恋人の心臓を食べて自死した魔女ですが、転生したら元恋人に護衛される王女様になりました。
死屍累々の、廃城で、恋人だった男の胸を開く。
震える両の手で剣を持ち、そうっとそうっと、骨を切る。
傷つけないように気をつけて、太い血管をぷつんと切る。
生命の恵みの水を掬うように、赤黒い心臓を掬い上げる。
ひとりぼっちになった心臓に、彼を想ってキスをする。
「いただきます」
そうして彼の、心臓を食べた。
血の味と、涙の味しか感じない。
心臓のない恋人の骸を抱いて、呪われた人食い魔女は息絶えた。
――はず、だった。
✽✽✽
小さな靴がリズムよく、赤い絨毯の敷かれた廊下を叩いて走る。薄桃色のドレスの裾を持ち上げて、彼をめがけて突っ走る。
「シルヴァンっ!」
雪のような白銀の髪を揺らして、小さな少女は騎士に抱きついた。懐かしい香りに包まれて、少女の鼓動は速くなる。
彼のお腹のあたりに頬を擦り寄せ、透き通った水色の瞳で彼を見上げた。
彼の瞳は、森のような緑色。
「リュシー様、そのように走ってはいけませんと何度も申し上げたはずです」
「ええ、ごめんなさい」
全く悪びれる様子を見せずに、少女はぎゅうっと騎士を抱きしめ続けた。呆れたようなため息の後、騎士は少女を抱き上げる。
「リュシエンヌ王女様は、まったくおてんばで困る」
「わたくしも、シルヴァンがかっこよすぎて困っているわ」
小さな王女リュシエンヌは、護衛騎士シルヴァンの首に絡みついた。
「いつまでそんな甘えたのおつもりですか」
「シルヴァンが甘やかすのが悪いのよ」
シルヴァンの大きな手であやすように背を撫でられ、その温かさに泣きそうになる。
彼の首筋に顔をうずめて、涙を零さないように気をつけて、震える唇を開いた。
つい先程読んだ物語で、リュシエンヌは自分の前世を思い出したのだ。
「あのね、シルヴァン。今日……『人食い魔女と勇者の話』を読んだわ」
背を撫でていた手がぴたりと止まる。
彼は覚えているのだろうか。
「……どう、でしたか」
緊張しているようなその声に、人間の子どもらしからぬ感想を答えた。
「人間って、嘘つきね」
あの物語を読んでそう思うのは、真実を知る者だけだろう。人食い魔女と勇者の、本当の最期を知る者だけだ。
「ええ、そうですね」
「シルヴァンも、人食い魔女の名前は誰も知らなかったと思う?」
さあ、どう答えてくるか。
彼が静かに長く息を吐く。
心臓が狂ったようにうるさく跳ねている。
彼はきっと答えを探しているのだ。
ふたりの正体を、明かせてしまう答えを。
「恋人は、知っていたと思いますよ」
「……ええ、そうね」
その答えだけで十分だった。人食い魔女に恋人がいたなんて、他の人間はそんな可能性すら考えないだろう。
人食い魔女が勇者と恋人だったなんて。
愚かな人間どもは知るはずもない。
彼の耳元に唇を寄せ、ほとんど吐息の声で囁く。
「……ただいま、シリル」
「おかえり、リディア」
彼のその声もほとんど吐息の声だった。
ふたりとも覚えているのだ。
人食い魔女リディアと、勇者シリルであった、四千年以上の前の時のことを。
✽✽✽
人食い魔女と人々に噂される魔女リディアは、山のなかの小さな小屋でひっそりとひとりで暮らしていた。
そんな暮らしが壊れたのは、たしか千歳を二百年過ぎたくらいのときのことだ。
「リディア、大好きっ!」
「趣味の悪い人ですこと」
リディアはいつも肌と目元を隠して完全防備で街に出るのだが、あるとき気まぐれに貧しい少年を助けたら懐かれてしまった。
その後彼の家が放火に遭って、母と妹が死んだらしい。殺されそうになっていたところを命からがら逃げてきた少年は、愚かにも〝人食い魔女の山〟にやってきて――まんまと人食い魔女の家で居候を始めた。
人食い魔女と言われるが、実はリディアは人を喰ったことはない。
リディアはただの魔女ではなく、呪われた魔女だったからだ。
母の呪いから生まれたリディアは竜の血を混ぜてつくられた子どもで、普通の人間のようには死ねない〝竜人〟だった。
普通の魔女は人々の心臓を喰らって寿命を奪う一方、リディアは人間の心臓を喰ったら死ぬ呪いをかけられていた。
母はかつて魔女に家族を殺され、魔女を恨んでいたらしい。ゆえに魔女に復讐をするために竜と契約し、己も魔女となったのだ。
母は優れた魔女だった。悪しき魔女をぶっ殺し、しかし人々のために薬をつくって助けた。
リディアは、そんな母のつくった最高傑作だった。
母の恨む魔女の特性――人間の心臓を喰らって寿命を奪う――を持たず、けれども母の望む不老不死をほとんど持ち得た存在。
心臓を喰わずにいれば、数千年の時を竜とともに生き、竜とともに死ぬことを運命とされていた。
『人を食べてはいけないよ』
そう母に言われて育ち、母亡き後も律儀に守り、死なずにずっと生きること千年以上。
