第269話 片田舎のおっさん、目を覚ます
「――はっ!?」
突如、意識が覚醒する。覚醒したということは、今まで気を失っていたということ。
最後の記憶を辿ると、アフラタ山脈の麓辺りで途切れている。覚えのある最後の景色は、西方都市ヴェスパタの外壁を遠くに目にしたところまで。
となると、そこで緊張の糸を切らしたか、あるいは体力気力の限界を迎えたか。後者は仕方がない部分もあるかもしれないが、前者となるとあまりよろしくない。安全が確保出来ない状況で気を抜くなど、本来ならあってはならないからだ。
「うおぉ……頭がふらつく……」
睡眠ではなく気絶で意識を手放した後というのは、基本的に回復しない。いや厳密に言えば回復はしているんだろうけれど、健常な状態に戻っているとは言い難い。
身体の限界を迎えて強制的に落ちただけなのだ。そこから目覚めたとしても、それは最低限意識を保つのに必要な時間が取れたというだけで、体調がヤバいことに変わりはないのである。
「んん……? どこだ、ここ……」
上体を起こして軽く頭を振り、いくらかマシになった視界で景色を捉える。この場所は最後に見た野外ではなく、どうやら建物の中のようであった。
俺がベッドに寝ていて他に人が居ないことから、ここはどこかの部屋かつ個室。俺がとった宿ではなさそうだから、宿以外の知らんところに運び込まれたと見るのが妥当か。診療所、という感じでもなさそうだ。
スレナは勿論のこと、ピスケスとパウファードは大丈夫だったのかな。そもそもあれからどれくらい時間が経っているのかすら分からない。
ここが果たしてヴェスパタかどうかすらも分からん。俺は都市に入りはしたが、観光が目的ではなかったもので、ほとんど街並みを気にしてはいなかったから。
「……左腕は……まあ、そうだよな……」
次いで思い出されたのは、イド・インヴィシウスに襲われて負傷した事実。左腕に視線をやると、綺麗に包帯が巻かれていて、一応治療はされているらしい。痛みも多少はマシになっている。
ただ力を込めようとしても指が動かないのは相変わらずで、ここに関してはちょっと希望が見出しづらい状況のように感じられた。
ピスケスに言われた通り、引っ付いているだけでも御の字なのかもしれない。だが一人の剣士として考えた場合、剣を握ることが出来ず、重りとしてしか機能しない左腕はどうしたものかと、少々の逡巡を覚えてしまう。
勿論、動かないからじゃあ切り落とそうとか、そんなことは考えないけどね。それは流石に俺も怖いしやりたくない。
けれど、今まで積み上げてきたものが全部とは言わずとも、多少活かせなくなることは事実。これはまた積み上げ直しかあ、と。少し悲しい気持ちになってしまうことくらいは、どうか許してほしいところであった。
「――先生!? 気付かれましたか!」
「……スレナ」
さて、今後の身の振り方をどうしたもんかと、どこか他人事のように考え始めた矢先。部屋の扉が開き、その先から水桶を持ったスレナがこちらの部屋に入ってきた。
多分あれは俺の身体を拭いたり、あるいは傷口を洗浄するためのものかな。なんだか彼女に介抱されるというのは不思議な感覚である。俺は基本的に、スレナのことを娘か年の離れた妹として考えていたし、逆の立場になったことはあっても、何かを世話される経験はなかったように思う。
いやまあ、飯処を紹介してもらったり、ロングソードを拵えてもらったりと、そういう世話は焼かれまくっているけれどね。それとこれとはまた別の話だ。
「君は……大丈夫な様子だね」
「先生のおかげです。ピスケスも無事ですし、パウファードも一命を取り留めましたよ」
「そうか、それはよかった……」
スレナの無事に加え、ピスケスとパウファードの無事も確認出来たことで、目が覚めてから今まで感じていなかった安心感が、ここにきてどっと噴き出した。
本当によかった。スレナが助かったのは勿論のこと、ピスケスとパウファードも無事に生きて帰すことが出来て、肩の荷をまるっと降ろせた感覚にもなる。
残る問題は二つ。特別討伐指定個体、イド・インヴィシウスをどうするかと、俺の動かなくなった左腕をどうするかという二点。
どちらも俺からすれば喫緊の課題に違いないが、後者は俺個人の問題、前者はこの周辺一帯の安全確保にもかかわる重要度の高い問題だ。
「それで……ここは何処かな。それと、俺はどれくらい寝てた?」
とはいえ、その辺は追々情報が出揃ってから判断する話。俺の腕にしたって、専門的な治療を受けたわけじゃないはずである。いや正確には分かんないけどさ。でももう駄目だと悲観するのは、その事実を直視した後でも遅くはないだろう。
