第181話 片田舎のおっさん、夜会を終える
「だはぁー……疲れた……」
「お疲れ様ですベリル様」
なんとか夜会のあれやこれやを切り抜け、随分と夜も更けた時分に別館へと戻ってきた直後。部屋に備え付けられた豪華なソファに、どっかりと腰を下ろす。すかさずタイを緩めて近くの机にポイ。決して褒められた仕草ではないが、今この時くらいは許してほしい。
お偉いさん方と話している時は勿論、それらが一段落ついて会場の飯を食っている間も、何なら夜会がお開きとなって別館に戻る間までも、周囲の目がある以上は気が抜けなかった。どこで誰が見ているか分かったもんじゃないからな。
挨拶を交わした人の総数はどれくらいに上っただろうか。二十を超えたあたりから俺はもう数えるのを止めた。
恐らく、あの場に居たほぼ全員と一言以上は交わしたと思う。印象的な人物は多少覚えちゃいるが、あの一瞬で全員の顔と名前を一致させるのは俺には無理だ。今後会う確率は低いにしても、街中で偶然声を掛けられてもとっさに反応出来る自信がない。
シュステやアリューシアは、ああいった人たちの顔と名前もしっかり記憶しているんだものなあ。なんだか頭の作りが俺のような凡人とは根本から違う気すらしてきたよ。
「こちら果実水です。飲まれますか?」
「ああ、ありがとうシュステ」
シュステが入れてくれた果実水を受け取り、一気に半分ほどを飲み干す。微かな甘みが口腔内をするりと通り抜け、まるで清流が胃の中に落ちていく感覚。ふう、落ち着くね。
会場に居た時にも料理は食べたし酒も多少飲んだが、こういう落ち着いた空間がやっぱり飲食するには一番だ。余計な気を張らなくていいのが何より良い。俺の中では、シュステは既に気を張らなくていい相手になっていた。
夜会中はほぼおんぶに抱っこだったけれども、気分的にはもう戦友と呼んでも差し支えないほどである。
「それで……どうだったかな、俺は何か拙いこと言っちゃったりした?」
気分的にはこのまま精神的疲労に身を任せて就寝、と行きたいところだが、そうは問屋が卸さない。早速今夜の反省会である。
もし俺が何か余計なことを口走っていたのなら、それの対策を打たなきゃいけない。そしてその対策は、俺がバルトレーンに帰ってしまった後では難しい。俺としても、こっちで余計な火種を残したままというのは気分が落ち着かないので、もし問題があれば早急に解決する必要がある。
「いえ、大丈夫だと思いますよ。意識して明言は避けておられましたし、全体を通して悪くない対応だったかと思います」
「そうか、それはよかった……」
少し緊張していたけれども、どうやら俺の取った対応に大きな間違いはなかったらしく。これでやっと本当の意味で一息つけるというものだ。
「失礼します。お疲れ様です先生」
「……や、やあアリューシア。君もお疲れ様、大変だったろう」
「問題ありません。お気遣い頂きありがとうございます」
ほっと胸を撫でおろしたところで、ノックとともにアリューシアが部屋の方へと入ってきていた。
……なのだが、何故か夜会に出ていた時のドレス姿そのままである。てっきり彼女のことだからさっさと普段着に着替えているものだとばかり思っていたから、少しばかり面食らってしまった。
「……うーん」
「……あの、先生……?」
「あっ、いや、なんでもない。すまないね」
「?」
ついついじっと見つめていたら不審がられてしまった。いかんいかん、どうにも意識が彼女のドレス姿に引っ張られているな。
まあ何と言うか、改めて見てもアリューシアは美人である。何を今更という感じではあるが、問題なのは「彼女が美人であることなど最初から分かっていた」ことにある。
言い換えれば、見慣れていると言ってもいい。単純な薄着くらいなら修練場での鍛錬でいくらでも見ているし、流石に女性の恥ずかしいところを見ることはないけれど、肌くらいなら見慣れているものだ。
