかできなかった。
「ほら、みんな、お昼ご飯だよ。そろそろお店開けるからね、前の方の席に行きなさい。一番見えやすい席に座れるのが、開店前のお店に入れる親族特権なんだから」
カウンターの奥から青いエプロンをした恰幅のいいおばさんが出てくる。両手に持ったお盆には、サンドウィッチと唐揚げ、卵焼きとフライドポテトが山盛りに乗っていた。おそらく、久島先輩のお母さんなのだろう。おばさんは愛音たちを一番前の、それも、ステージすぐ目の前の弧のようなソファーが置いてあるテーブル席に促したあと、そのテーブルにドンッと料理を置いた。どれもこれも美味しそうだ。
「さっ、たくさん食べな。美味しい料理と、美味しい飲み物。そして、美味しい音楽。これさえあれば人生は彩り豊かになるんだから。……ということで、みんななに飲みたい? 弓弦のお小遣いから差し引くから、全部タダでいいよ」
おばさんが喉を鳴らしてカッカッカッと豪快に笑う。愉快な人だ。久島先輩と全然違う。
「あぁ、もういいから。俺たちにかまわないでさっさと開店準備しなよ」
久島先輩がうんざりしたように言う。その態度に子供っぽさが覗いた。
久島先輩のような真面目で堅い大人っぽい人でも、母親の前では子供になるんだ。
それは新しい発見のようで、ちょっとだけ好奇心が湧く。
おばさんは「はいはい」と気前よく言った後、愛音たちに飲みたい物を聞いて、カウンターの奥へと戻っていく。久島先輩が大きくため息を吐いて、料理に目配せする。
「みんなお昼まだだよね? 好きに食べて。食べてくれないと後で、『アンタが遠慮させたんでしょ!』って、小言言われるからさ」
愛音たちは料理と一緒に運ばれた紙皿に、自分の分を取り分けて、おばさんの料理を頬張る。すごく、美味しい。唐揚げは思ったよりも脂っこくないし、サンドウィッチのパンもふわっふわしていて、ほんのり甘い。これはちょっと高級な食パンなのではないだろうか。
美味しくて手が止まらない。ついつい手が伸びて、パクパク食べてしまう。
だから、江幡律斗にジッと見つめられていたことに気が付かなかった。
「お前は遠慮ってものを知らないわけ?」
不機嫌に眉を下げて、汚いドブネズミを見るかのように愛音を見ている。
「は? いきなりなに?」
江幡律斗の声と態度に苛立ちが募る。
この人、どうしてこんなに敵視してくるの? キレた口調じゃなきゃ話せないわけ?
「一人で全部食べ切る気かって言ってんの。先輩たちも食べるんだぞ。少しは遠慮しろよ」
「はい? たくさん食べてるのは事実だけど、ちゃんと考えて食べてるよ。ほら、ちゃんと見てよ。自分の分だけじゃん」
まだまだ残っている唐揚げやサンドウィッチを指差して、江幡律斗を睨みつける。他の誰と話す時よりも、声が低くなる。
「いやぁん、もぉ! 私の料理のために争わないでぇ! ……っていうのは冗談で、たっくさんお食べ。控にまだまだご飯あるからね」
江幡律斗が何かを言いかけて口を開くのと、ドリンクを持ってきてくれたおばさんの気前のいい言葉が降ってきたのは、ほとんど同時だった。
愛音は勝ち誇った笑みを浮かべて、二つ隣にいる江幡律斗を顎を上げて見下す。江幡律斗が目を逸らした。
勝った。これは完全に、勝った。
怒りでむかついていた腹のあたりがスーッと落ち着きを取り戻す。
「律斗くーん。さっきから愛音ちゃんに酷いこと言い過ぎ! 女の子には優しくしないとダメだぞぉ?」
愛音の隣にいるかのん先輩が律斗を諭す。愛音は再び食べ物を口にしながら、会話に耳を傾けた。
もっと、叱ってやってください。こんな失礼なやつ!