人と違う容姿、二十歳よりは歳を取らないこの体。
水色の髪も、虹色の瞳も、薄い鱗で覆われた皮膚も、人間の世界で生きるのには不便なものでしかなかった。
隠さなければならない、醜いものだと思っていた。
「リディアは美人さんだね」
「そうですか?」
一緒に暮らし始めた少年は、名をシリルと言った。
茶色の髪に、緑色の瞳の、痩せていたけれど可愛らしい顔をした少年。出会ったときにはまだ五歳だった。
最初は姉と弟、あるいは母と息子のような関係だったと思う。年の差千歳以上のふたりの共同生活は、意外なほどにうまくいっていた。
「リディア、好きだよ」
「はいはい」
「リディア、愛してる」
「それはどうも」
「リディア、俺が大人になったら結婚しようよ」
「……どうぞお好きなようになさってください」
出会ったときには小さな子どもだったシリルは、いつの間にか立派な青年になっていた。
リディアよりうんと背が高くなり、逞しい筋肉のついた良い体つきになった。
小さな頃はリディアが彼を抱っこしていたのに、いつの間にか彼がリディアをひょいっと抱き上げるようになっていた。
小さな頃は「好き」と言うだけで顔を真っ赤にさせていたのに、いつの間にか平気な顔でキスしてくるようになった。
「リディアの髪は、清らかな川みたいで綺麗だな」
そう言って水色の髪を、大きな手で撫でた。
「リディアの瞳は、神秘的でずっと見ていても飽きないよ」
そう言って虹色の瞳を緑色の瞳で見つめ、唇を触れさせた。
「この鱗も、一枚一枚がまるで宝石みたいだ」
そう言って肌を撫で、何度も何度も口づけを落とした。
「リディアはこの世の誰よりも美しく、愛おしい女だ」
そう言って、肌を重ねた。
千年以上の時を生きたリディアは、初めて誰かを愛するということを知った。
小さな頃は、ただ添い寝するだけだったのに。
いつの間にか恋人になっていた彼は、男と女として同じベッドで寝るようになった。
人と違う竜人の容姿を、初めて「美しい」と言われた。何もしていなくても人々に恨まれて死を望まれてきたのに、初めて人間に「好き」と言われた。
惚れない方が、難しかった。
「リディア、愛してる」
「……私も愛してますよ、シリル」
ふたりで一緒にご飯を食べて、ふたりで一緒に眠りについて。キスをしたり抱きしめたり、そうするだけで幸せだった。
幸せだった、のに。
「ごほ、ごほっ……ぐっ……はぁ……」
「シリル……っ」
街で疫病が流行り始めた。
リディアのつくった薬や山の洞窟で採れる宝石を街に売りに行っていたシリルが、その病に罹った。
高熱が出てうなされて、咳と一緒に血が出て苦しそうで、看病しているだけですごく辛かった。
「リディア……リディア……っ」
掠れた声で名を呼ぶ彼の手を、ぎゅっと握る。
どうか死なないで。どうか一緒に生きていて。
「大丈夫です、シリル。必ず……必ず、助けますから」
リディアは魔女だ。
魔女は人間にはつくれないような薬をつくれる。
かつて母も、街の疫病を治す薬をつくりあげた功績があった。
寝る間も惜しんで、薬をつくった。
彼を助けたくて頑張った。
「……リディア」
「シリル、治ったんですか!?」
「うん、ありがとうな。リディア」
「良かった……っ」
薬作りがうまくいって、シリルは助かった。
彼をぎゅっと抱きしめて、しっかりと動いている心臓の音を聞いてほっと安心する。
嬉しくて、初めてリディアの方から彼にキスをしてしまった。深い口づけの後に彼を見つめれば、彼の頬はほんのりと赤らんでいる。
「リディア。……しても、いいか?」
「うん。しましょう」
ふたりでベッドに倒れ込んで、生きている喜びを確かめるように重なり合う。
心臓がうるさく鳴ること。
吐息が乱れること。
汗が流れること。
体に触れること。
愛の言葉を囁くこと。
名前を呼ぶこと。
全部全部、生きているからこそできることだった。
千年以上の生のなか、こんなに生きていることを嬉しいと思った日は他になかった。
街の人たちを助けるために、たくさん薬をつくってシリルに持っていってもらった。
疫病は無事に街から消えて、めでたしめでたし――には、ならなかった。
「人食い魔女が疫病を街に流行らせた」
「人食い魔女が俺たちを殺そうとした」
「こんなふうになったのは魔女のせいだ」
「魔女なんて殺してしまえ」
完全防備の格好で、久しぶりにシリルと街にデートに行った日。そんな街の人々の声を聞いた。
母のときもそうだったらしい。
魔女の薬で人々は助かったくせに、治ると全てを魔女のせいにするのだ。
世界で起こる全ての悪いことは、魔女の仕業なのだと。
「大丈夫だ、リディア。俺が守ってやるから」
「……シリル」
彼に優しく肩を抱き寄せられながら、このときリディアはこの生活の終わりを予感した。
