第204話 片田舎のおっさん、国境に迫る
「フルームヴェルク辺境伯、おかげで良い一日を過ごせました」
「勿体なきお言葉にございます王女殿下」
シュステからの告白を受け、そこから実にダサい逃げ方をした翌日。
サラキア王女殿下を護衛する遠征団は予定通りにフルームヴェルクで一泊を過ごし、今日よりスフェンドヤードバニア領を目指すこととなった。
正直ちょっと頭が痛い。精神的な部分もあるけど何より物理的に、である。流石にあの量を飲んで無傷とはいかなかった。結局ばかすかと飲んでしまい、楽しみにしていた風呂も逃しちゃったからね。早めに潰れてしまった分、朝はなんとか起きられたからささっと身体は洗わせてもらったけれども。
今は昨日と同じように辺境伯本邸の前で集合し、サラキア王女殿下とウォーレンが別れの挨拶を紡いでいるところ。しっかり日も昇り切った後で、普段の生活リズムよりは大分楽なのも、今日に限って言えば大変に助かっていた。身を整える時間がなんとか確保出来たからである。
と言うのも、すべてのスケジュールは当然ながら王女殿下に合わせられる。朝のいつ頃に出発するかというのもそうだ。行軍に著しい遅れが出ているとか、何かしらの事情があればまた別だろうが、基本的に王女様には夜明けと同時に目覚めるという習慣がない。当たり前である。
だからこの遠征の一日は、王宮勤めの人たちにとっては日常的な、俺たち剣士にとってはややのんびりとした朝から始まる。俺はちっとものんびり出来なかったけれど。
「殿下の旅程が平穏なものであることを願っております。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ええ、ありがとう」
いくら王女殿下と辺境伯の組み合わせといっても、今この場で交わされる挨拶は結構簡素なものだ。何故なら、二人の挨拶は既にウォーレンの館の中で済んでいる。
これはあくまで旅立つ前の一言を投げるだけであって、俺たち護衛団へのポーズという面も多分に含んでいるのだろう。何より辺境伯の本邸と言えど、日の下で王女殿下を長時間晒してしまうのはあまりよくない。
「それではサラキア王女殿下、こちらへ」
「ええ」
挨拶を終えたサラキア王女殿下が馬車へと乗り込む。付き人としては変わらず侍女二人とアリューシアだ。道中でいくらか打ち解けたのか、殿下や侍女二人の雰囲気も幾分か柔らかくなっているように思えた。
王女様が馬車に引っ込んでしまえば、俺たちがここでいつまでも立ち呆けている理由はない。皆きびきびと出立の態勢に入っていた。
「……」
馬車に乗り込む直前、ウォーレンたちの方を見やる。彼らは遠征団がこの場を離れるまでずっとあそこで待つつもりなんだろうな。その列の中には当然、シュステの顔もあった。何の気なしに視線を向けると、ぱちっと交わる感触を覚える。
いつも通りの愛嬌のある微笑み。彼女はずっとその表情を保っていた。その視線に乗せられた意図は分からない。恋慕かもしれないし、軽蔑かもしれない。
何かの一言が、口を突きそうになって慌てて噤んだ。今のこの場は俺が発言していい場所とタイミングじゃない。その場面は昨日の夜にとっくに過ぎ去っている。
うーん、我ながら情けないことこの上ない。こんなおっさんのどこが良いんだかと思うと同時、こんなおっさんだからこそ今まで碌な縁談もなかったんだろうなと思う。
剣の道を歩む、その決意に陰りも後悔もないけれど。やはりそれ以外の道では、おやじ殿の背中は遥か遠い。あらためてその事実を痛感する瞬間であった。
「……ふぅ」
「おや、ベリル殿。お疲れですか」
そんな後ろ向きな気持ちを持ったまま馬車に乗り込むと、外からの視線が切れたことで思わずため息を零してしまった。それを目聡く見つけたトラキアスが突っついてくる。
あんなことがあった翌日は一人で静かに過ごしたいところだが、馬車には他の人間も居るからして仕方がない。
「はは、どうやら昨晩は少々飲み過ぎてしまったようで」
「それはそれは。さぞごゆるりと過ごされたのでしょうが、体調には気を付けねばなりませんね。昨今は冷え込みも激しい」
「はい、まったくです」
とりあえず言葉を投げかけられた以上対応はするが、こういうところで無暗にそれ以上突っ込まれなかったのは素直にありがたい。個々人が許された範囲でどう過ごそうとも、任務に支障が出なければ何も問題はないからだ。
その辺り、トラキアスほどの人物となれば良く分かっているし、同時に親しくもない間柄でプライベートに突っ込むことの無意味さも分かっているように思えた。ある意味で下世話とも取れる話は町の安酒場でくだを巻いて語るもので、こんな大事な遠征中に深掘りするものじゃない。
それはそれとして。昨日少々飲み過ぎてしまったのは事実なので、言われた通り体調面はしっかり意識せねばならない。
大分慣れたとは言えども、やはり冬の厳しい気温に晒されていると身体を壊す確率が上がる。雪が降っていないのは不幸中の幸いといったところか。万が一積もったりすると行軍に多大な影響が出るからな。王女殿下を擁して立ち往生なんて考えたくもない。
「さて、いよいよ国境線が近付いてきましたな」