自分の他力本願さにちょっとだけ呆れる。だけど、こうも取り付く島もないと愛音だけではどうにもできない。
「女とか、男とかは関係ないです。嫌いなものは嫌いなんで」
「とか言ってるけど、律斗くんが優しいのは、男の子だけじゃない」
「そうだよ、律斗。時松さんはオレがやっとの思いで連れてきた大切な大切なトランペッターなんだからさ!」
隣に座る二ツ森先輩が愛音の肩をガシッと掴んだ。掴まれて、体がフラフラと揺れる。
愛音たちは弧を描くソファーに一列で並んでいた。左から、江幡律斗、かのん先輩、愛音、二ツ森先輩、久島先輩だ。愛音は大切なゲスト様だから、真ん中の特等席なのだそうだ。横並びに座っているため、ほんの少し喋りづらい。
「コラッ、二ツ森くん。そうやって気軽に女の子に触るのはセクハラですよ」
かのん先輩が今度は二ツ森先輩を諭す。
「平柳は硬派すぎだよ。別にオレに下心があるわけじゃないんだから。それに、時松さんはこれからオレたちの仲間になるわけだし」
「それでもダメ。愛音ちゃんとまだそんなに仲良くなってないでしょ。下心があるかないかがわかるほど、愛音ちゃんと関係を築けてるの? 仲間にだってこれからなるんだから、勘違いされるような軽率な行為をしてはダメです」
「……それは、そうだね。はい、わかりました」
二ツ森先輩が白旗をあげる。ふっと肩が解放された。
かのん先輩って、のほほんとしているように見えるのにしっかりしてるんだな。
二ツ森先輩とかのん先輩がわがままなタイプで、久島先輩がみんなのブレーキ役だと思っていた。でも、かのん先輩は行きの道でも一人になっていた愛音に話しかけてくれたし、今みたいに愛音のことを庇ってくれた。
そういえば、二ツ森先輩も江幡律斗に出会い頭に難癖つけられてる時、助けてくれたっけ。しつこくて、うざったい先輩だが、その分なんだかんだ愛音のことを気にかけてくれているのだ。
二人とも何も考えてなさそうなのに、やっぱり先輩は先輩なんだ。
なんて失礼なことを考えてしまう。
愛音、人を見かけで判断しちゃダメでしょ。
自分で自分を叱る。愛音は自分の失礼な思考を掻き消すために、おばさんが持ってきてくれたリンゴジュースをごくりと飲んだ。さっぱりとした甘さが喉に染み込む。
カラン、コロン。
ドア付近で音が鳴った。振り向くと何人かの男性が談笑をしながら、店内へ入ってきたのだ。
「お客さんだよ。十一時半から開店だからね。息子の俺が言うのもなんだけど、意外と繁盛してるんだ、この店」
「へぇ、そうなんですね」
と、相槌を打ちながら、スマホの時計を見る。ピッタリ十一時半。彼らは開店凸をしてきたということだ。彼らは奥の方から出てきたマスター(たぶん、久島先輩のお父さん)っぽい人に挨拶をしながら、各々好きな席につく。一番前のテーブル席に座ったり、カウンターに腰掛けたり、さまざまだ。おそらく、みんなこのカフェの常連さんなのだろう。
「うちの店はジャズ喫茶の中でもチャージ料が安いほうだから、いろんな人が来るんだ。予約制なんだけど、席は決まってないから、こうやって開店前から待つ人も多いんだよね」
「そうなんですね」
愛音は感心して頷く。人が続々と入ってきて、周りの雑音がクレッシェンドをかけてるみたいにどんどん大きくなっていく。
すごい。みんなジャズの生演奏を聴きにきてるんだ。
ジャズの人気を侮っていた。ジャズ。全然知らない世界だ。知らないことを知ることは、ちょっとだけワクワクする。
「そういえば、演奏は何時から始まるんですか?」
「ん? 十三時だよ」
