第203話 片田舎のおっさん、酒に逃げる
「バ、バルトレーンに……?」
「はい」
万が一俺の聞き間違いがあるといけないので念のため確認を取ってみても、やはり間違いではなさそうだった。
それはウォーレンも首を縦に振らないはずである。まさかいきなりそんな超級の我が儘を発揮しているとは露ほども思わなかったよ。こればかりは流石に、いくら愛嬌のある笑顔で申し出たとしても誤魔化せるもんじゃないだろう。
「……理由を聞いても?」
「ベリル様がいらっしゃるので」
「いやいやいやいや」
こちらからの疑問に即答され、危うく口を付けかけたエールを零しそうになった。そんな真っ直ぐな目と言葉で訴えられても困るんですが。
例えばこれが、バルトレーンに憧れてという単純な理由ならまだ理解も出来た。首都バルトレーンはレベリス王国一の大都市だ。人口も娯楽も桁違いに多い。フルームヴェルクも大都市の一つには違いないのだろうが、やはりバルトレーンとの差は歴然である。
だがその理由が俺というのはちょっと、いやかなり解せない。百歩譲ってそれを受け止めるにしても、それは嬉しい、じゃあバルトレーンに来ようか、なんて無責任な言い方は間違っても出来ないのだ。
仮に。これがもし仮に、彼女がただの平民の出で、たまたま地元に立ち寄った異性に思いを寄せ、一念発起して首都まで追いかけようとしている……などであれば、まだある程度の理解は得られるだろう。無論、賛否は当然あるとしてね。
しかし彼女はただの一般女性ではない。大変に上等な教育を受けた、辺境伯家のご息女だ。言い方は悪いけれど、田舎で過ごしてきた農民の娘などとはその価値が大いに異なる。
これがまだ、バルトレーンの誰かに嫁ぐから、という前提があればまた変わってくるのだと思う。女性、特にある程度地位のある女性であれば、良い家に嫁ぐことは仕事の一つでもある。そしてその点をウォーレンが軽視しているとは到底思えず、そのための縁談なども今まで組まれていたはず。
そう言えばウォーレンは最初、シュステのことを婚期を逃した愚妹なんて言い方をしていたな。嫁ぎ先が上手く決まらなかったのか、求める水準が高過ぎたのか、その内情までは分からないけれど。
「バルトレーンまでわざわざやって来る理由が俺……というのは、難しいんじゃないかな……?」
「何故でしょうか。ベリル様は魅力的な男性であると思いますが」
「そ、そう……あ、ありがとうね……」
好意をぶつけられているのは分かる。それは流石に分かるんだけど、そうなるに至った理由が乏しすぎる気がする。
ジスガルトやウォーレンの口から、前もって肯定的な情報が流されていたというのはあるだろう。普通に考えて、良いところの出のお嬢様がこんなオッサンに一目惚れするというのは大変に非現実的だ。
だがそれにしたって好感度の振れ幅がデカすぎやしないか。
前回の遠征でこちらに来た時、俺は夜会などでは恰好いいところをまったく見せられなかったし、せいぜいがサハトら私兵軍を鍛えていた時くらいである。それだけでいきなり惚れるというのは考えにくい。
だって彼女の下には武に優れた人間くらいいくらでも居るはずなのだ。それこそサハトでもいい。
別に武力に限定しなくとも、俺なんかより遥かに容姿端麗で優秀な人間はこの国にごまんと居る。シュステほどの美貌と権力、加えて持ち前の愛嬌や知識、世渡りの巧さなどがあれば、男なんてより取り見取りな気はするんだけどな。
「……ちなみにウォーレンは何て言ってた?」
とりあえずは、その相談を真っ先に受けたであろうウォーレンの見解を聞きたいところ。逆にウォーレンが許可を出していたらとんでもない事態になっていた。よくぞ止めてくれた、という感謝の気持ちが何故か湧いてくるよ。
「押しかけは良くない。話も何も伝わっていない状態で行くのは迷惑以外の何物でもない。住まいの問題や外聞の問題もある。すべてにおいて時期尚早……この辺りでしょうか」
「……それは御尤もだと思うよ」
俺の問いかけに対し、彼女は一つひとつ指を折りながらウォーレンの見解を述べてくれた。いや本当に、彼がまともな感性の持ち主で助かった。