人食い魔女を恐れて山に近づかなかった人々は、疫病をきっかけに勇気を持ち始めたようだった。
山に人間が入ってきて、森を荒らすようになった。
「魔女を殺せ」「魔女を殺せ」と、人々は狂ったように叫んでいた。
人間から魔女が身を守るために、山のなかにはいろいろな罠が仕掛けてあった。
けれどもそんな仕掛けもどんどん壊されて、魔の手はリディアに近づきつつあった。
魔女を匿った人間も、魔女と同じように殺されてしまうこの世界。
呪われたリディアは火あぶりの刑に処されても死ななかった過去をもつが、ただの人間のシリルは火あぶりの刑に処されたら死んでしまうだろう。
「シリル、大好きです」
「俺も大好きだよ、リディア」
愛しい彼とともに暮らす、幸せな日々。
その終わりがいつか来るのは、分かっていたことだ。
人間である彼はいつかリディアを置いて逝ってしまうのだから、別れが来ることは覚悟していた。
ほんのちょっとだけ、それが早まるだけ。
大好きな彼の命を伸ばすために、早めにお別れするだけだ。
そう自分に言い聞かせ、彼との別れを決意した。
「さようなら、シリル。……愛していたわ」
「待て、リディア……っ」
彼に〝忘却の魔法の薬〟を飲ませた。
リディアのことなんて忘れて、街で生きる普通の人間に戻って欲しい。
どうせ死ねないリディアは、人間たちに何をされても生きていられるから、これからはお互いを知らずに生きていこう。
精いっぱいの魔法で彼の体を街に運んで、昔少し世話になった人に置き手紙を残して彼を頼んで、リディアは街を去った。
そして自らも、忘却の薬を呷った。
そうして彼を、忘れた。
リディアには友だちがいた。
母と契約して魔女にさせた、竜のスイ。
彼の血を混ぜてつくられたリディアにとって、スイはふたりめの父親のようなものでもあった。
スイと一緒に、かつて誰かが住んでいたという、山のてっぺんにある古びたお城に移り住む。
何か大事なものをどこかに置いてきてしまったような空っぽの心で、埃まみれの城のなかを彷徨った。
スイから街の噂をたびたび聞いた。
暴漢に襲われそうになっていたお忍びの王女様を、ひとりの青年が助けたらしい。
その青年は、王女様の護衛騎士になったらしい。
青年は王様から、魔女の討伐を命じられたらしい。
青年率いる討伐隊が、この城に向かっているらしい。
「騎士様が剣で貫いたって、私は死なないのにね」
「リディア、何故隠れぬ。お前を殺そうとする人間どもから、何故逃げぬ」
「あのね、スイ。私、よく貴方が話してくれた騎士様を見てみたいの。王女様をお助けしたっていう、あの騎士様よ」
「何故あの男に会いたい」
「……心が、『会え』って言ってる気がするの」
山のてっぺんにある城に、悪しき人食い魔女が住んでいる。
この世界の最後の魔女が、竜を従えて住んでいる。
「出てこい、魔女。お前はもう終わりだ」
魔女は大人しく、愚かな人間たちの前に姿を現した。おんぼろの城の主らしく真っ黒いドレスを身に纏い、竜人の姿を隠しもせずに。
「……!」
人間と違うその姿に、鎧を纏った屈強な男たちが怯えるのが見えた。その哀れな姿にくすくすと笑いが漏れる。
人間って、本当に馬鹿だ。
「み、醜い魔女め……! シリル様、魔女を見つけました!!」
「そうか、ご苦労」
剣を構えた騎士たちが道を開け、ひとりの青年が真ん中を闊歩する。
ひときわ豪華な鎧と王宮騎士の証の鮮やかな青色のマントを纏うその姿から、彼こそが王様に魔女討伐を命じられた噂の騎士様なのだと分かった。
緑色の瞳が煌めいている、美しい青年だった。
「シリル……シリル?」
笑うのをやめて、騎士から呼ばれていた彼の名を自分の唇で呟いてみる。どこかで聞いたことのある名のような気がした。
頭のなかに、いつかどこかで見たような彼の姿が一瞬蘇る。
「っ……あら……?」
何かを思い出せそうだった。
「悪しき人食い魔女よ、お前の悪行ももはやこれまでだ」
「……ええ、そうね。でもその前に……鬼ごっこをしましょう。貴方に捕まえられるかしら、ね」
黒いドレスを翻し、騎士たちに背を向けて窓から飛び降りる。足が変な音を立てた気がするが、そんなことはどうでもいい。
心が言っている。『思い出せ』と。
誰だ、あの男は。
誰なんだ。
いま剣で刺されたら、思い出す前に気を失ってしまう。
だから思い出すまで、時間を稼がなければ。
逃げて、時間を。
『リディア』
あの男の声で、リディアは名を呼ばれたことがある。
『リディア、大好きだ』
あの男に、リディアは愛を告白されたことがある。
「おい、魔女! 皆の者、逃がすな!!」
彼の声が聞こえる。
振り返って見てみると、どたばたと他の騎士が扉から外に出ようと走るなか、彼はリディアと同じように窓から飛び降りていた。
彼は、彼は。
リディアは彼を知っているはずだ。
