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BaSO4

作者: じゃん


 名前を呼ぶ声がした。不安と期待を抱えながら、席を立って呼ばれた方へ歩いた。呼ばれたのはひとりではないらしい。親子ほど歳の離れたように見える男性と女性も一緒だ。


 「これから、胃の検査に移ります」


 看護師さんに導かれるまま、一行は検査室の前に辿り着く。これまで幾人が座っただろう、少し固くなったベンチに腰を落として、また名前を呼ばれるその時を待った。




 しばらくして、検査室の扉が開いて名前を呼ばれた。もう何度口にしただろう。促されるまま名乗ってから、マスクとメガネを外して検査機の台に立った。もたれかかれるほど大きな平面、そこから伸びたアームが正面に回り込んで、大きなレンズが胸のあたりを覗き込む。名前を呼んだ医師が、紙コップを渡してきた。ああ、ここにバリウムが入っているのか、という浅はかな推測は、ざらざらという軽やかな音に流されて消えた。


 「まずはこれを口に含んでください。含むだけで、飲まないでくださいよ」


 粒状のそれを口に含むと、唾液に触れてしゅわしゅわと発泡するのを歯茎と舌で感じた。なるほど、炭酸か何かか。と当たり前の結論を導き出したことで、僅かに自己肯定欲を満たし、意図せず油断した。


 「ではこちらを持ってください。下剤の入ったバリウムです」


 次に渡されたのは、細長いプラスチック製の容器に満たされた白い液体だった。下剤と言ったか?理解しきるより先に、医師は何度も口にしたであろう注意事項を述べる。

 指示があるまで飲まないこと。お腹が膨らむ感覚がすること。げっぷをしてはいけないこと。検査着の裾はズボンに入れておくこと。

 グレムリン育てよんか。思わず心の中のノブが突っ込む。そんなに注意事項があるなんて思わなかったからだ。そのような馬鹿げた考えはおくびにも出さず、指示を待ってから、バリウムをあおった。

 気持ち悪い。どろりと喉にまとわりつくようで、人肌のようにぬるく、申し訳程度に甘い。少しでも飲みやすくする工夫か、性質上甘く感じてしまうのか。甘みを感じれば人は幸福を得るはずだが、この甘さはバリウムの言い訳を聞いているようで、却ってうざったく感じた。


 「では撮っていきますねー。ちょっと斜め向いてくださーい」


 バリウム検査では、一方向からではなく様々な方向から胃を撮影するのだった。別室から放送で指示されるまま、横を向いたら斜めを向いたりして、数枚撮った。げっぷを我慢するまでもない、と高を括った途端、医師が次の展開を告げる。


 「では倒します」


 うん?と疑問を感じたのも束の間、背後の機械が大きな音を立てて後方に倒れ始めた。前が上に、後ろが下に、もたれていた平面は台に変わった。


 「では回ってもらいます。こちら側に回って下を向いて、その後反対を向いてまた上に。これを3回お願いします」


 意味が分からない。回る?なぜ?訳もわからぬまま、横向きに寝返りをうった。


 「はいそうですー。じゃあ次下向いてください」


 そうなんかい。つまりこれから、この固い台の上で、見ず知らずの医師と物々しいカメラの視線を浴びながら、ひとりで3回縦回転をしなければいけないのか。言われるがままにうつ伏せになり、反対側に横向きになり、仰向けに戻った。固い台の上では肘と膝が痛くなる。文字通り全身運動だから汗もかく。布団で寝返りをうつのとは訳が違う。


 「はいありがとうございますー。では撮っていきますねー」


 まだ撮ってなかったんかい!とは言えなかった。今にして思えば、飲み込んだバリウムを胃壁に塗りたくるための動きだったのだろう。そうでなかったとしても、そう思っておきたい。

 その後も、やれ右腰を上げろだの、うつ伏せになれだの、指示されるままに台の上で色々な格好をさせられ、少し傾けた台の上をずり落ちたりした。頭を下にして傾けられもした。最新機器で中世の拷問すな。