仮にシュステがいきなり押しかけてきたとして、俺は多分それを受け入れない。兄であり現当主であるウォーレンの許可も下りてないとなれば尚更だ。一日二日留まるくらいは許したとしても、どうにかしてフルームヴェルク領へ戻すだろう。帰りの護衛に俺が付いていくくらいはやってもいい。
けれどやっぱり、たとえ相手がどこの誰であろうと、突如として押しかけてくるというのは俺の持つ常識に照らし合わせたらナシである。
というか、シュステ自身がそんな非常識な子だとは到底思えない。いったい何が彼女をそこまで突き動かそうとしているのか、相変わらず読めないままだ。
「ですので、王女殿下の護衛としてベリル様がこちらに立ち寄るのを、今か今かとお待ちしておりました」
「……そうか」
そんな俺の心境を知ってか知らずか……いや恐らく分かった上でこの笑顔を浮かべているんだろうな、これは。そういう人の機微というか、感情を読めない彼女ではない。その技術で言えばシュステは俺なんかより遥かに格上である。
……待てよ。となると、ウォーレンに対して無謀とも言える我が儘を言ったのは、それも作戦の内なのかもしれない、なんてことすら考えてしまう。
シュステとて、そんな申し出がいきなり通るとは思っていなかったはず。だが今回の遠征に俺が引っ付いてくるのはほぼ確定事項。逆にその我が儘を伝えることで、今夜のこの状況を勝ち取った、と見ることも可能っちゃ可能だ。
何故なら、フルームヴェルク家の長女という肩書は俺よりももっと上位の人間を持て成せる立場であるから。
だって、俺を精一杯持て成したとしても政治的な意味はなーんにもない。俺にその類の人脈や権力はないし、これから得るつもりもないからだ。その腹積もりがあるのなら、俺はアリューシアに誘われた時点で色々と足りない頭を動かして何かしらやっていたはずである。
ウォーレンがまさかその辺りを見誤るとは思えない。本来の予定であればトラキアス辺りを接待するのが彼女の役目だったんじゃないだろうか。
そして、そういう政治的な利点を半ば無視してまで、ウォーレンはシュステを俺に付ける判断を下した。やっぱりこれはこれで、多少の思惑が挟まっている気がしないでもない。
「ベリル様」
「うん」
色々と思案していると、やや改まった口調でシュステが切り出した。食事の手なんてとっくに止まっている。こんな話をされながら呑気に飯を突っつく精神力は、流石に持ち合わせていない。
「貴方様をお慕い申し上げています。抱いたこの気持ちを、紡がれたこのご縁を、より深く長く、ともに築き上げたいと心より思っております」
真っ直ぐとこちらを見据えて。しかし微笑みは絶やさずに。普段の愛嬌のある笑顔というよりは、どこか静謐さを持ったような、そんな表情とともに。シュステの言葉は実に流麗に紡がれた。
「……どうして、俺なのかな」
彼女の渾身の告白を受けて、出てきたのは実に情けない言葉。つまりは、どうして俺なんかをお慕い申し上げる事態になってしまったのかである。
無論、好かれることは嬉しい。それが友愛でも恋慕でも、嫌われるよりは好かれた方が嬉しいに決まっている。
だがシュステとともに過ごした時間は、あまりにも短い。一目惚れと言われてしまえばそれまでと言えども、俺のような平民に抱く感情としては、少しばかり大き過ぎるように思えた。
「愛らしいお顔、自然体で気遣いが出来る大らかな性格、父と兄も認める剣の腕、驕らない強さ。……まだ必要でしょうか?」
「えっ、ああ、うん……ありがとう……なんだか照れ臭いね……」
理由を問うてみれば、彼女の口が回る回る。聞いておいてなんだけど物凄く恥ずかしい。いや、それくらい惚れられていると考えれば良いことなのだろうが、真っ向から特大の好意をぶつけられると人間は割と怯む。そのことを痛感した瞬間であった。
「ふふ、ベリル様から中庭で賜ったお言葉。あのおかげで私の心も晴れ渡りましたの」
「……そうか。それは良かった」
先ほどの褒めそやしとはまた違った感情のこもった言葉。どうやら俺の言葉が彼女の扉を一つ開いたらしい。
それ自体は喜ばしいことだ。俺なんかの言葉が誰かのためになっている。剣の道に進むと決めてはいても、それは他人を無視していいわけではない。弟子という形の後進とはまた少し違うが、一応生きている年月だけで言えば俺の方が長いからね。その積み重ねが多少なり、彼女に良い影響を与えたのは誇っても良い結果なのだろう。