痛む足で逃げまどい、崖の縁までやってきた。
後ろを振り返れば、緑色の瞳の騎士様がいる。
「シリル。……貴方は、誰なの」
「魔女。……名を、教えてくれないか」
魔女討伐を命じられた騎士のくせに、彼はリディアの目の前に立っても剣を刺してこなかった。
他の騎士たちが来る前に、彼のことを思い出さなければ。
「……リディア、よ」
「そうか、リディアか……。そうだったな」
彼は、愛おしいものを前にしたかのような顔で、笑った。
「リディア、逃げろ」
「!」
そう言って騎士様は、リディアを崖から突き落とした。
ぐらりと揺れる世界のなか、緑色の瞳を見る。
その瞳からは、涙が落ちていた。
「リディア」
「あら、スイ……?」
崖から落ちたリディアは、途中で竜の背中に受け止められた。崖の上では騎士たちが歓声を上げている。
「悪しき魔女は死んだ」
そう高らかにのたまう声は、騎士様のものだった。
もしや彼は、リディアを庇おうとしてくれたのだろうか。
「スイ。……あの男は、誰なの?」
「お前は知らなくて良い」
「嫌よ、知りたいわ。もう一度だけ……彼に、会いたい」
ぽろりと涙が瞳から落ちた。
雫がころんと手の甲を転がる。
それはピンク色をした、小さな丸い石になった。
「これ、は……」
強い感情から流れる竜の涙は宝石になる。そんな知識はあったが、実際に見たのはこれが初めてだった。
キラキラと輝くピンク色の、その感情は。
「……私は彼を、愛しているのね」
真実の愛。
その言葉を呟いた途端に、はっきりと彼を思い出す。
忘れていた記憶のすべてが、頭のなかに帰ってくる。
リディアは思い出した。
「ああ、そうね」
シリルはリディアの、恋人だったことを。
「ねえ、シリル」
「リディア、何故戻ってきた……!」
人間なんかより、馬鹿だったのはリディアだったのかもしれない。
彼の厚意を無下にして、愚かにも人間どものいる崖の上に這い上がった。
こんなことをするべきではなかったのに、会いたい気持ちを抑えられなかった。
恋は盲目って、こういうことなのかもしれない。
人間は、死ねない魔女を殺そうとした。
馬鹿な騎士様は、魔女を守ろうとした。
馬鹿な魔女は、騎士様を守ろうとした。
剣を交えて、魔法が飛んで、屍が増えて。
血飛沫が舞って、誰かの体が吹っ飛んで、ごろりと首が転がって。
死んで、死んで、死んで。
いつしかシリルとリディア以外、みんなみんな死んでしまった。
「リ、ディア……」
彼の口から、すっと血が溢れる。
鎧を貫いたその剣は、彼の命を奪おうとしていた。
「何故、貴方が刺されたですか……私は刺されても死ねないのに、何故……!」
「好きな女が、傷つきそうだってのに……守らないなんて、できなかった」
「馬鹿……っ」
彼を守りきることができなかった。
そのくせ彼を守りたくて放った魔法のせいで、もう魔力は残っていなかった。
死にゆく彼を助けられない。
愚かな魔女は、ただただ無力だった。
もう力なんてほとんど残っていないはずなのに、彼は震える手でリディアの頬を撫でた。
すごく痛くて苦しいはずなのに、幸せそうに微笑んだ。
「リディア……愛している」
「私だって、愛してます」
「前に言ったことを、覚えているか。『大人になったら、結婚しよう』と」
「……ええ、はっきりと」
「もし……生まれ変わりなんてのが、あったなら、そのときは……」
リディアを俺の、嫁にする。
その言葉を最後に、緑色の瞳から光が消えた。
頬から滑り落ちた手は温度をなくして、心臓は動きを止めた。
「シリル……シリル……っ」
涙がぽろぽろと落ちていく。
真実の愛の色の涙とともに悲しみの青色の涙も落ちて、あたりにはキラキラと竜の涙の宝石が散らばった。
「――それがお前の、選択か」
「ええ、そうよ。さようなら、スイ」
そうして友だちの竜に別れを告げて、魔女は恋人の心臓を食べたのだ。
彼の後を、追いかけるために。
◇◆◇
今は昔、この世界には〝人食い魔女〟がいました。
人の心臓を喰らい、永く生きる魔女は、人々から嫌われていました。
「魔女なんて死んでしまえー」
ある日、王様は勇者に言いました。
「魔女を殺せ」と。
勇者と騎士たちは、魔女の城に行きました。
魔女は勇者を恐れて城から逃げようとしましたが、勇者は魔女を追い詰めて、崖から突き落としました。
人々は魔女の死を喜びました。
「わーい、わーい」
しかし実は、魔女は死んではいませんでした。しぶとい魔女は、崖から這い上がってきたのです。
正義の勇者と悪の魔女の戦いが始まりました。
ふたりの戦いは激しく、他にも沢山の人が命を落としました。
勇者は命懸けで魔女と戦い、魔女は死にました。
「やったー、魔女が死んだぞー」
しかし勇者も深い傷を負い、死んでしまいました。
「うわーん、勇者さまー」