 「では最後にまた立って撮りますねー」


 倒れたときと同様に、大きな音を出しながら台は壁に姿を変えた。正面のカメラは変わらず少しだけ横に動きながら撮影を続ける。

 すると、ここで医師からまた新しく何かを手渡された。さっきの細い容器とは比べ物にならない、シェーカーくらいのサイズのカップだ。プロテイン飲むやつだろこれ。


 「じゃあちょっと多めに口に含んで、合図したら空気と一緒に飲み込んでくださいね」


 まだ飲むのか。もう既に腹の中が気持ち悪くなってきているのに。そんな気持ちを押し殺して、一口だけ含む。合図を受けて飲み込むが、上手く空気を混ぜられなかった気がした。医師はううん、と唸る。


 「もう一回やりましょう」


 ぴえん。


 「はーい、いいですねー。じゃあ残り全部飲みましょう!」


 タチの悪い飲み会じゃないんだぞ。我慢して二口目を飲んだのにこの仕打ちか。病院で医師の言うことは絶対だから従うしかないが、タチの悪い飲み会で王様ゲームをしている気分だ。


 「ではお腹押してきますよ」


 まだ知らない処置がある、と呆れる間もなく、横からにゅっ、とアームが伸びてきた。その先は丸い形をしていて、固そうな素材ででっぱりが造られている。アームはちょうど、鳩尾のあたりの高さだ。

 ああ、押されるってそういう……。鉄柱に拘束された桑田の気持ちが分かる。無機質な機械音とともに、その出っ張りが腹に沈む。思ったより沈む。げっぷを我慢してるというのに、そんなところをそんなに強く押すなんて、無茶苦茶だと思った。しかも何度も、色んな角度から押してくる。自然と腹に力が入るくらいには痛い。げっぷとかどうでもいい。それどころじゃない。

 どれくらいやられていたか分からないが、実際には1分程度の時間が10倍の長さに感じた。ようやく検査の終了を告げられ、ふう、と一息つく。


 結局その後もいくらか検査をしたが、バリウム検査より時間がかかるものも、辱めを受けるものもなかった。看護師から付け加えられたのは、普段より多く水分を取るようにすることと、数日は便の色に注意しておくことだった。

 噂に聞くばかりでは分からなかったバリウム検査の工程を、身をもって知ることができただけでも、人間ドックを受診した価値はあったかも知れない。ただ、知識は頭の中に入れておくだけでは存在しないのと同じだ。それに形を与え、意味を付け加え、世界に表出させてこそ、知識は知識として価値を持つ。決して安いとは言えない受診料を払ったのだから、せめてこの知識に価値を持たせてやろう、と、貧乏根性なのか物書きの意地なのか、いずれにしても高尚とは言えない動機に突き動かされるままに、こうして帰りのバスの中でスマートフォンを叩いている。

 だがこの時は知る由もなかった。バリウム検査の辛さはこれからが本番だったのだと。




 端的に言うと、バリウムにあたった。中ったというのはつまり、牡蠣や河豚や鯛の天ぷらを食べたときに体に有害な影響が表れる、あれのことだ。気が付いたときには、右脇腹に激しい痛みを感じていた。体の内部が傷つけられるような、鋼鉄製のもやっとボールが十二指腸に詰まっているような、ひどい痛みだ。すっきりしたい。

 インターネットで少しばかり検索してみると、バリウム検査後に腹痛を感じることがあるそうだ。飲み込んだバリウムが体内に留まると痛みを生じるようで、それを防ぐためには水や物を多く摂ることが必要だそうだ。検査前は制限しておきながら終わるや否や飲めや食えやとは、人間ドック前後の生活の変化で体を壊しそうだ。

 しばらくは便の色を確認しておくように言われたが、それがバリウムが排出されたことを確認するためだと、理解はしていたがその意味までは考えていなかった。バリウムは人体にとっては異物だ。体内に留まれば痛みも起こすし、最悪、開腹手術しなくてはいけなくなる。言っとけや。はらわた絞ってでも捻り出すから。

 検査から一夜明け、丸一日が経過した頃にようやく腹の悪魔も落ち着いてきた。次こそはバリウム検査などやるまい。異物は異物でも取り出しが簡単な胃カメラを選択しよう。と、誰に言うでもなく誓うのだった。

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