「ヴェスパタのギルド出張所の一室を借りています。先生は半日強、眠られていました」
「半日……」
ギルド出張所。そういえばここまで案内してくれたポルタたちも、そういう場所はあると言っていたな。なにも野ざらしの中でギルドの出張所を構えているわけではないだろうし、物件を借り上げるくらいはしていて然るべきか。
加えて、俺はどうやら半日ほど気を失っていたという事実も同時に判明した。アフラタ山脈から下山している途中で日は傾いていたから、あの時からまるっと一夜が過ぎた、というところかな。
その情報を聞いて、初めて部屋の外に意識が向く。小振りな窓からは、薄っすらと日の光が差し込んできている様相であった。
どうやら夜明けから間もなく、といった頃合いらしい。部屋を優しく照らすランプの光とはまた別の、温かみのある陽射しが部屋の床を白く彩る。
「俺の腕に関しては、誰かが治療を?」
「ピスケスが施した応急処置以上のことは、まだ……。医術や回復魔法に長けた者は、すぐには捕まらず……」
「……まあ、それもそうか」
朝日に視線を預け、あえてスレナと顔を合わせないまま。俺の腕のことを尋ねてみると、大変に申し訳ないという気持ちを前面に押し出した声色で、彼女は告げた。
恐らくだが、俺がヴェスパタに帰投出来たのは日没前ギリギリくらいだろうか。それから夜も更けていって今が夜明けとなると、医者や魔術師を即日手配出来なかったという状況にも頷ける。
他方、俺としては納得は出来ているなあ、という想いも胸中からまろび出ていた。即ち、スレナを救った代償として差し出した分としては、まあ妥当だったんだろうという感覚である。
俺もスレナも他の皆も、命がある。亡くなってしまった探索役の冒険者にはお悔やみを申し上げたいところだが、流石に今以上の結果を望むのは高望みが過ぎるということだろう。
ただ一応、まだ医療の専門家から診断を受けたわけではないらしいので、一縷の望みだけは持っておくことにする。なんとかなってほしいのが本音とはいえ、なんとかならない可能性の方が遥かに高いことに変わりはないけれど。
「でも、とりあえずギルドへの連絡は出来たようで何よりだよ」
「はい……先生には本当に感謝しています」
今回のことの発端は、スレナが帰ってこず連絡もないというところから始まっているので、それが解決を見たことは素直に喜ばしい。これからどうするかは今後改めて考えるにしても、一旦はブラックランク冒険者が行方不明という、ド級の案件からは脱したとみていいのだろう。
また、別に俺は冒険者ギルドの規則に明るいわけじゃないけれど、状況的に罰則があるようなことはないはず。
スレナほどの冒険者が苦戦する相手となれば、それはもう完全に想定の埒外という話であり、そんなやつを相手に予定通り帰還出来なかったから罰則だねは、流石にちょっと無理筋な気がする。もしそうなるなら、俺からも一言物申したいくらいには、相手の戦力は想定を遥かに超えていた。
「しかし、世の中にはとんでもないモンスターも居たもんだね……」
「……はい。ですが、やつは必ず私の手で仕留めます」
アレを退治しようともなれば、こっちも相当な戦力が必要である。下手をすれば、刺激せずに放置しておく方が得策になるかもしれない。
それくらいの諦観も交えて零した言葉に、スレナは存外と強い反応を示した。
「……随分と気負っているようだけど……?」
その様子は、俺からすると若干の違和感として映る。
最上位冒険者として、あんな存在の跋扈を許すわけにはいかないという、正義感もあるにはあるだろう。しかし、どうにも彼女の言葉からはそれ以上の心情が漏れ出ているようにも感じた。
「やつは……イド・インヴィシウスは……両親の、仇です」
「っ!」
スレナの両親。それは今お世話になっている義両親ではなく、彼女を産み、そして育てた実の両親のことである。
俺自身、彼女からその話を詳しく聞いたわけではない。ビデン村に這う這うの体で辿り着いたスレナが何者かに襲撃されたことは明らかであったが、それ以上の情報を聞きだせる状態ではなかった。
「……見て、いたんだね」
「はい、はっきりと。実際にやつを目にして確信を持ちました。……今でも恐怖心はあります。しかし、その恐怖を乗り越えて、私の手でやつを滅ぼさねばなりません」
「……そうか」
仇討ち。一般的な感覚で言えば、恐らくあまり褒められた動機ではないだろう。
しかし、俺の心情としては割と肯定的に捉えられるものだ。武に生きる以上、生き死には常に身近なもの。そしてスレナは戦う術を持っている。ならば、自身の愛した者を殺した怨敵をなんとしても屠りたいと考えるのは、俺からすれば理屈の通った話。
