第166話 片田舎のおっさん、悩む
「よいしょ、と。皆おはよう」
「おはようございます!」
久々に魔術師学院の講義に顔を出した翌日。今度はいつも通りと言うか、メインのお仕事である特別指南役の役目を果たすべく、俺は騎士団庁舎の修練場へと訪れていた。
今のところ仕事の割合としては、この特別指南役が八割、剣魔法科の臨時講師が二割といった感じである。
忙しいと言えば忙しいのだろう。けれども剣魔法科の方は一講義だけ、つまり一時間くらいで終わるし、こっちだって常に修練場に張り付いているわけでもない。俺の実働時間で言えば多分四時間前後とかそれくらいだ。
体力的なしんどさはあるかもしれないが、拘束時間的にはそこまで長いわけではない。むしろ一般的な労働に比べたら結構短い。
それでそれなり以上のお金を貰えているというのは、片田舎で常に農業と隣り合わせで剣を教えていた時からは考えられないことである。いやまあ確かに金はあるに越したことはないし、早朝から深夜まで毎日働き詰めで過ごしたいとは思わないけれども。
結論としては、なんとも恵まれた環境に放り込まれたものだなという感想になる。恐らくこれはアリューシアに感謝すべきなのだろう。
そのアリューシアは、俺なんか比べ物にならないくらい毎日が忙しそうではあるけれど。彼女の負担を俺が少しでも減らせているのであれば何よりだ。
「さて、それじゃ今日も頑張っていこうかな」
これは誰かに向けて発した言葉ではない。俺自身に向けて呟いたもの。
おやじ殿に打ち合いで勝てたのだから俺は既に最強で、頑張る必要がない。そんなおめでたい考え方は残念ながら出来ないのである。
年老いたおやじ殿に辛勝程度では、まだまだ剣の頂に登り切ったとは言い難い。世の中には俺が全く知らない強者なんかもきっと沢山居るのだろう。それらに無条件で勝てると思えるほど俺は己惚れてはいないつもりだ。
しかしながら、じゃあこれからどこに目標を置こうかと考えた時。
すぐに思い浮かばないのもまた事実であった。
俺は長年、おやじ殿こそが最高の剣士だと考えてきた。それは今でも間違っていないと思うし、実際そうだったと思う。
けれど、そのおやじ殿に俺は勝った。
じゃあそれで自信が付いたかと言われればまだ怪しいが、それでも勝ちは勝ちである。無論、おやじ殿が一人の男としての目標であることには変わりないが、剣士として更なる高みに登るための目標として、どこの誰を据えればいいのか、というのは少し悩む問題であった。
おやじ殿がこの世界で最強だとは思っていない。だが、おやじ殿より明確に強い剣士の存在を俺は知らない。
それなら流れ的に俺が最強候補か? と問われると、それもまたなんだか違う気がしている。
そもそもおやじ殿のことを強いと思っているのはあくまで剣士としての領分であって、戦う術を持つ者すべてに範囲を広げればそれこそ沢山居るだろう。
身近な例で言えば、俺はルーシーと戦っても勝てる気がしない。至近距離で不意を突けば勝てるかもしれないが、そんなもん誰が相手でも同じだ。不意打ちは最強の戦術である。
例えば相手がミュイだったとして、俺が油断し切っているところにミュイがナイフでも刺せば俺は負ける。不意打ちというのはそれくらい強力だ。
ちょっと話が逸れたが、俺は剣の頂を目指すことを諦めてはいないものの、そのための道標が突如なくなってしまったというわけである。
ちなみに。
剣の道を究めることと、最強の剣士であることは必ずしも同一ではない。これはちょっと説明が難しい部分だけど、多分ルーシーなんかも同じタイプだと思う。彼女は魔法を究めようとはしているが、最強の魔術師であることに固執している様子はないからね。
その意味で言えば、俺は剣の道の果てに辿り着きたいと考えてはいる。一方で俺は別に、世界最強の剣士になりたいわけではないのだ。そりゃなれるならなってみたいが、あくまで興味の延長線上という感じであり、目的ではない。
しかしここで厄介なのは、剣の道を往くことはつまり強くなくてはならないということだ。これがただの学問であれば良かったんだけどなあ。そこは技術や知識の深さと強さが関係しない領域になる。
「うーん……」
眼前で繰り広げられる騎士同士の激しい模擬戦を眺めながら、思考に耽る。
さてはて、剣の道の果てとはいったい何処か。剣の頂とはいったいどのような景色か。それは誰にも分からない。多分、過去に誰も到達していないから。
今まではその道の先におやじ殿が居たはずなんだけど、俺はいつの間にか追い越してしまっていた。ここからは新たな道標を見つけるか、俺の独力で道を切り開いていかねばならない。