勇者が魔女を殺したことで、人々が魔女に怯える必要はなくなりました。
人々は勇者の死を嘆き悲しみ、魔女の死を喜びました。
人食い魔女を倒した勇者は、名をシリルと言い、この名は後世まで語り継がれることとなりました。
魔女の名を知るものは、ひとりもいませんでしたけれどね。
めでたしめでたし。
◇◆◇
リュシエンヌ・フランソワーズ・ヴァレットは、ヴァレット王国の王女だった。
シルヴァン・ユルティスは、リュシエンヌ王女の専属護衛騎士だった。
リュシエンヌは月を眺めて、彼が来るのを待っていた。
「リュシー様、お呼びですか」
「こんばんは、シルヴァン」
自身の前世を思い出した夜、リュシエンヌはシルヴァンとふたりきりでいることを望んだ。
父王に甘えて我儘を言えば、愛娘のためだと許してくれた。シルヴァンの王からの信頼が厚かったことも、許可が下りた理由に入るだろう。
白いネグリジェ姿で、愛しい彼を抱きしめる。今のリュシエンヌの背は、彼の胸よりも低い高さしかない。白銀の髪を、彼が優しく愛おしげに撫でた。
「……今度は貴方が年上なのね」
「はい、十二年早く生まれてきました」
「いつから気づいていたの?」
「三年前、貴女の護衛騎士に任命されたときに」
「……そう」
現在、リュシエンヌは六歳、シルヴァンは十八歳だ。前世では千歳以上の年の差があったものだが、この十二歳の差はそのとき以上に大きな差のように感じる。
「今日だけ……前の名前で、呼んでも良い?」
「はい。……俺も、前の名で呼んでも良いですか?」
「ええ」
背伸びをして高い位置にある彼の顔を見上げて、緑色の瞳を見ようとする。
その必死な様子に気づいたらしい彼が、しゃがんでリュシエンヌに視線を合わせた。
透き通った氷の湖のような水色の瞳と、夏の森の葉のような緑色の瞳が、互いの姿だけを捉える。
「……リディア、会いたかった」
「私も会いたかったです、シリル」
彼はリュシエンヌの小さな手を握り、柔らかく甘い、はちみつみたいな微笑みを見せた。
リュシエンヌはにこりと微笑むと彼の手を引っ張って、ベッドへと歩いていく。
「今日は一緒に寝ましょう」
「それは……まずくないか」
「まずくないわ。大人は子どもに添い寝してあげるものでしょう? 私も小さい頃の貴方にしてあげたわ。……ね? いいでしょ?」
末っ子王女リュシエンヌは基本、甘えることで己の望みを叶えている。幼いながら美しい顔立ちをした、可愛らしい王女が上目遣いで見つめれば、誰だって甘やかしたくなるものだ。
大人なんて、ちょろいものである。
「……仕方ないな」
「ありがとう、シリルっ!」
満面の笑みを見せてから、一度彼の手を離して、よいしょとベッドの上によじ登る。
仰向けに寝転んで「おいで?」と囁いて両手を広げれば、彼は渋々という様子でベッドの上にやってきた。
「またシリルと一緒に寝られるなんて、夢みたいです」
ふたりで向かい合って寝転がり、リュシエンヌはにこにことした。ちょっと不満げな彼の、茶色い髪をよしよしと撫でてやる。
「ああ、そうだな。俺はとても寝れる気がしないが」
「えっ、今夜は寝かせないですって?!」
わざとらしく頬に手を当て、照れるように身をくねらせてみた。彼が心底呆れたといった顔でこちらを見る。
「んなこと言ってないだろ。お前、一度死んでから馬鹿になったのか?」
「一国の王女に馬鹿だなんて……不敬にあたりますわよ?」
「もう良い、知らない」
あんまりにもふざけていたのがいけなかったのか、シルヴァンはいじけたようにぷいっと向こうを向いてしまった。リュシエンヌはめげずに、背後から彼にしがみつく。
「ごめんなさい、シリル。愛してます」
「俺だって、リディアのこと愛してたよ」
「過去形なんですか?」
「……リディア、何故あんなことをしたんだ?」
「あんなことって?」
彼にひっついたまま首を傾げて、何かがおかしいということに気づく。
彼の背は微かに震えていて、後ろからそっと覗き込むと、緑色の瞳から一筋の涙が落ちていた。リュシエンヌは息を呑む。
「シリル……? どうしたんですか……?」
「何故、俺を捨てたんだ。何故、愛するお前のことを忘れさせた」
「私は貴方に生きていて欲しかったのです。普通の人間として、幸せになって欲しかった」
忘却の薬を飲ませるとき、悩まなかったわけではない。たくさん悩んだ末にリディアは、お互いを忘れて生きることを選んだ。それが幸せなのだと自分に言い聞かせた。
「リディアのことを思い出したとき、俺がどれほど辛かったか分かるか?」
「貴方に辛い思いをさせたならごめんなさい。でも……貴方こそ、何故魔女を討ち取ったことにしたのですか」
「リディアは最後の魔女だった。討ち取ったことにすれば、もう魔女狩りも行われず、お前が火であぶられることはないだろうと思った。……好きな女が燃やされる姿なんて、二度と見たくない」