仮に、俺の近しい人が何者かに害された場合。俺でも容赦なく突っ込んでそいつの首を獲りに行くだろう。相手が人間かそれ以外かで多少手段は変わると思うが、その気持ち自体は否定するものではない。
別にただの復讐者に成り下がれというわけではなくてね。本人が前に進むために必要な禊であれば、それは行うべきだという考えである。無論、余計な被害を出さない前提ではあるが。
「……スレナは、強いね」
「……いえ。結果として先生にも、多大なご迷惑をおかけしてしまいました。私など、まだまだです」
「いや、強いさ。君の強さに、沢山の人が救われている。そして、今度はその強さで自分自身を救おうと藻掻いている。強いよ、君は」
「……ありがとう、ございます……」
俺はイド・インヴィシウスを前にして、勝ち気よりも恐怖が勝った。過去の手痛い敗戦が脳裏にこびりついていたから。
けれどスレナは違う。俺個人がボコボコにされたこととは比べ物にならないくらい、重い過去がある。そしてその上で、彼女は自分自身の手で決着を付けようと足掻いている。これが強さでなくてなんであろうか。
慰めに出した言葉ではない。俺は本心から、彼女の強さを讃えたいと思っているのだ。
「俺は……満足に動けなかったよ。俺も、あいつとは過去に出会ったことがある。そして、負けた」
「! 先生も、ですか……」
「ああ。お恥ずかしながらね、逃げ帰ってきた」
スレナはイド・インヴィシウスに拘る理由を明かした。であるならば、俺もあいつに持っている負の感情は伝えておくべきだろう。別にこれを言ったところで何かが変わるわけでもないけれど。
考えてみれば、スレナを我が家で保護したのは二十年ほど前の話。少なくとも俺とイド・インヴィシウスが邂逅した頃よりも後のことだ。
つまり、こじつけになるかもしれないが。
俺があの当時、イド・インヴィシウスに勝てていれば。スレナのご両親は殺されることもなく、彼女自身も今とは大分景色の違う未来を歩めていた可能性がある。
無論、やつの力と当時の俺の力量とを冷静に測れば、土台無理のある話だ。今現在でもこのザマなのだから、昔の俺が勝てた道理はない。
一連の流れを客観的に捉えた時。スレナの現在について過去の俺に瑕疵があるかと問われれば、恐らくないだろう。
ないが、事実としてそうだという部分と、感情としてそうだという部分は必ずしも一致はしないのである。
スレナの過去と俺自身の過去。それらをまるっと雪げるというのなら、俺も縮こまってばかりではいられない。俺よりも遥かに年下の、しかも女性が自身のトラウマと戦い、打ち勝とうとしている。
曲がりなりにも師として、という想いはある。あるが、それ以上に一人の武に生きる男として、そんな及び腰でいいのかという心の叱責が飛ぶ。
特別討伐指定個体がどうした。やるというからには、何が何でもやらねばならぬ時がある。そんな機会など、人生において何回訪れるか分からないものだが、少なくとも今はそのうちの一回であろう。
世界にとってそうではなくとも、俺とスレナにとっては。
しかし。その思いを体現するには、俺の状況があまりにも、悪い。
「……やつを討つということは、スレナにとって一世一代の大捕り物と同様なわけだ。……俺も、並び立てればよかったんだけど」
「……お気持ちは察しますが、先生にこれ以上の負担を強いるわけには。そして、他の者にも。……やつも、すぐに縄張りを変えることはないでしょう。今度こそ、討ち取ります」
手伝ってあげたいのは山々。そして俺の個人的事情からしても、やつは乗り越えなきゃならない相手でもある。
だが、それはあくまで俺の身体が万全に動けばという前提。普通のモンスター相手ならともかく、こんな状態ではリベンジを期するどころか、彼女の足手まといにしかならない。そのことは、俺自身が一番よく分かっていた。
その事態の向上を、ただ座して待つわけにはいかない。俺の手が届く範囲で打てる手は打っておかなければ、絶対に後悔する。
「医者でも魔術師でもそれ以外の誰でもいい。治る見込みがあるのなら、なんでも頼ろう。幸いお金には――」
「ここかー? おお、おったおった。くぁぁ……昼夜問わずぶっ飛ばすもんじゃないのう、旅っちゅうのは」
「……は?」
ならば、なんでもいいから使えるものは使う。人も物も金も。
そう覚悟を決めて、スレナにその心情を伝えようとしたと同時。
部屋の扉が再び開き。その先からは、どう考えても今このタイミングでこの場に居ていい人物ではない人影が、欠伸を噛み殺しながらゆっくりと姿を現した。




