第285話 片田舎のおっさん、お願いを受ける
「久しぶりだね。……身体の方は大丈夫?」
「はい、ようやく動いても良いところまでは」
「それはよかった」
アリューシア、フラーウ、ヴェスパーとともにフルームヴェルク領まで遠征し、その帰路で襲撃に遭ったのは時期で言えば昨年の出来事だが、強烈な印象を残した事件であった。
フラーウは肩の負傷のみで比較的早く訓練に復帰したものの、ヴェスパーの容態は正直、命の瀬戸際にあった。あの容態から生き延びただけにとどまらず、こうして職務に復帰するまで回復したことは大変に喜ばしい。
「しかし……致し方ないとはいえ、少し痩せたかい?」
「ええ、まあ。伏している時期が長かったもので、こればかりは……」
「……そうか、そうだね」
最初に見た時にも思ったがやはり、少し痩せたな。頬がこけているだとかそういう不健康な印象ではないけれど、単純に全身の肉が落ちた感じだ。
まあ本人も言った通り、こればっかりは仕方がない。人間動いていないとどうしても身体は貧相になっていく。俺だってちょっとぐーだらしていたらすぐに脂肪がついて筋肉が落ちちゃうからね。
ヴェスパーは俺ほど年を取っているわけではないからそこまでではないにせよ、騎士としてしっかり活動していた時期に比べると、どうしても現状は厳しいものがあるのだろう。
「アリューシアへの挨拶は?」
「は、過日に済ませております。復職の手続きも終えましたので、鍛錬をと」
「良い心がけだ。君の復帰を、俺も歓迎するよ」
「ありがとうございます」
しかし、ヴェスパーの心は折れなかった。衰えた身体はまた鍛え直せばいい。そう考えられるだけでも素晴らしい資質を持っている。
なにより身体は戻せても、一度折れた心は鍛え直せない。外的要因で無理やり叩き直すことも出来なくはないが、成功率は極めて低いだろう。
言葉にはしないけれど、やはり若さというものも多少は起因しているのだと思う。
仮に今の俺が重篤な病や怪我に伏してしまったとして、回復に長い期間を要すると判断された場合。衰え切った身体をまた一から叩き直すかと言われたら、ぶっちゃけちょっと怪しいからな。
その意味で俺は今のところ五体満足でなんとかやれているので、そういう風向きというか、運にも感謝せねばならない。ルーシーとの伝手がなかったら、その希望がほぼ確実に絶たれていたことも含めて。
「ベリル殿も仰ったとおりだが、君の復帰は喜ばしいものだ。……おかえり、ヴェスパー」
「……はっ! 不肖ヴェスパー・オックス。本日より任に復帰いたします」
俺とヴェスパーとのやり取りを見守っていたヘンブリッツ君が、優しく声を掛ける。
前提として、彼は副団長だ。ヴェスパーがいつ頃復帰するかどうかの連絡は入っていて然るべきだし、それを知らないわけがない。
ただしそれでも、書類や下からの報告という形だけでなく、一個人として彼の復帰を歓迎していることを、こうして直に伝えることが出来る。
言葉にすれば大変簡単なことに映りそうだが、その実こういうものは意外と難しい。俺は特別指南役というある意味で外部の人間だからこそ素直に対応出来たけれど、ヘンブリッツ君はそうではないからな。照れとか恥ずかしさとかそういう感情が、幾分かは混じってしまうものだ。
ただ、そんなもんを一切合切無視して素直に歓迎出来る姿は素晴らしい。やはりレベリオ騎士団は良い組織だ。その指南役としての肩書を頂いている以上は、俺も下手なことは出来ない。気持ちを改めさせられた感覚であった。
「今日は見学かな?」
「いえ、折角なので身体を動かしにまいりました」
「そうか……重々分かっているとは思うけれど、無理はしないように」
「はっ」
動けるようになったとはいえ、彼は病み上がりだ。それも重傷からの。
なので今日は顔見せの挨拶が主かなと思っていたんだが、どうやらヴェスパー本人は動く気満々らしい。
そういえばフラーウもそうだったな。復帰早々に地獄の基礎練に付き合わせてしまった記憶が蘇る。いやまあアレは彼女も望んだものだから、俺から止めるのも違うんだけどさ。
