第267話 片田舎のおっさん、呑まれる
苦い記憶だ。出来れば思い出したくないくらいには、俺の過去に暗い影を落としている経験である。
あれはいくつの頃だったか、正確な年齢は正直あまり覚えていない。ただ、おやじ殿から師範の座を譲られる前のことではあったから、少なくとも二十よりは下だったように思う。
あの頃の俺は多分、調子に乗っていたのだろう。その調子と同様に、それなり以上の自信も持っていた。おやじ殿には相変わらずサッパリ勝てないままだったが、共に剣を習う同期から先輩後輩に至るまで、打ち合いで負けることはほとんどなかったから。
もしかして俺はそこそこ強いんじゃないか、と。今にして思えば烏滸がましいとしか言いようがない感覚を得て、どこまで俺の剣が通じるのか試してみたいと、無謀な探索に臨んだのだ。
当時、おやじ殿のサーベルボア討伐に同行していたこともあって、アフラタ山脈がごく一部とはいえ未知から既知になっていたことも大きい。サーベルボアなんて麓から精々、中腹の浅いところまでにしか棲んでいないのに。
で、当時から俺は目が良かった。剣筋自体はまだまだでも、目の良さだけは小さい頃からおやじ殿に認められていた。
おやじ殿の剣は何故かよく分からんが上手く見えないというだけで、それ以外の動きは全部見えていた。だから己の実力を過信してしまったのもあるだろう。見えてさえいれば、勝てずとも最悪逃げることは出来ると考えて。
今も完全に成熟したとは言い難いものの、当時よりは明らかに成長した自覚がある。
だからこそ分かるが、あの頃の俺は目に頼っていたし、目しか頼るものがまだなかった。騎士団員のエヴァンス君に近いだろうか。なまじっか目が良いだけに、その反射だけを頼ってしまう。
強い剣士は大体目が良いが、目が良いから強い剣士になれるわけでもない。良くも悪くもその現実を強烈に突き付けられたのが、イド・インヴィシウスとの邂逅であった。
流石にこいつ含めた周りの気配がどうだったかまではサッパリ覚えていないけれど、いいように嬲られて死にかけながら舞い戻った記憶だけはある。
今思うと、あの時も運が良かったんだろうな。普通に戦えば間違いなく死んでいたはずだったのだが、結果的に致命傷だけは避けて逃げ帰ることが出来た。
恐らく、あいつのテリトリーに深く侵入していなかったのかな、なんて思う。一撃を見舞われてなにくそと思える気概が、当時の俺にはなかった。だって碌に見えなかったんだから。
逆にそこまで気合が入っていたら、俺は山の中でひっそりと人生に幕を下ろしていた可能性が高い。
それから長い時を経て、こうして再び相まみえるとは思いもよらなかったけどね。
とはいえ、過去と現在では置かれている状況があまりにも違う。俺だけが逃げ帰っても許される結果なんてほとんどない。その結末が許されるのは、俺が到着した時にスレナたちが全滅していた場合に限る。そして今は、そうではない。
「……手強い相手だなあ」
「ええ、全くです」
苦い思い出とともに漏れ出た言葉。スレナは同調してくれたけれど、きっと考えていることはまるで違うのだろう。
先ほどぶつかるまではただの強敵という認識で済んでいたんだが、いわゆる苦手意識がちょっと首を擡げてきたのが悩みどころであった。
この苦手意識というやつは存外にしぶとく、厄介だ。特にこれから生死にかかわる斬り結びをする相手にそんな感情を持っていたら、勝敗はかなり怪しくなる。
状況は違えど、俺が長らくおやじ殿に勝てなかった要因も、言ってしまえばこれだ。こいつには敵わないなあという潜在意識は、己の実力を正しく発揮出来なくなる大きな原因の一つ。
あの頃の俺よりは確かに成長している。自信もいくらか付いた。負けられない理由だって肩に乗っかっている。
しかしそれでもなお、一抹の不安というものは拭い切れない。こればっかりはもう、どうしようもないことであった。
「……スレナたちが襲われた時も、こういう奇襲の攻撃だったのかな」
「はい。……出鼻の一撃で、探索役が持っていかれました。その後パウとピスケスを守りながら後退しようとしましたが、守り切れず……」
「つまり、連続で襲われはしなかったと」
「そうなります」