リディアは一度、シリルの前でも火あぶりの刑に処されたことがある。皮膚全体が炭になるまで燃やし尽くされ、けれど死ねずに、やがてはまた鱗で覆われた竜人の姿に戻った。
「なあ、リディア。何故お前は逃げなかった。何故崖から這い上がってきた」
「貴方に会いたかったのです。貴方に聞きたいことがあったのです」
「何を聞きたかったのだ」
「今も私を、愛していますか……と」
水色の瞳から、ぽろりと涙が零れた。
リディアは一度、シリルからの愛を疑ったのだ。
「俺はお前を愛していた。死ぬまでずっとだ」
「でも、貴方は……貴方が魔女を討ち取れば、貴方は王女様を下賜されることになっていたではありませんか」
スイから聞いた噂のなかには、魔女を討ち取った後にどうなるかという話もあった。
魔女を討ち取ることを王様に命じられた騎士様は、それが成功した暁には、お仕えしていた王女様を妻に迎えられる褒美が与えられることになっていた。
あのまま魔女が討ち取られたことになってシリルが王城に戻っていれば、彼は王女様と結婚していたのだ。彼はリディアと結婚しようと言ったのに。
「ねえ、シリル。……貴方の愛は、いつまで私にありましたか? あの日再会したときには、まだ私を愛していましたか?」
「ああ、愛していた。……だが、俺はお前が分からない。何故お前は死んだのだ」
「シリルの後を、追いかけたかったのです」
彼が身動ぎをして、くるりとこちらを振り返った。眉間に皺を寄せて、頬に涙を伝わせて。
「何故……何故、死を選んだ!」
「貴方のいない世界では、生きていけませんでした」
「それでも……俺はお前に、生きていて欲しかった」
その声は、酷く悲哀に満ちていた。
魔女が生きていることを望んだ人間は、彼しかいない。
魔女が自ら死を選んだことをこんなに怒るのも、咎めるのも、悲しむのも、彼だけだ。
彼に生きていることを望まれて嬉しい気持ちもあるのに、かつての彼を守れなかったことが辛くて仕方がない。胸のなかを大きく陣取る感情は、後悔だった。
リディアが大人しく討ち取られたことになっていれば、彼はもっと長生きできたかもしれない。
彼が王女様と結婚しても仕方ないと思えていたら。彼からの愛を望まなければ。彼からの愛を信じ続けていれば。
昼間に記憶を取り戻してから今までの短い時間で、どれほど考えたか知れない。
どうすれば、彼はあのとき死ななかったのか。
「私だって、貴方に生きていて欲しかった! 貴方を守りたかった! できることなら、ずっと……ふたりで、生きていたかった……っ」
叶わないことだとは知っている。
リディアは呪われた魔女で、あのときでさえもまだ寿命は四千年以上残っていた。
いつかは彼に先立たれてしまうのが自分の運命。そんなことは分かっていたのだ。
それでも愛する人と生涯をともにしたいと、叶わない夢を見た。竜の血の入った化け物のくせに、人間の女のような夢を見た。
ぼろぼろと溢れる涙を、大きな手で拭われる。
「……ごめん」
「なにが、ごめんなんですか」
「あんたがそんなに俺を愛してたなんて、知らなかった」
「……は?」
何を言っているんだ、この男は。
あんなにたくさん愛を囁き合ったというのに、何を戯けたことを抜かしている。
「あんたは一千年以上生きていた。俺と過ごした十年の日々なんて、大した価値はないのだと思っていた」
「な……っ!」
なんてことを言うのだ、この男は。
人の大事な思い出の十年間を、なんだと思っているのだ。
やっぱりこの男、生まれ変わっても筋肉しかない馬鹿だったのかもしれない。
「だからあんたを置いて逝くときも、そう思っていた。……いや、そう思おうとしていたんだな。あんたが飄々とこれからも生きていてくれる姿を想像する方が、俺には楽だった」
シルヴァンが深い息を吐いて、痛々しげな微笑みを見せた。その表情を見て、リュシエンヌは何にも言えなくなる。
「俺が死んだら、お前は寂しくないか、とか。幸せになって欲しいとは思うが、他の男と愛し合ったら嫌だな、とか。心配したり嫉妬したりするよりも、あんたは俺が死んでも変わらず幸せなんだと思い込む方が楽だった」
「……貴方のいない世界なんて、幸せも何もありません。一生分の幸せを……私は、貴方から貰ってしまったのです」
「本当に、一生分幸せだったか? 何もやり残したことはなかったと?」
森の色の瞳に、何かを期待するような色を見る。リディアが完璧な幸せではなかったことを、望むような色が。
やり残したことは、たしかにあった。あのときはあっさりとあしらったけれど、実は心の奥底では熱く強く願っていたことがあった。
「……貴方の妻に」
「うん」
「結婚して……貴方の妻に、なりたかったです。人間のように……貴方に永遠の愛を誓いたかった」