やはりレベリオの騎士というものは、ただ武力を持ち合わせていればなれるものではない。その強さの一端を改めて今、感じ取ったよ。
「ベリル殿」
「ん?」
さて、ヴェスパーの復帰は喜ばしい。しかして俺は彼の専属指南役ではなく、騎士団全体の指南役を預かっている。故に彼につきっきりというわけにはいかず、さりとて復帰初日のヴェスパーを「それじゃ、頑張って」と放り出すのも少しばかり締まりが悪い。
どうしたものかと数瞬悩んでいたところで、ヘンブリッツ君から声がかかった。
「どうでしょう。本日はヴェスパーを中心に見ていただく、というのは。彼も病み上がり、そう無茶はしないと思いますが、動けなかった鬱憤も溜まっている。無理に調子を上げ過ぎて……という事態も懸念されます故」
「――なるほどね。それは確かにその通りだ」
すらすらと、副団長殿の口が回る回る。いやあ、本当に素晴らしく出来た人間だ、ヘンブリッツ・ドラウトという人物は。
彼とてフルームヴェルク領からの帰路で何があったかは当然知っている。俺としてもヴェスパーのことは、普通の騎士以上には気にかける存在となった。
勿論、伝えられた通りの懸念もある。いつもの自分ならこれくらい動けるはず……と、更なる怪我を誘発する可能性がある。あるいは、怪我明けだからこれくらいの密度と強度で、という見積もりが破綻する可能性も。
これはヴェスパーを信用しているしていないにかかわらず、人間なら誰しもが起こし得るミスだ。なんなら俺だってやりかねない。
他方、先程俺が考えた通り、俺自身がヴェスパーだけを見るというのも少々筋が通りにくい話。それを、副団長の鶴の一声という形で見事に決め切った。
こういうのを渡りに船、とでもいうのかな。どちらにせよヘンブリッツ君のお言葉を頂戴したので、少なくとも今日一日はヴェスパーの復帰を見る形で問題がなくなった。
「いえ、しかしそれは流石にベリル殿にも――」
「俺は構わないよ。ヘンブリッツ君の心配もその通りだしね」
「……は、ありがとうございます」
この流れにヴェスパーが待ったをかけようとしたが、残念ながら俺もそのつもりだったので、その反論は申し訳ないが受け流す。
彼もこれ以上ゴネる意味はないと見たか、素直に引き下がった。いやゴネられてもそれはそれで困るんだけどね。
「ではベリル殿、私はこれにて」
「ああ、うん。分かった」
話がまとまったと見るや、ヘンブリッツ君が傍を離れる。彼は彼でヴェスパーのことを気にかけているのは事実だが、これ以上は邪魔になりかねないと判断したのだろう。
繰り返しになっちゃうけれど、本当に機転も利くしいい頭を持っている。俺には備わっていない類の鋭さだ。こういうところから一つずつ学んでいくのが一番いいんだろうね。
「さて、ヘンブリッツ君のお声も頂いたことだし、そうだね……素振りの感触から確かめてみようか」
「はっ! よろしくお願いいたします」
それはそれとして。ヴェスパーの一日を預かるとなった以上、その責務は果たさねばならぬ。
とはいえ、病み上がりにいきなり打ち合いは流石に酷というもの。ここはやはり剣士らしくまずは素振りから始め、少しずつ感覚を取り戻してもらうのが無難だろう。
俺も怪我での長期離脱こそ味わったことがないが、遠征の道中で動く機会がしばらくなかった……という経験はある。そういう時はやはり、素振りから身体を慣らしていくのが一番いい。
たかが素振り、なんて侮りは、普通以上の剣士ならしない。アレはすべての要素が詰まった基本の動きであると同時、全ての要素が詰まった究極の動きでもある。
腕力だけでは綺麗に振れない。いや一番疲れるのは腕だけれども。全身の広い筋肉を扱う、剣士の礎となる動きだ。満足に剣を振れなければ満足に戦えないわけだしね。
「――ふっ!」
「うん。ゆっくりでいい。何回か振ってみよう」
「……はい」
木剣を構えたヴェスパーが、気合一閃振り下ろす。きっと素人から見れば、十二分に整った剣筋に映るのだろう。
ただ俺から見ると、正直ブレまくっている。筋肉が衰えているのもそうだが、身体が振り方を忘れてしまっている感じだな、これは。それはヴェスパーも同様に感じたようで、俺の言葉への反応はあまり芳しいものではなかった。