「両親や兄たちは、私に十分な教育と愛を施してくれました。それは感謝しています。ですがそれらとはまた少し違う、他人からの気遣いや愛情を頂いたのは初めてです。そして、それらに応えたいと思ったのもまた初めてです」
「ははは、そこまで言われるとなんだか面映いね……」
シュステはやや目を伏せがちに、愛嬌に加えて慈愛に満ちた表情で述べる。
まあ、彼女のことを俺は少なくとも嫌ってはいない。むしろ人としては好いていると言っていい。そんな子に好意を真っ直ぐ向けられるというのは嬉しくもあると同時、中々に気恥ずかしいものであった。
「最初に打算があったことは否定しません。けれど、今はそれらを抜きにしてお慕い申しております」
「そうか……ありがとう。その気持ちは凄く嬉しいよ。素直にね」
一言で言えば、とても俺にはもったいないくらいの女性だ。
家格も十二分、容姿も性格も極めて良し。深い教養も持ち合わせ、男を立てる術も申し分ない。あえて打算があったと素直に白状出来る精神性も含めて好ましく映る。
これ以上の相手を探す方が遥かに難しいと断言出来る程度には、シュステ・フルームヴェルクという女性は極めて優れた人物である。それは間違いないだろう。
俺自身、彼女に対して悪いイメージは持っていない。素直にいい子だと思うし、だからこそ俺なんかには不釣り合いなんじゃないかとも思ってしまう。
でも、真正面から好意をぶつけられて、しかもそれが年端もいかぬ少女の憧れなどではなく。成熟した一人の女性から受け取ったとなれば、俺も誠意をもって対応する必要がある。
「けど……ごめん、すぐには応えられない」
「私では不相応でしょうか……?」
「いやいやいや、そうじゃない。そうじゃなくてね。君は俺なんかにはもったいないくらいのいい子だよ」
シュステを俺にとって不相応などと言い捨ててしまえば、世界中の男性と女性をまるっと敵に回す羽目になる。いったいお前は何様だという話だ。
しかし、どれだけの人物からどれだけの質量の好意を受け取ったとしても。俺は多分、満足にそれを受け止められないと思うのだ。少なくとも、即答は出来ない。
「……俺は今、一人の少女の後見人になってるんだ。何というか……それ自体は流れでそうなっちゃった部分も多分にあるんだけど。今では大切な娘、と言ってもいいのかな」
「まあ、それは良いことだと思います」
「はは、ありがとう」
理由の一つとしては、やはりミュイの存在がある。別にミュイが居るから絶対に結婚しないとかそういう話でもないし、彼女を言い訳に使うわけじゃない。
ただ何というか、今は俺が最優先じゃないのだ、気持ち的に。ミュイの後見人になり、一緒に住むようになり、俺個人の幸せよりミュイの未来の幸せを気にするようになった。
無論、母親的な人はいた方がいいとは思う。俺だって仮にお袋がおらず、おやじ殿の手一つで育てられていたら随分と違う姿になっていただろう。
しかしその考え方自体が、相手のことを俺の奥さんというよりミュイのお母さんとして捉えてしまっている証拠。最初にその視点から相手を考えてしまうのは、多分相手にとっても失礼だ。
シュステにそれが出来ない、とまでは思わない。そりゃ最初は困惑もするだろうが、彼女ならミュイの相手も難なくこなしてしまいそうな感じはする。あるいはミュイにしても、存外早く馴染むかもしれない。勿論それは、実際に引き合わせて生活してみないと分からないことだ。
けれど、その分からないリスクを背負うのが難しい。特に相手が、フルームヴェルク家の長女ともなれば。
俺との相性はともかく、ミュイとの相性を量る必要がある。そしてダメだったから申し訳ないけど帰ってくださいねは、いくらなんでも道理が通らない。言ってることがマジで無茶苦茶だ。相手からしたらふざけんなという話にもなる。
勿論、俺にだって欲はある。器量のいいお嫁さんが出来たらいいなあくらいは思っている。
だけど、それは俺の人生における最優先事項じゃない。俺にはまず剣の道を進み続けたいという大目的があり、そこにミュイの将来が割って入り、最後に俺個人がまあ不幸せでなければいいなという感覚である。
