第206話 片田舎のおっさん、鈍りを感じる
「――ふしっ!」
呼気とともに、仄かに赤く煌めく剣を振り下ろす。フオッ、と。鋭く空を切る微かな音が耳に入った。
やはり感覚としてはやや鈍っているな。ブレることなく綺麗に真っ直ぐ落とすのが理想だが、手元と目が捉えた軌跡の違和感は、ほんの僅かなズレも見逃してはくれなかった。
「うーん……やっぱり素振りをして正解だった……」
年が幾つになろうとも、どれだけ技術を積み重ねてきたとしても。
今まで出来ていたことがほんのちょっぴりでも出来なくなっていたら、結構凹む。ただまあ、それに今の段階で気付けたというのは不幸中の幸いと捉えるべきだろうな。鍛え直すというほど大袈裟なものではないにしろ、僅かに失われた勘を取り戻す作業はどうしても必要だ。
もしかしたらおやじ殿は、この落差に耐えきれなくなって剣を置いたのかもしれない。それでもあの人は十分過ぎるほどに強いっちゃ強いんだが、そんなのはいくら他人から言われても本人が納得しなければ無意味である。
その気持ちは俺が一番良く分かるかもしれない、というのは何とも皮肉な話だ。周りからいくら強い強いと言われようが、俺自身がそう思っていなければ意識なんてそう簡単に変わりはしないから。
「あとで走り込みでもやりたいところだけど……」
剣を振るう腕が僅かにでも鈍っているのであれば、純粋な身体能力はもっと鈍っているはず。
首都バルトレーンを発ってから凡そ三週間程度経過しただろうか。その間に負荷を掛ける運動をほとんどしていなかったから、かなり身体が鈍化している感覚がある。
しかし今の俺は一般市民ではなく、サラキア王女殿下の輿入れに付いてきたレベリオ騎士団の特別指南役。ここはバルトレーンではないからして、無暗に走り回るのもどうだろうという疑問が付いて回るのは、ちょっと困った問題であった。
そう。俺たちはついにスフェンドヤードバニアの教都ディルマハカに到着した。
それがつい先日のことである。
ディルマハカに到着した時にはグレン王子の他、スフェン教のお偉いさん方も並んでいたようだが、正直グレン王子以外はあんまり覚えていない。距離的にも相手の顔がはっきり分かる距離ではなかったからな。
今は遠征団と王室側の顔合わせも終わり、案内された貴族の別邸で一夜を明かした後、裏手の庭を借りて剣を振り回しているところである。
朝っぱらから剣を振りたいので庭先貸してください、なんて言葉はなかなかに通じにくかったが、剣士であることとレベリオ騎士団の特別指南役であることを強調したら何とか許可を貰えた形だ。普段はあんまりこういうゴリ押しってやらないんだが、今回ばかりは俺の調子が危うかったので押し通させてもらった。結果としては正解だったように思う。
「観光は……あまりする気にはなれないか」
いくら鍛錬する時間を確保出来たからといって、日がな一日剣を振り回し続けるわけにもいかない。飯も食わねばならないし、何かしらの仕事で街に出ることもあるだろう。まあ一人でうろついても多分迷うんだけど。
旅は道連れ世は情けなんて言いはするものの、今回は国家同士の大変重要なお仕事に引っ付いてきた形なので、旅の恥はかき捨て、とはいかないのも困る。断じてこのディルマハカが観光に値しないという話ではなくてね。
ディルマハカの都としての評判は聞いていた通り、まあなかなかに綺麗な都市だと思う。都市機能としての洗練さについてはバルトレーンにやや劣るかもしれないが、思っていたより道も家屋も整っている。行きかう人々の数も結構なものだ。
洗練さという意味で言うと、区画の行政計画がバルトレーンより雑に感じるくらいかな。
あっちは区画が比較的はっきりきっちり定まっていて、何というか歩きやすい感覚を持つ。ただそれは俺が基本的に中央区と北区に行くからそう感じるだけかもしれないが。西区とかは結構雑多な感じだしな。
しかしそんな俺の感覚を抜きにして考えてみても、やはりバルトレーンとディルマハカでは少しばかり都市の趣が異なる。国も文化も違うんだから当然と言われればそれまでだろうけどさ。
この辺りにも連綿と紡がれてきた為政者の性格とかが出てくるんだろうか。まあ、それを語れるほどディルマハカの街を歩いたわけでもない。そもそも観光が目的ではなくて仕事で来ているわけだから、その本分は忘れないようにしたいところ。
「ガーデナント様、お客様がお見えです」
「あ、はい。わざわざありがとうございます」
色々と考えながら剣を上から下へ振っていると、この家の侍女と思われる人に声を掛けられた。
俺としてはそこらの宿でもまったく問題なかったのだが、流石に他国からの客人扱いだとそうもいかんらしい。なので現地の貴族……スフェンドヤードバニアのお偉いさんって貴族って言い方でいいのかな。よく分からん。