いやあ、気持ちは分かるよ。自分ではこれくらい出来るだろうと思っていたものが、実際にやってみて全然出来なかった時の苦悩というか絶望というかね。本物の天才以外はきっと、何度でも味わう感覚だ。
でもそこで腐ってしまえば、剣の腕は二度と向上しない。剣に限らずなんでもそうだろう。
見る限り、ヴェスパーの瞳は熱を失っていない。そうであれば、とことん付き合うのみだ。
「ふっ! はっ!」
「……うん、いいね」
彼はまだ、全力で剣を振っているわけではない。自分なりに身体のことを考えながら振っている。今のところ俺から見ても、無理やり動いているわけではなさそうだった。
「……ふぅっ!」
それでも、怪我で伏せていた間に落ちてしまった体力はどうしようもない。数十回前後の素振りではあるものの、ヴェスパーの息は早くも上がり始めていた。
フィッセルの素振り千回なんかは流石にやり過ぎだとしても、ひとかどの剣士がたかだか素振り数十回で体力が切れかける、なんてことは普通あってはならない。
勿論、ここからすぐにバテることはないだろうが、自分なりに加減して剣をちょっと振ったらこの有様……という事実は変わらない。表情に出してこそいないが、その落胆は容易に想像出来る。
「焦るとよくないってのは多分、自分自身が一番分かっていると思うけど……それでも言わせてもらうよ。焦らないように。君は俺なんかよりずっと若いんだ。すぐに取り戻せる」
「……はっ」
焦っていいことはない。そんなもん普通は誰しもが分かっている。けれど、人はいざそういう局面に立つと焦っちゃうんだよな。だからこういう、ストップをかける役が時には必要だ。その意味でも、ヘンブリッツ君の采配は間違っていなかったのだと感じるね。
それに俺は何ひとつ嘘を吐いていない。ヴェスパーがまだ若いのは事実だし、落ちた体力と筋力を戻す余裕は十分にある。若さは武器だ、他の何物にも代えがたいくらいの。
「それで、どうかな。自身の感覚としては」
「……息が上がるのが一番堪えますね。並行して走り込みも徐々に再開しないと、という感覚でしょうか」
「そうだね、当面はそれがいいと思う。ただし、誰か付き合ってくれる人と一緒に走ること。なんなら俺でもいい」
「いえ、流石にそれは――」
「俺がいいって言ってるんだから大丈夫だよ。ヘンブリッツ君だって反対はしないさ」
「……ありがとうございます」
少し素振りを止めて、会話を挟む。病み上がりの運動にこまめな小休止は必須だ。
やっぱり息が上がるのはショックだよね。俺も同じ状況になったら、多分そこに一番落胆すると思うよ。
土台となる体力ってやつは地道に付けていくしかないんだが、剥がれ落ちていくのは一瞬だ。これがマジでキツい。
で、気合を入れてすぐに取り戻そうとすると思わぬ事故の確率が上がる。だから俺も、誰か連れを付けろと言った。彼は遠慮しているけれど、多分その申し出を断る騎士は居ないんじゃないかな。
「皆、君の復帰を歓迎している。それは嘘じゃないと、俺は思うよ」
俺も勿論付き合うし、クルニやエヴァンス君といった若手でも断る理由がない。フラーウも喜んで走るだろう。何なら時間さえあれば、ヘンブリッツ君やアリューシアでも付き合ってくれるに違いない。
ここは、そういう組織だ。
「……はい」
木剣を硬く握りしめ、ヴェスパーは頷く。
歯痒い思いもあるだろう。恥ずかしさだってあるかもしれない。引退の道だって一度は脳裏を過っただろう。
それでも彼はレベリオ騎士団に戻ってきた。その思いを無下にするような人は、ここには居ないよ。
「……では、ベリル殿。一つお願いが」
「何かな?」
数瞬の間、木剣を握りそれを見つめていたヴェスパーが言葉を零す。
どうやら俺に対してお願いがあるらしい。まあそう無茶なことは言われないだろうから、俺としては当然聞く構えである。これからしばらく走り込みに付き合ってくださいと言われても、勿論了承するつもりだ。
「一手、願えますか。今の自分を、刻んでおきたく」
しかし彼の口から紡がれたお願いは、なんとも剣士らしく、そして男らしいものであった。