そして今、俺個人の感覚として俺が不幸せであるという認識がない。むしろ望外の人生を歩ませてもらっていると感じるくらいだ。
不満がないからこそ、人生の伴侶を積極的に選ぶという行為に及び腰になっている。これが後二十年若ければ、シュステの提案に飛び付いていた可能性は大いにある。だがそれをするには俺は少々、年を取りすぎていた。
「――という感じでね。今すぐはどうしても考えられないんだ。繰り返すけど、シュステはいい子だと思う。俺も君に好意を持っていると言っていい。だけどそれは、アリューシアや他の子たちに向けるものと同じ好意なんだ」
「……そう、ですか。分かりました」
そういう俺の思い、考え方というものを不器用ながら説明していった。返ってきた言葉は了承の類ではあったが、まあ割り切って受け止めるというのは難しいだろう。その点は本当に申し訳ないと思っている。
「……逆に言えば、義娘様がお独り立ちして、ベリル様が剣の果てに辿り着けば、その時にはまだチャンスが残っているということですね」
「えっ、あ、うん……そうなる、のかな……?」
本当に申し訳ないと凹んでいたら、シュステが驚異的な切り替えの早さを見せた。愛嬌のある笑顔もすっかり復活である。とんでもねえ精神力だ。
いやまあ理屈で言えばそうなんだけどさ。ミュイが独り立ちして自身が歩む剣の道に納得する時が来たら、その時は断る要素がなくなるわけで。その間に俺が売り切れているかどうかなんて分からないし、多分その可能性の方が低い。
「ではその時をお待ちしています。とは言っても忘れられては困りますので、そうですね。文の交換からさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「文通は大丈夫だよ。しかし自分で言っておいてあれだけど、こんな男でいいのかい……? ミュイ……ああ、義娘の名前だけど、彼女が独り立ちするのはともかくとして、俺が剣の道に納得するのがいつになるかなんて分からないよ?」
「はい。私の方が若いので。まさかベリル様も、私が年を取ったからご免だ、なんて仰らないでしょう?」
「言わないよそんな失礼なことは。……本当に、俺にはもったいないくらいいい子だね君は」
「では今すぐ貰ってくださいませ」
「い、いや、それはちょっと……。ごめんね、こんな情けない男で」
「いえ、いいのです。それでこそ私のお慕い申し上げているベリル様ですので」
「そ、そう……ありがとうね」
器量の良さ、教養の深さ、切り替えの早さ、気遣いの深さ。改めて、俺なんかよりもっといい男がいくらでも捕まえられそうな女性だ。言った通り、本当に俺にはもったいないよ。
「でも、俺なんかよりいい人は沢山居るんだから、もしそうなった時は遠慮しなくてもいいんだよ」
「あ、その言い方はダメですベリル様。こういう時は『いつまで待たせるか分からないが、どうか待っていてくれるか』と伝えるべきです」
「は、ははは……手厳しいね……」
最後にダメ出しを頂戴して、この話は一段落となった。
後は食事の手が止まっていたから飯を食うだけなんだけれども。まあ飯の味なんて最初に比べたら全然分からなくなっちゃったよね。気まずさと申し訳なさで既にお腹と心が一杯である。
「……おかわり貰っていいかい?」
「構いませんが……飲み過ぎには注意してくださいね?」
「明日には残さないようにするよ。……たぶん」
結局、いつも通りの味を感じられるのはエールだけとなったわけだ。不甲斐なさを紛らわせるかのように、普段よりかなり速いペースでぱっかぱっか飲んでいたら、シュステから注意が入ってしまった。
大丈夫、二日酔いにはならないはず。おそらく。たぶん。きっと。
でも今夜ばかりは飲ませて欲しい気分だった。酒に逃げることしか出来ない自分にまた情けなくなって、更に酒が回る悪循環。
こんな体たらくを遠慮なく見せつけて、いっそ俺に愛想を尽かせてくれたら楽なのに、なんてまた情けない思考に逃げて、酒が進む。最悪なオッサンだ。
「うぃ……ごめんよシュステ……」
「いいえ、良いのですよベリル様」
徐々に思考と呂律が回らなくなって、ぐだぐだになりながら。その日の夜は更けていった。