「リディア。……俺の最後の言葉を、覚えているだろう?」
シリルの最後の言葉を、もちろん忘れるはずがない。
まさか、とリュシエンヌは水色の瞳をあらん限りに大きく見開いた。震える声で、あのときの言葉を繰り返そうとする。
「……ええ、はっきりと。もし……生まれ変わりなんてのが、あったなら、そのときは……――」
唇にそっと指が触れ、言葉が途中で止められた。シルヴァンの唇が、指の上に重ねられる。
唇は直接触れ合っていない、けれどもそれはきっとキスだった。
「リディアを俺の、嫁にする。……今度こそ、俺に永遠の愛を誓ってくれ。リディア、結婚しよう」
爆発しそうな嬉しさが胸にやってくる。けれど続いてやってきたのは、恐怖と切なさだった。
森の色の真っ直ぐな瞳から、視線を逸らす。
「……貴方は、私の護衛騎士なのに」
期待するのが怖いから、そう呟いて逃げた。もしこれで本気にしてしまって、また叶わなかったら馬鹿みたいだ。
王女と護衛騎士なんて、普通は結ばれるものではない。
「武功を立てて、褒美にお前を貰おう」
「嫌です。国で戦争が起きたって、貴方は私の騎士なんですから。戦争には行かせません。貴方の剣は、私を守るための剣でしょう」
武功を立てるために、彼が身の危険に晒されるなんて耐えられない。もう一瞬だって、彼をそばから離したくない。
しかしそれでも、リュシエンヌの心はどこか踊っていた。拒絶しても彼が諦めずに追いかけてくれることが、嬉しくて。
「では、素晴らしい法案でも考えてみようか。国に益をもたらせば何でもいい」
「シリル、貴方は頭を使うのには向いていません。そうだわ、いっそ刺客を雇いましょう。自作自演で貴方がかっこよく助けてくれればいいでしょう?」
「リディア。それは駄目だ。お前が危険に晒されるのも却下だし、下手をすれば他の部署の騎士の首が飛ぶ」
「なら、私がお父様に掛け合いましょう。恋愛結婚をする貴族も増えつつある昨今、王女だって愛する人と結婚しても良いでしょう?」
「……もう陛下は、婚約者候補を選定し始めているようだが」
「ならもう駆け落ちしかないわね。一緒に城から逃げましょう。前世は山小屋暮らしだったし、どうにかなるわ」
「愛娘が一介の騎士と駆け落ちなんて、国王陛下と王妃殿下が悲しまれる」
「子どもが生まれたら城に顔を見せましょう。さすがに子どもまでいれば、もうお父様も他の男と結婚させることは諦めるでしょう」
「俺の首が飛ぶかもしれないな。王女を籠絡した極悪人として」
「貴方が死ぬなら私も死ぬわ……って、そんな怖い顔しないでよ。この台詞でお父様を脅せば大丈夫よ」
「……リディア」
愛の籠もった優しい声で、名を呼ばれる。
こんなふうに前の名を呼んでもらえるのも、呼んであげられるのも、きっともう今夜だけだ。
「なぁに、シリル」
ふたりの自然はもう、魔女と勇者ではない。ふたりには、王女と護衛騎士として生きた今世の日々と、そのように生きる義務がある。
魔女と勇者の恋は、今夜で本当におしまい。望もうと望まなかろうと、前の人生には戻れない。千年以上生きた竜人の魔女と、ただの人間の男の子だったあの頃には戻れない。
「俺はシリルとして死んだ瞬間までも、シルヴァンとして生まれ前世を思い出してから今までも、ずっとお前だけを愛している。かつてリディアだったリュシーに、分不相応な恋をしている」
「……うん」
「リディアは家族を失った俺を、不器用ながら温かく受け入れてくれた。リディアのおかげで俺は、五歳で野垂れ死ぬことなく、お前と十年も生きることができたんだ」
「……うん」
「だから、俺が死んだのはリディアのせいじゃない。好きな女を庇って死んだ俺も、好きな男の後を追って死んだリディアも、どっちも悪くない。俺たちが愛し合った過去は罪じゃないよ」
「うん。……私の告白も、聞いてくれますか?」
「ああ」
「シリルと一緒に生きた日々は、本当に幸せでした。貴方のおかげで人を愛することを知って、魔女だった私でも人間のように生きることができました。……貴方のことを心から愛しています。シリル」
「……ああ」
ふたりは笑った。悲哀をまったく感じさせないような、幸せに満ち溢れた笑みを、互いの瞳に焼き付けるように。
「これで最後にしましょう。目が覚めたら、もうリュシエンヌとシルヴァンに戻りましょう。……シリル、大好きです。愛してます。いっぱい幸せをくれて、ありがとう。……さようなら、シリル。おやすみなさい」
「ああ。俺もリディアのことが大好きだ。誰よりも美しく、愛おしい女だと今でも思っている。何にも代えがたいくらいに愛しているよ。さよなら、愛しのリディア。……おやすみ」
ふたりで強く抱きしめあって、やがては静かな眠りにつく。とくとくと心臓が鳴る音を聞きながら、生きている幸せを噛み締めながら――……
