受診する勇気
息子が通う保育園に隣接するのは、日本歯科異世界の広島支部。
日本歯科異世界は朝10時から夕方4時までのため、診療時間外である朝9時までと、夕方の5時以降は駐車場を保育園の送迎に使用することを許可してくれている。
だが、時たま、その診療時間外にも異世界スタッフが駐車場で立ち話をしていたりする。
「……でね、その頂き物の瀬戸内レモンがぶち酸っぱくて……」
「……ぶち近所にあるスーパーで、もみじ饅頭が……」
ここ、関東の地からすれば、遥か西の広島県は確かに異世界と呼べるかもしれない。
けれど、強調の副詞を「ぶち」にして広島の特産物を会話にぶち込みさえすれば良いというような異世界スタッフの手抜き感には、プロ意識が欠如していると言わざるを得ない。
ただ、日本歯科異世界という組織そのものの意識はそこそこ高いのだろう。広島支部所有車はカープ仕様のご当地ナンバープレートだ。車庫証明はどのように細工したのだろうか、と考えるに、恐らくは広島県にある日本歯科異世界の別の支部を登録するなどしたのだろう、推測だが。インターネットで検索し確認したところ、広島県には現在、日本歯科異世界の青森支部が存在するらしい。ねぶたとリンゴでカープファンに勝負を挑むに違いない日本歯科異世界青森支部は、そこはそこでまた異世界なのだろう。
ある日のこと、息子が鼓笛演奏の練習中に歯の痛みを訴えた、と保育士から伝え聞いた。
「お隣の日本歯科異世界さんは訪問診療が多いみたいですけれど、前もってお願いすればお隣でも診察していただけますよ」
お隣の様子にも詳しいようで、親切に教えてくれる。
基本は訪問診療とのことなので、広島に飛ばされる危険性は平素は無いのだろう。
だが、支部に乗り込んだ場合に、半強制的に異世界転移させられる可能性も否定できない。
異世界に行くべきか、行かざるべきか。
興味はあるが、一歩、足を踏み入れたが最後、異世界からこちらの世界に戻れなくなってしまっても困る。
……まぁ、所詮はエセ広島県なので、新幹線代を負担すれば問題無いのかもしれないが。
こし餡か粒餡か柑橘フロマージュ味か。それにクリームパンも捨てがたい。ちなみに「堂」の字は、屋号などにつける語だそうだ。仮に歯科異世界を受診するのであれば、マイバッグは念のため多めに持っていた方が良さそうだ。
後日、職場には休みを申請し、子を馴染みの歯科診療所に連れて行った。
「日本歯科異世界? あぁ、あそこは異世界だよね」
不躾な質問ではあったが、歯科医師はからりさらりと答えてくれた。
医師曰く、彼がまだ医大生だった頃、医師が通った医大の近くにも日本歯科異世界があったという。当時、北陸の地にあったのは鹿児島支部。けれど、支部は一定のサイクルで支部ごと転移するらしく、医師が歯科医師免許を得た時には高知支部だったそうだ。その後は山口支部へと姿を変え、医師曰く、北陸の人々は明治維新の風を肌で感じたのだという。
息子はその後も三回ほど歯医者に通い、無事に治療終了となった。
そして、今。
奥歯がしみる。
キーンとしみる。
今度こそ。
我が子を保育園に預け、エコバッグをエコバッグに詰め込んで、保険証とお薬手帳を皺にならない程度に握り締め、いざ。