とはいえ、不安に苛まれて足を止めるわけにはいかない。少しでも生きて帰る可能性を高めなければならん。
その上で重要なところはやはり、イド・インヴィシウスが連続で攻撃を仕掛けてこない部分にあると、俺は踏んでいた。
正直な話、姿や気配を隠すことが出来なかったとしても、先程凌いだ一撃は凄まじいものだった。まあ攻撃の直前までは見えてなかったから実際のスピードは分からないが、威力だけで見ても相当である。
あの膂力と巨躯であれば、大体の相手は警戒するに値しないと思うんだけどな。
先程の状況だけで言えば、俺がなんとか初撃を防いだものの弾き飛ばされ、ピスケスはパウファードを背負って伏せた状態で隙だらけ。スレナが動ける状態にはあったが、続けざまに二発目を見舞うだけの猶予は十分にあったように思える。
相手を仕留める、あるいは頭数を減らすためにも、俺がイド・インヴィシウスの立場だったら確実に一人は持っていっておきたい。そのための力くらいは、あいつは十分に持っているはずなのだ。
イド・インヴィシウスがビビりである、という説にも一定の信ぴょう性はある。しかしどうにもそれだけじゃなさそうな予感というか、なんというか。そういうものが脳裏を過った。
けれど、推測だけの戦略に頼り切ってしまうのは良くない。分かっている情報のみで組み立てなければいけないのはそうなんだが、決め付けは良くないからな。
「とにかく、相手の出方の一つは分かった。引き続き注意しながら帰還を目指そう」
「はい!」
「頼んだぜ、あんたが文字通り頼みの綱だからな」
隊列は変わらず、俺が前でスレナが後ろ。その間にピスケスを挟む。
ヘンブリッツ君やクルニたちとアフラタ山脈に入った時もそうだが、いくら急いでいるとはいえ、平地で走るほどの速度は出せない。俺はまだともかく、ピスケスが足を滑らせたら背負っているパウファード諸共、終わりの可能性が常にある。
流石にここまで来てそんな間抜けな結末はご勘弁頂きたい。なので出来る限り急ぎながらも、後ろを置いてけぼりにしない速度が求められる道中は、割とやきもきもする。
出来ればこのままやつに出くわさず、無事に山を下りたい。しかしそう上手くはいかないだろうという予感と、そう上手くことが運ぶわけがないという不安が同時に脳裏を掠める。
前者は正しいが、後者は怪しい。これは俺がイド・インヴィシウスに対してトラウマとまでは言わずとも、苦手意識を持っている証左であった。
もし仮に、やつが初見の相手であれば。死なない前提ではあるけれど、後一発くらいはイド・インヴィシウスの方から仕掛けてほしい……そんな気持ちもどこかで湧いてきていたことだろう。
やつが消える、攻撃する、消える、また攻撃する……そのループが、どれくらいの頻度で起こるのかを知っておきたいのだ。流石に過去の失態そのものは覚えていても、当時の時間の流れを覚えているわけではないからね。
また、先程は感知が本当にギリギリだったけれど、今度はもっとその予兆というか、残滓というか。そういうものを掴めないかと考えるかもしれない。
勿論、その気持ちがまったくないとは言わないが、不安と恐怖がそれ以上に存在している。これはゼノ・グレイブルやロノ・アンブロシア、そしてヒューゲンバイトで遭遇したグリフォン戦などとはまた違う感覚だ。
己の昂りはある。それは認めよう。しかしその昂りをべっとりと上書きするような、粘度の高い不安が常に張り付いている。
駄目だ。呑まれてはいけない。ここで俺が呑まれると、俺は勿論スレナもピスケスもパウファードも死ぬ。それだけは避けねばならない。
頭では分かり切っていることだ。しかし分かっているからといって、身体が満足に動いてくれるかどうかはまた別の問題である。悶々とした感情が、あまり良くない形で顕現していた。
「――つおっ!?」
「ガゥアッ!!」
そんな心境のままで、実力を十全に発揮出来るかと言われたら、それは無理な話だ。
またしても虚空から突如現れたとしか思えないイド・インヴィシウスの振り下ろしに、俺は反応することが出来なかった。
「先生ッ!?」
まるで時間の流れがゆっくりになったような錯覚に陥る中、スレナの悲痛ともいえる声が耳に響く。
耳は聞こえる。頭は動く。少なくとも致命傷ではない。