美しい白銀の髪の少女が、精悍な逞しい騎士に守られて城のなかを歩く。はしたなくスカートの裾を翻すことはなく、ぴんと姿勢を正して指の先にまで細心の注意を払って。
これから向かう庭園で、末っ子王女は婚約者候補の貴族令息に会う。護衛騎士は離れたところで静かに、その姿を見守ることになる。
「リュシー様。くれぐれも、おてんばはなさらぬように」
「ええ。分かっているわ、シルヴァン」
王女はふわりと微笑んで、至極小さな声で呟いた。
「今日も王女らしく、美しく強かに振られてくるわ」
「……御健闘をお祈り申し上げます」
護衛騎士も微かに微笑んで、王女に向けて強く頷いた。強い意思を持った水色の瞳が、緑色の瞳を見つめ返す。
末っ子王女はある日突然すっかりといい子ちゃんになり、国王は愛娘の成長を喜んだ。しかし王女がいい子に振る舞うようになった理由を、護衛騎士以外はきちんと分かっていない。
「はじめまして、こんにちは」
柔らかな微笑みをたたえ、王女は婚約者候補に挨拶をする。数時間後、王女の婚約者候補だった令息は泣きながら邸宅と帰っていった。
「また振られてしまったわ」
「また次がありますよ、リュシー様」
王女と騎士は顔を見合わせて、にやりと笑った。
末っ子王女は日々努力している。勉学に励み、淑女としての立ち居振る舞いを身に着け、常に情報収集を欠かさない。
特に力を入れて集める情報は、婚約者候補のプライベートな事柄だった。
今日は自らの優秀さに自惚れている令息に、彼がまだ知らないであろう事柄をあれこれと尋ねて、何も答えられないくらいにたじたじにさせた。
プライドを傷つけられた彼はきっと、自分では王女の伴侶にはなれないと思ったであろう。
リュシエンヌは、最近父にまた我儘を言った。
『お父様とお母様みたいに仲良しの夫婦になりたいから、お父様が良いと思う人のなかで、私と仲良くなれそうな人を婚約者にして欲しいの』と。
『我慢をさせてたらそのうち離婚になっちゃうかもしれないから、向こうが嫌だと思ったら遠慮なくそう言って良いということにして欲しい』と。
もうやってきた婚約者候補の数は二桁を越えたが、今のところリュシエンヌから振った人はひとりもいない。
それぞれに合わせて分析した、プライドをへし折る振る舞いをして、向こうがリュシエンヌとの婚約を望まなくなるように努力している。
まだ幼いリュシエンヌが、自らが望む相手との結婚を父に掛け合うことは得策ではないだろう。もしシルヴァンと結婚したいなんて抜かしたら、彼が専属護衛の任を解かれてそばにいられなくなるかもしれない。
だからリュシエンヌは、今は完璧な王女を目指すことにした。幼いから、女だからと軽んじられないように努力して、いつか父にシルヴァンとの結婚を認めてもらえるように励んでいる。
結婚が許されずに駆け落ちすることになったときのために、こっそり乳母や侍女に家事のやり方も教わり始めた。
魔女だった頃は薬と栄養剤くらいしかまともに作ることしかできず、シリルと暮らし始めてからは彼に料理を作ってもらってばかりだったが、もし今回の人生で彼と夫婦として暮らせる日がやってきたら、今度は彼に手料理を食べさせてみたい。
前世を思い出す前のただの王女として生きていた頃は、甘やかされて面倒なことはやらずにぐだぐたとしていただけだった。けれど今は違う。
毎日努力を重ねるのは大変でたまに辛いが、彼との結婚を夢見て目指すこの日々は楽しかった。自分が人間として生きていることを、強く感じる。
「私、愛し合える相手と結ばれるように頑張るわ」
「はい、応援しています。リュシー様のお幸せを祈って、いつもおそばでお守りします」
護衛騎士と手を重ね、エスコートされて王女は城のなかを歩いていく。今日の婚約者候補ともうまくいかなそうだと、これから父に報告しに行く。
今は、王女と護衛騎士。その関係で隣にいられることが幸福だ。
けれどいつか、前世で叶わなかった夢を叶えたい。そのためにリュシエンヌは完璧な王女を目指し、シルヴァンは真摯に王女を守る騎士であり続ける。
「……私が大人になるまでは、貴方は私の護衛騎士でいてね」
「はい、リュシー様」
リュシエンヌは八歳、シルヴァンは二十歳。リュシエンヌが大人になるまではあと八年。
それまでは、彼には護衛騎士でいてもらいたい。けれど、それまで、が良い。
「シルヴァン、私が大人になったら――……」
リュシエンヌの小さな呟きは、重たい扉が開く音に掻き消えた。それに返ってきた彼の言葉も、リュシエンヌにしか聞こえない、小さな小さな声だった。
「どうぞお好きなようになさってください」
その答えに、水色の瞳に喜びの涙の膜をつくって、リュシエンヌはぱちりと瞬きをする。森の色の瞳を見つめて、リュシエンヌは笑った。
今は王女と護衛騎士。けれどリュシエンヌが大人になったら、そのときは――……