まあそのお偉いさんの別邸に泊まらせてもらっているわけである。そうなると当然、俺個人の裁量で行えることは減るわけで、人を訪ねるのも一苦労だ。そういう事情もあって、俺から誰かを誘ってふらっと観光に行こうよ、なんてのも言い出しづらい背景がある。
それは相手にとっても同様で、仮に俺に用があったとしても、俺個人を直撃することが出来ない。こうして使用人なりなんなりを挟む形になる。
思い返せばルーシーの家に行った時も、基本的にはハルウィさんが出てきて対応してくれていた。恐らくこれは、上流階級の人にとっての当たり前なんだろう。俺としては面倒臭いという気持ちが先走ってしまうが。
「さて……」
抜き身で動かしていた剣を鞘に納め、正門の方へと歩いていく。
季節柄、屋外でちょっと動いた程度では汗をかきにくくなっている。俺くらいの年齢になると余計にだ。まあその分、来客対応までに時間を取らなくて済むというささやかな恩恵はあるけどね。
気になるのは俺を訪ねてきた相手である。正直あまり候補は多くない。
レベリオの騎士の誰か、というのが一番あり得るラインかな。まさかトラキアス辺りが観光に俺を誘うなんてことはあるまい。いや可能性がゼロじゃないにしても、彼は俺の他にも誘えそうな人くらい沢山いるだろうし。
「あ」
「おはようございます、先生」
「ようガーデナント。久しぶりだな」
まあ多分アリューシアかヘンブリッツ君かじゃないかな、なんて予想をしながら正門に辿り着くと、そこには人影が二つ。結論から言えば俺の予想は半分が当たっていて、半分が外れていた。
「アリューシア。それにガトガさんも。お久しぶりです」
出迎えてくれたのは銀髪が眩しいレベリオ騎士団長と、偉丈夫で苦労人の教会騎士団長の二人であった。多少見慣れているとは言え、なかなか珍しく感じる組み合わせである。
そして、もしかしてあまりよろしくない用件で来たんじゃないだろうな、なんて失礼な考え方をしてしまうくらいには、ちょっと物騒な組み合わせでもあった。
「えっと、何かあったのかな?」
とは言え、訪ねてもらった以上は用件を聞かねばならない。ここで門前払い出来る立場でも状況でもないし。
「情報の共有がてら、都市の把握も兼ねて散策などはいかがかと思いまして」
「そういうこった。お前さん、ディルマハカは初めてだろう。ざっくり案内してやるよ」
「なるほどね」
どうやら今回は俺の思い過ごしというか、考えすぎだったらしい。彼女らが訪ねてきたのは至極真っ当かつ穏当な内容であった。
確かに俺はこの都市をよく知らない。まったく知らないと言っても過言ではない。どの道がどこに繋がっているのかすら知らんのだ。流石にこんな状態でお偉いさん方の護衛に就くのは無理がある。
そう言えば以前、ガトガとロゼがバルトレーンに来た時も、彼らは地理を把握するために都市内を歩いていたな。その時の案内役はレベリオ騎士団ではなかったが、事前に動く範囲と詳細をある程度知っておくのは大事だろう。
それらを考えると、俺はマジで無計画のままこの遠征に臨んでいたことになる。いやまあ、重要なポジションに就いているわけではないからそれでも問題はなかったと言えばなかったんだが、改めて考えると結構能天気なことをやっているな、なんて思ってしまうのだった。
「じゃあ、早速行こうか」
けれど、その無計画さが少しでも修正されるのなら悪くないと考えよう。どっちみち、最低限の地理を把握しておくことは大切だからな。
「お、お待ちください先生。せめて家主への連絡と外套を……」
「お前さん、そのまま出ていったらひと騒ぎ起きるぞ」
「そ、そっか。それもそうだ」
特に用意するものもないし早速出かけようかと思ったら、アリューシアに慌てて止められた。いかん、すっかり自分が客人として扱われていることを忘れていた。
確かに、預かったはずの客人がいきなり消えたら大問題になる。とりあえず外出する旨を伝えておくのと、外套も持ってこなきゃな。さっきまで普通に剣を振っていたからこれも忘れがちだけど、今は冬真っただ中で更に朝方である。
今は多少温まっているからいいものの、あのまま歩いていたらきっと凍えていたに違いない。危うく無駄に体調を崩すことになりかねなかった。
その辺りに全く気が回らなくなっているということは、俺も多少なり浮かれたり緊張したりしているんだろうか。その自覚はほとんどないままとは言え、このまま肝心なところが抜けっぱなしというのはあまり良い状態じゃない。あるいは、久方ぶりに身体を動かせたからちょっと気が弾んでいたのか。
どちらにせよ、この感覚は修正していく必要がある。その点で言っても、案内を受けながら町を散策するというのは悪くない。しっかり地理を覚えつつ、心身のバランスを整えていくとしよう。