トラキアスの呟きに、無言で答える。
フルームヴェルク領からさらに南下すれば、もうそこはレベリス王国とスフェンドヤードバニアの国境線だ。スフェンドヤードバニアに俺は行ったこともないし何なら教都ディルマハカという名前も最近知ったくらいである。
しかしながら、バルトレーンに来てからやたらとその名前と絡むことがあったので、正直印象はあまりよくない。グレン王子やガトガたちが悪い人だとは思っていないけれども何というか、国そのものにちょっと不信感を抱いている。
何よりこっちにはロゼの一件があるからな。
結局あの事件の後、彼女が無事に逃げ遂せたかどうかは分からない。仮に亡命が成功していたとしても、その情報を俺に渡すメリットはないだろう。わざわざ命を狙われる可能性を高める必要はどこにもないのだ。
彼女は彼女でまだやることがあると言っていたし、なんとか無事であることを祈りたい。
まあ欲を言えば、無事な姿を一目見てみたいってのはあるけれども。それはただの俺の我が儘だし、彼女のためにならないことくらいは承知している。風の噂でどうやら生きているらしい、みたいな言葉が耳に入りでもすれば十分だね。
「そういえば、皆様はスフェンドヤードバニアには?」
折角トラキアスが国境線に近付くという話題を振ってきたので、俺もそれに乗っかってみた。何より長い道中である、ずっと無言で過ごすのは難しいし気分もあまり良くない。
「外交で何度かは。教都は綺麗なところですよ」
「私も幾度か。とは言っても我々は紋章官ですので、付き添い以外の何物でもありませんでしたが」
「……俺はないな。初めてだ」
どうやらトラキアスとアデラートは何度か足を運んだことがある様子。キフォーは俺と同じ初めての越境というわけだ。
綺麗な都と言えば聞こえはいいが、その賞賛が表向きのものではないことを祈るばかりである。やっぱりロゼの零した言葉が引っ掛かるもので、教皇派が子供を人質にという悪辣な手段がどうにも脳裏を過ってしまうな。
いやまあ、グレン王子ら王権派がしっかり治政を行っているからこそ綺麗な都になっているのかもしれないけどさ。その辺りは行ってみれば分かることか。
「なるほど。私も初めてなので、楽しみですね」
三人の反応に返した言葉は、半分建前で半分本音である。
ここで俺が「いやあ実はあの国にあまりいい印象がなくて……」なんて言っても何の得にもならん。俺は特別世渡りが上手い方じゃないが、今ここでそれを言う必要性が全くないことくらいは分かる。それが建前の部分。
本音の部分は、なんだかんだで初めての国外だということ。バルトレーンに住むことになってからも驚くことは多かったけれど、他国の街並みはどうなんだろうとか、文化の違いはどうなんだろうとか、まあ気になるところも実際多い。
あとはスフェンドヤードバニアでよく食べられている郷土料理なんかも口に出来れば最高だ。
なんだか最近、食に関して思うことが増えたように感じる。バルトレーンにやってきて美味いものを沢山食べたからだろうか。
まあ恐らく、向こうに着いたら着いたで宿は用意されているはず。まさか下手なものは出てこないだろうから、食事に関してはそこで楽しませてもらおう。
いやしかし、いつの間にか自分が持て成される側ということに少しずつ慣れてきてしまっている気がするな。
アリューシアやウォーレン曰く、そういう機会は今後増えはすれども減りはしない、なんて言っていたから、慣れる方がきっと正しいんだろう。
でもなあ、なんだかなあ。多少なり慣れてきたのは事実だし、外面的に取り繕うのも少しずつ出来ている感覚はあるんだけど。これに慣れきってしまったら駄目だなという奇妙な感覚もまた同居していた。
そりゃ一人の人間として、嫌われたり下に見られるよりは好意的に見られた方がいい。その方が精神も安定する。
だが、それが当たり前であると身体と心が勘違いしてしまってはいけないのだ。そうなったら、その瞬間に俺の剣は鈍るだろう。もしかしたら折れるまでいくかもしれない。
その辺り、アリューシアは本当に上手くやっていると思う。彼女も十分持て囃される立場ではあるだろうに、剣の腕は錆び付くどころか更に研ぎ澄まされているからな。それはつまり、周りの評価や称賛を受け取りはするが、その上に胡坐をかくことはしていない、ということ。
俺にも今後、仮にそのような機会や場面が増えていくとして。彼女のように剣士として高潔な魂を持ちながら己を研鑽し続けることが出来るのかどうか。今のところきっちりやり通すつもりではあるが、人間の慣れというものは実に恐ろしいからな。そうなってしまわないように、一層自戒の念を持たなければなるまい。
無論これは、自分の力を過剰に下に見るとかそういう意味じゃなくてね。
今までは本当に剣を振るだけでよかったのに、随分と贅肉が付いてきてしまったものだなと感じる。まあその肉も、一概に悪いものとも言えないのでもどかしいところではあるが。
「……しかし、今日の天気も遠征日和で何よりです」
「はは、それは確かに」
何の気なしに零した言葉に、トラキアスが続く。
俺の心の模様とは些かかけ離れた見事な寒凪に見守られて、遠征団の馬車は進んでいた。