如何に着飾っていたとは言え、教え子であるアリューシアの姿にドキッとしてしまったのは、なんとなく俺の中で解せないのである。
予想以上に俺自身が緊張していて、更に会場の空気にも中てられた、と考えるのが妥当だろうか。これに関してはあんまり深く考えない方がいい気もしてきたぞ。
「せ、先生」
「うん?」
どうにか気を持ち直していると、アリューシアから声がかけられる。その声色は普段の凛々しいものとは違って、少しばかり逡巡があるようにも思えた。
「その……どうでしょうか」
どうでしょうか。その質問の真意を改めて聞いてしまうような野暮な真似は、流石に出来ない。
「……最初にも言ったけど、よく似合っているよ。君の美しさに一層磨きがかかったように思う」
「……ありがとうございます」
俺の言葉を受けて、アリューシアははにかみながら軽く頭を下げた。
言った言葉に嘘はない。紛うことなき本心だ。しかしながら、こんな歯の浮くような台詞を口に出すのはめっぽうに恥ずかしい。けれど、ここではそれを言わないといけないような気がしたんだ。
アリューシアだって、こんなことを改めて俺に聞くのは恥ずかしかったに違いない。自分を褒めてくれと言外に言っているようなものだしね。
だからこそ、そんな恥じらいを乗り越えて訊いてきた彼女に、俺だけ恥ずかしがってのらりくらりは流石に恰好が悪い。ちっぽけではあるものの、俺にも男としての意地はあるんだ。ほんの少しではあるが。
幸いながら、ここにはそれを茶化す人も居ないしな。ジスガルトが居たら絶対に要らんことを大声でまくし立てていたに違いない。あいつが居ない今だからこそ、こんな対応も出来るというものだ。
しかし、あのアリューシアがわざわざ改めて服装の感想を求めに来る、というのはかなり珍しい気がする。どこかで気持ちの変化でもあったのだろうか。別にそれをあえて問いただすようなことはやらないが。
「アリューシア様も、お疲れ様でございました」
「お気遣いありがとうございます。シュステ様も、大変に素晴らしい立ち回りでした」
次いで、アリューシアとシュステが互いに称賛の言葉を交換する。
二人とも初対面時よりはいくらか打ち解けたようにも見えるけれど、それでもやり取りされる言葉は明確な壁を感じさせるものだ。いやまあ、通常ならそれが当たり前のはずなんだけど。
俺だって本来の立場で言えば、この二人のどちらとも気安い態度は取れない。事実、人の目がある時はちゃんと礼節を意識している。
アリューシアはまだ分かる。彼女には俺の元弟子だったという一応の理由があるからな。
だがシュステにはそれらがない。元教え子の妹という、繋がりと言えなくもない繋がりが一応あるにはあるものの、それにしたって彼女と会ったのは三日前が初めてだ。俺が敬う態度を取るのが当然のはずなのに、当の本人が何故かそれを良しとせず、逆に俺には時間と場所を問わず丁寧な対応を一貫する。
これがアリューシアに対しても砕けた態度を要求するならまだ話は分かるんだ。でも実際にそうはならず、結果として辺境伯家の長女という地位に居る人物に対し、小市民の俺だけが普段通りの態度をとることがまかり通ってしまっている。
やっぱりここにも何らかの思惑が働いてるんじゃないのかなあと、改めて勘繰ってしまうのである。かと言って、俺にはそれを直接聞く胆力もないんだけどさ。なんだか考えてて悲しくなってきた。
「とりあえず、これで一応の役目は果たした……と見ていいのかな?」
一旦思考を止めて、今後のことについて聞いてみることにした。
とりあえず今回の仕事はサラキア王女殿下の嫁入りルートの確認と、それに伴う根回しだ。フルームヴェルク領に来るまでの旅程に問題はなかったと思うし、夜会の最中もアリューシアは色んな人と顔を繋いでいた。
