1. 捨ておいた過去(1)
静かな雨が、ヒタヒタとアスファルトを叩いていた。サーッという雨音と葉っぱに当たる雨粒が美しいメロディを奏でている。
風流だなぁ。
しみじみと自分の世界に入り込んでいたら、不意に少女が後ろから背中を叩いて、
「愛音、おはよう!」
と、思いっきり明るい声と共に挨拶をして来た。友人の冨澤聖奈だ。曇り一つもない満面の笑みと薄紫色のオシャレな傘を携えて、愛音を見つめている。彼女の真っ黒な長い髪の毛が風に舞う。ストレートな黒髪は湿気をものともせず、少しもうねっていない。正直言って、羨ましい。六月の梅雨の時期は、どうも髪がうねって困る。いくらアイロンを使おうとも、湿気のせいで、自前の天然パーマが一瞬にして爆発してしまうのだ。だから、聖奈の美しい髪の毛を見るとため息を吐きたくなってしまう。
全部、この雨のせいだ。
鈍色の空を見上げて、キッと睨みつける。風流だと思っていた気持ちはいつの間にかどっかに飛んで行ってしまったみたいだ。
「ちょっと、聞いてるの? おはようって言ってるんだけど?」
聖奈が覗き込んでくる。美しい顔が視界のすべてを遮った。
スッキリとした鼻に、キリッとした目、シュッとした顔。聖奈は全てがすっきりとしていた。顔も体も性格も、さっぱりしていて余分なものがついていないのだ。同級生の男子曰く、「冨澤さんって、完全無欠の美少女だよな。まさに高嶺の花。手の届かない存在」ということらしい。確かに聖奈は美人だ。背も高くて、スタイルも良くて、髪も綺麗で、隣に歩いていると自分がどれほどずんぐりむっくりしているのかを実感してしまう。
「あぁ、ごめん。ちょっと考え事してて」
「考え事?」
「神様は不公平だなーって」
「え、なにそれ?」
「ううん。なんでもない。こっちの話」
「ふーん? それならいいんだけど。……にしても、雨の中のこの坂は本当に堪えるね。正直、しんどい」
聖奈が大袈裟に肩を落として、ため息を吐く。
今、歩いている急な坂を上がり切った先に、愛音と聖奈の通う『私立百合蘭高等学院』がある。どうして高校名に花の名前が二つ続いているのかはよく知らない。きっと学校名をつけた人が、花の名前をつければ女子らしいとでも思ったのだろう。
『百合蘭』はもともと女子校だった。 くすんだ水色ワンピースに同色のジャケットを羽織り、紺色の一般的な成形リボンをつける。それが百合蘭の象徴であり、女の子の憧れの制服だ。特に、ジャケットの襟やフロントカットの丸みが帯びたデザインが可愛い、とこの辺の地域に住む女子には大人気なのだ。だけど、百合蘭の真骨頂は夏服にある。夏服のワンピースが超超超可愛い。襟から続く十つのボタン二個掛けのデザインに、胸元に置かれたエンブレムのバランスがよくて、愛音は夏服に手を通すたびに(今は、夏服の移行期間で夏服も着ることができる!)、胸が高鳴って仕方がない。
けれど、いくら制服が可愛く、倍率の高い大人気の高校とはいえ、少子化の波には勝てなかったのだろう。三年ほど前から私立百合蘭高等学院は男女共学になってしまった。
それはそれでいいんだけど、女の園で男子の視線を気にすることなく、生活してみたかったな、とも思ったりする。
「わかる……。マジで、本気で、むちゃくちゃ、しんどい。学校が遠すぎるのが悪いわ」
隣を歩く聖奈に共感するように、愛音は言った。
高台に建っている豪華な校舎は、坂の下から望むと、雲の上に聳え立つ手の届かないお城のように思えた。急勾配がとにかくきついのだ。目を細め、じっと見つめると、奥の奥の方に学校の屋上部分だけがかろうじて見える。学校を目指す学生たちは皆、この坂道に差し掛かった瞬間、遥か遠くの天竺を目指す気分になっていることだろう。
きつい。きつすぎる。正直、この通学路のことだけで学校に通いたくないと思ってしまう。
だけど、こんなことで根を上げていたら明朱花に、