ただ、左腕は多分、しばらく使い物にならないだろう。もしかしたら一生使い物にならないかもしれない。剣を持っている右腕を動かすのが間に合わず、身体の回避も間に合わなかった。
鋭い痛みが左腕から全身へと走り抜ける。けれど痛みを認識出来ているということは、まだ大丈夫。
イド・インヴィシウスに対する不安や恐怖。それとは別に、剣士として培われたいっそ本能ともいえる経験をもって、自身の状態を冷静に判断出来ていた。
「しっ!」
怪我に怯むよりも早く、これもまた剣士としての経験故か。被弾してしまったものはもう仕方がないと割り切って、俺は残された右腕を振るう。
先ほどは吹っ飛ばされてしまったが、今回は距離が離れていない。痛みに悶えるより前に剣を振ったから、これが当たれば即ち、接敵してからの反撃は間に合うことになる。
「……ちぃっ!」
果たして、俺の目論見は半分が当たり、そして半分が外れた。
当たりの部分は、俺の攻撃は確かにイド・インヴィシウスへ届いたこと。つまりやつは素早くはあれど、一撃を見舞った後に反撃が間に合わない速度で離脱しているわけではない。速いには速いが、まだ俺の常識で測れる範囲の速度である。
外れの部分は、明らかにダメージを負わせた手応えではなかったこと。なんと言うか、ロノ・アンブロシアの核と少し似たような、極めて硬質な手応えだ。不完全な体勢かつ右腕のみの斬撃といえど、ちょっと斬れる気がしない感触が、いっそ煩わしいほどに手に残る。
ただまあ予想通り、俺の剣は傍目には空中で突如止まったように見えた。つまり、見えてはいないが確かにそこに存在している。
何も別次元に逃げているわけではないということは、この反撃でもって証明された。されたわけではあるが、とはいえこの剣での攻撃が通らないとなると、ちょっと別角度からの攻略が必要な気もしてきた。
単純な剣と技術の範疇に収まらない解決法が求められる気がするのだ。そうなったらもう俺の手には負えなくなる。スレナとピスケスをどうにか逃がして、後は色々とお上の判断を仰ぐしかない。
「先生! 大丈夫ですか!」
「あ、ああ……痛てって……!」
イド・インヴィシウスの気配は再び消えた。しかし油断は出来ない。けれど、腕の怪我も無視出来ない。
状況と優先順位を考えると、血を垂れ流したままの強行軍はあまりにもよくない。きっとスレナも同様の判断を下したのだろう。
くそ、こういう時に気配が分からないというのは辛いな。普通は周辺に敵対的な気配がなければ一息つけるんだけど、相手が相手だから何とももどかしい。
「先生、ポーションは……!」
「まだあったと思う……。背嚢の中だ……痛っ……」
洞穴の中でポーションや包帯類はスレナたちに渡したが、確かまだあったはず。この際ポーションはなくとも、最低限包帯はあってほしい。最悪、服を切って傷口に当てることも考えにはあるものの、出来れば採用したくない手段であった。
「ありました! 先生、腕を――」
「待った。心配なのは分かるがリサンデラは警戒に当たってくれ。手当は俺がやる。……今の俺じゃ立哨も出来そうにないんでな」
「あ、ああ……分かった……」
がさごそと背嚢を慌ただしく漁ったスレナが、まだ残っていたポーションと清潔な布を取り出したと同時。パウファードを降ろしたピスケスが割って入った。
戦力分配としては正しいから、俺は何も言わない。彼女は後ろ髪を引かれるような様子だったけれどね。個人的な私情よりも今は優先すべきことがある。
「っつぅ……! こりゃきついね……」
「千切れてねえのは幸運だったな。ただ……」
ピスケスがまずポーションで傷口を丸っと洗い流す。その後に包帯を巻いてくれているのだが、その表情と声色はお世辞にも良いとは言えなかった。
傷を負ったのは俺の身体だ。今がどういう状況なのか、感覚で分かる。
左腕は、肩口から二の腕にかけてざっくりと切り裂かれていた。肉と骨が死に別れていないのはまっこと幸運だったという他ない。
「大丈夫、分かってるよ。俺の身体だからね……」
ただしそれは、逆を言うと物理的に千切れていないだけである。
左手を握る。握ろうとする。力が伝わっている感覚がない。
握るように力を込めたはずの俺の指は、ピクリとも動いてくれなかった。