なので後は、この情報を持ち帰って王室に報告することで今回の任務は完了のはずだ。
「はい。概ね目的は達せられたと考えられます。後は帰路ですが、恐らく問題はないでしょう」
「そっか、一安心だね」
彼女からしても、今回の遠征の感触は悪くないらしい。俺にはその辺りの判断が付かないから、彼女が大丈夫と言うのならきっと大丈夫なのだろう。
となると、後は帰るだけである。この別館での生活は当然悪いものではなかったので、何となく後ろ髪を引かれる気分にもなる一方、この水準に慣れ切ってしまうとダメな気もしている。まさかうちの家で使用人を雇うわけにもいかないしね。
「ウォーレン……辺境伯とも話をしましたが、もう数日滞在させて頂き、その後帰路に就く予定となっています」
「……もう数日?」
てっきり仕事が終わってさっさと帰ると思っていたのだが、どうやらもうちょっとここに滞在するらしい。
俺としてはどっちでもいいし、むしろこの余暇を利用してフルームヴェルク領の酒場にでも繰り出したい気持ちはある。あるが、任務の性質上帰還を早めないのはちょっと違和感が残るな。
「私たちに私兵軍の稽古を付けてほしいそうです。別口の依頼となりますので、別途滞在費を持って頂けるとのことで」
「なるほどね」
続くアリューシアの言葉に、そういうことかと納得する。
レベリオ騎士団は、その勇名を王国全土に轟かせている。轟かせている一方で、基本的にバルトレーンから出てこない上に少数精鋭なもんだから、首都以外の各地でお目にかかれる機会はあまりない。俺の故郷であるビデン村だって、レベリオの騎士が訪ねてきたのはアリューシアが初めてである。
ここは一つ、レベリオの騎士の強さを肌に感じてもらって私兵軍の士気と実力を一段底上げしよう、というウォーレンの策なのだろうな。確かにここはスフェンドヤードバニアとの国境領だし、自軍が強いことに越したことはない。
「そういうことなら俺も手伝うよ」
「ありがとうございます。先生のお力があれば百人力です」
「ははは、ありがとう」
こういったやり取りは今に始まったことではない。彼女に限らず、俺の下で剣を磨いた者たちは大抵が俺を持ち上げてくれる。
ただ、そこに過度な謙遜はもうしないと決めた。ただの稽古とは言え、俺はあのおやじ殿を下したのだ。そこに対しては自信と責任を持たなきゃいけないと考えるようになったから。
「まあ、お稽古ですか。よろしければ、私も見学させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「俺は構わないけど、アリューシアは?」
「問題ありません。シュステ様にも、レベリオの騎士の誇りをお見せ出来ればと思っております」
どうやら稽古をシュステも見学したいらしい。後はウォーレンの許可だが、まあ反対はしないだろう。
確かに馬車で移動を開始してからここまで碌に動いてこなかったから、ちょっと身体が鈍っている感覚はあるんだよな。この歳になって運動不足とか洒落にならんので、サハトはじめ私兵軍の者たちには俺の運動に付き合ってもらうとするか。
「辺境伯からは、遠慮なくやってくれと指示が出ていますので、先生もそのつもりでお願いいたします」
「分かった。そのつもりで臨もう」
騎士団と貴族の私兵という、所属も目的も異なる組織ではあるものの、戦いに重きを置いた者の集まりであることには違いない。その辺りをウォーレンもよく分かっている。忖度で強くなれれば誰も苦労はしないのだ。
そう考えたらちょっと楽しみになってきたな。ウォーレンが叩き上げと言ったサハトの腕前も気になるところだし、しっかりと実力を見定めさせてもらうとしよう。
アリューシアがようやく打席に立つようになった感じがあります。
この辺りに関連するお話を書籍第6巻では書き下ろしていますので、ご興味がある方はぜひご検討のほどよろしくお願いいたします。