「ちょっと、ちょっと、愛音さん? せっかく憧れの百合蘭に受かったのに、とても贅沢な悩みじゃありませんか?」
なんて軽く小突かれちゃうんだろうな。明朱花のむくれた顔を想像して、笑みがこぼれる。
明朱花は今頃、どうしているのだろう。遠山高校でも吹奏楽、続けているだろうか。いや、それほど楽器に執着していなかった明朱花のことだ。吹奏楽部かとは全く関係ないバレーボール部や美術部に入ってる可能性もある。
……むしろ、吹奏楽部に入ってない可能性の方が高い気がしてきた。
きっと中学の時のように、友達に合わせて部活を選ぶんだろうな。そして、どこに行ったとしても持ち前の明るさで、いとも簡単に馴染んでしまうのだろう。
愛嬌たっぷりに笑う明朱花の顔が目の前に浮かんでくる。
明朱花のようにノリで生きていければ、なにもかも上手くいったんだろうか。
愛音はふっと小さく息を吐く。それはまるで、坂道に疲れて出てしまったため息のように、だ。隣には聖奈がいるし、他の学生たちもいる中で、突拍子もない大きなため息を吐くことはできなかった。
過去のことは振り返らない。決めたじゃないか。中学のことも、吹奏楽のことも、忘れる。そう心に決めたんだ。
私立百合蘭高等学院一年三組、時松愛音、帰宅部。
同じ中学出身の子達はこの学校に二、三人しかいない。その中に親しい人もいない。愛音のことをほとんど誰も知らないこの学校で、音楽のない新しい生活を切り開くんだ。
もう一度、ふっと息を吐いた。新しい人生への覚悟の吐息だ。天然パーマを二つにくくった髪が微かに揺れる。
「おぉ、すごい気合い。ま、この坂を登り切るにはそれくらいの気合が必要か。よしっ! この坂、登り切るぞー!」
聖奈が傘を高らかにあげる。道行く人がちらりと静奈を見た。
「ちょっと! 恥ずかしい! 聖奈、やめてよ!」
「えぇー? こういうのはやったもん勝ちだよ?」
「それでも、恥ずかしいの!」
「わかりました。やめます、やめます」
二人で顔を見合わせて、笑い合う。
気の強そうな見た目からは想像つかないほど、茶目っ気溢れる言動だ。緩んだ口元から見えるイタズラっぽさが、普段のキリッとした顔と違って可愛らしい。聖奈の笑顔には美しさと可愛さが同時に内在して来る。こういうギャップが男子に刺さるのかもしれない。
「あ……」
唐突に聖奈が黙った。緩んだ口元も一緒に引き締まる。不機嫌だと勘違いされるいつものキリッとした顔に戻る。
あぁ、なるほど。
愛音の耳は生徒たちのざわめく声をかき分けて、高校の方から聞こえる音を拾う。
「……今日も、やってるね」
愛音が言うと、聖奈がコクリと頷いた。
ダイナミックな金管楽器のくぐもった音が耳に届いていた。吹奏楽部の子達が朝練をしているのだ。
「もう少し来る時間、遅くすればよかったかなぁ……」
聖奈が頭を掻いて、気まずそうにはにかむ。
「そうだね」
愛音も同調した。
聖奈と出会ったのは、まだ桜が咲いていた頃の音楽室だった。音楽室の窓から、ひらひらと桜の花弁が舞っている様子が見えていたのを覚えている。愛音も聖奈も吹奏楽部希望だったのだ。
百合蘭が人気高いのには、学力、制服の他にもう一つ、理由がある。それは、吹奏楽部強豪校であることだ。吹奏楽に関わったことのある人間ならば、百合蘭を知らない者はいない。百合蘭は全国大会出場常連校であり、毎年、有名音楽大学の合格者を出している名門中の名門。吹奏楽部に所属している中学生の憧れの高校なのだ。しかも、百合蘭は音楽に力を入れているだけではない。有名私立大学や国立大学を目指す進学校としての側面もあって、音楽大学を目指すにしても、普通の大学に目指すにしても、どちらにも転べる環境ということで、人気が高いのである。
そんな中学吹部生(吹奏楽部と正式名称で言うのは長いため、よく吹部って略される)全員の憧れ、百合蘭吹奏楽部の体験入部にて、愛音と聖奈は出会ったのだ。