二ツ森先輩があっけらかんと答える。
「えっ、まだまだじゃないですか」
てっきり、十二時頃に始まるんだと思っていた。ということは、あと一時間半、ジャズ研の人たちと時間を潰さないといけないのだ。人付き合いの苦手な愛音には相当応える。
「まだまだ、だね。……というわけで、時間がたくさんあるわけだから、演奏が始まるまで自己紹介やジャズ研について……色々なことを語り合おうかなと思います!」
「は、はぁ……」
「じゃっ、最初は自己紹介から」
二つ森先輩が白い歯を見せる。そして、高らかに手を挙げた。
「オレは二年一組二ツ森奏真。知ってると思うけど、ジャズ研の部長やってます。担当はサックス。趣味はジャズ。好きなことはジャズ。将来の夢はプロのジャズマン。時松さんにはぜひジャズ研に入ってもらいたいと思ってます。よろしく」
屈託のない笑顔で自己紹介を終えると、隣にいる久島先輩を肘でつつく。久島先輩は小さく息を吐いたあと、メガネをクイっとあげて、愛音の方に向き直った。
「えーっと。久島弓弦です。奏真に無理やりジャズ研に入れられて、こうして副部長やってます。担当はウッドベース……コントラバスって言った方が時松さんにはわかりやすいかな? やってます。以上」
「順番的に次はわたし、かな? んーっと、ジャズ研マドンナの平柳かのんです。わたしも久島くんと同じで二ツ森くんの強引な勧誘を受けて、ピアノを押し付けられました。どちらかというと、ジャズよりもクラシックの方が得意です。ふふ、かわいい女の子の後輩ができるのをずぅーっと楽しみに待ってたので、愛音ちゃんが来てくれて、すごく嬉しいよ」
「……江幡律斗です。ドラム担当してます」
愛音以外全員の自己紹介が終わった。江幡律斗だけが、視線を合わせもせず、手短に自己紹介を終えた。本当、なんでこんなに嫌われてるんだろう。意味がわからない。最初は怒りしか感じていなかったのに、チクリと胸の辺りが傷み始めた。
「律斗くん、何度も言ってるでしょ。そういう態度を取っちゃダメだって」
「……すみません」
「本当にすみませんって思ってるのかなぁ……」
かのん先輩がテーブルに肘を置き、手のひらに顎を乗せる。そして、そのまま愛音に顔だけを向けた。ぶりっ子のポーズみたいなのに、鼻につかないのはこの美貌のせいだ。
きゅっと喉の奥が詰まる。
「ね? 律斗くんひどいよね? 愛音ちゃんも傷つくよね?」
「ま、まぁ……」
「だよねぇ……。律斗くん、わかりましたか? 人には優しくすること!」
テーブルから肘を離し、ビシッと江幡律斗の鼻の辺りを指さす。江幡律斗の目が細くなり、眉毛がぴくりと動いた。端正な造作の整いが崩れ、不満そうな顔だ。だけど、先輩の手前、強く出れないのだろう。耳を澄まなければ聞こえないくらいの「はい」という言葉を発した。
「よろしい。……じゃ、次は、愛音ちゃんの自己紹介の番!」
江幡律斗以外の視線が愛音に集まる。愛音はキャップ帽をサッと脱いで、ぺこりと頭を下げた。
「時松愛音です。えっと……元々吹奏楽部でトランペットを吹いていました。ジャズ研に入部するかは……検討中です。よろしくお願いします」
パラパラと二年生組が拍手をしてくれる。恥ずかしい。自己紹介をするときって、何故かいつも緊張してしまう。変なこと言わないかなとか、何を話せばいいんだろうとか、ついつい考えすぎてしまう。だから、演奏中以外で人に注目されるのは好きじゃない。
愛音は脱いだ帽子を背中と背もたれの間に忍ばせる。二ツ森先輩が仕切るようにパンッと手を叩いた。