途轍もなく険しい道のりである。
既に人生の折り返し地点を終え、後は衰えていくだけのおっさんが一人で歩むには非常に厳しく、また心細い。
ともに歩む伴侶でも居れば話は違ったかもしれないが、今すぐはどうせ無理なのでそれは一旦置いておくとして。
けれども、それじゃあ歩みを止めようだとか、引き返そうだとか、そういう気持ちは湧かなかった。
折角ここまで来たのだから、登れるところまで登ってみたい。俺は頂点に座していないが、明らかに高い位置には居る。今までは低くもないところ、くらいの認識だったんだけど、これはもう高いと言っても恐らく過言ではないだろう。
「贅沢な悩み、なんだろうね」
小さく漏らした呟きは、修練場の喧騒に巻き込まれてすぐに消えた。
頭の片隅で理解はしている。
遅まきながら剣の腕を磨き続けた甲斐もあり、ビデン村と言う片田舎から飛び出し、レベリオ騎士団の特別指南役という地位を手に入れた。長年目標に据えてきたおやじ殿を相手に一矢報いた。
望外の結果だ。これ以上は望むべくもない。真面目にこれ以上を望むなら、まだ見ぬ強者を求めて大陸中を行脚する羽目になる。
流石にそれは現実味が無さすぎるのでナシにしても、自分がしっかりと剣の頂に登ったぞと思えるような成果……実感と言うか、そういうものが欲しいところだ。
いやあ、考えれば考えるほど贅沢な悩みである。そんなもん自分で決めろと言われたらそれまでの話なんだが、今までそういう位置に自身が位置しているとまったく思っていなかったから、いざそうなるとなかなか心の落としどころが見つからない。
「あ、居た。ベリルさん!」
「うん?」
そんなことを徒然考えていたら、後ろから声を掛けられる。
いかんな、折角騎士たちの打ち合いを見ているというのに思考に耽るのは良くない。軽く頭を振って振り返ってみると、そこに居たのはエヴァンス君であった。
「エヴァンス君。何かあった?」
「えっと、アリューシア騎士団長がお呼びです。執務室まで来てほしいと」
「……ふむ。分かった」
用件を告げた彼の顔に、焦燥のような感情は見られない。どうやら火急の案件というより、他には聞かせられない類の話だろうか。何にせよ、騎士団長様がお呼びとあらば馳せ参じるしかあるまい。
しかし、アリューシアからの呼び出しというのは本当に珍しいな。
彼女は俺に気遣ってか、何か用事がある時は大体向こうからこっちに赴いている。この組織のトップは彼女なんだから気軽に呼び出せばいいのに、とも思うけれど、そこは彼女なりの配慮というか、そういうものがあるんだろう。
「……あれ? 応接室じゃなくて執務室?」
「はい、そう申しておりましたが」
「そっか……ありがとう」
それじゃあ行くかと腰を上げたところで、はたと気付く。行き先が俺の知る応接室ではなく、騎士団長の執務室であるということに。
なんだろう。いよいよもって他所には聞かせられない重要な案件の香りが漂ってきた。そしてこういうのは往々にして厄介ごとでもある。しかも副団長であるヘンブリッツ君やベテラン騎士ではなく、俺をお呼びだ。なんだかちょっと緊張してきたな。
一応、アリューシアが普段居るであろう執務室の場所自体は分かっている。この庁舎に最初に案内された時、大まかな構造や部屋割りは教えてくれていたからね。
それでも、俺が直接執務室の中に立ち入ったことは一度もない。今までそれほどの用事がなかったからだ。
「さて……」
エヴァンス君にお礼を述べた後、修練場を離れる。
まあ今までの事件やら用件やら全部そうだったんだけど、結局俺がここで一人脳みそを回しても一向に答えは出てこない。
ビデン村からバルトレーンに来て色々な人と交流を持つことになって。言い方はちょっとおかしいかもしれないが、俺が知らない事態に巻き込まれることが増えてきた。
こればっかりは仕方がないんだろうけど、片田舎に引っ込んでいた頃はそんなことはほとんどなかったので、未だにちょっと慣れない。しかも、大体が良くない方向の事象である。警戒するなと言う方が無理だろう。
まあ、その警戒自体ほとんど意味のないことでもあるんだが。なんせその出来事は、俺の知らんところから勝手ににょきにょきと生えてくるのだ。
「っと、ここか」
白に統一された庁舎内の廊下をしばらく歩いた先。アリューシアが普段仕事をしている執務室の前まで辿り着く。
この先に彼女が待っているはずだが、質実剛健を旨としている騎士団の中でも特に豪奢な印象を与えてくるこの重厚な扉、やはり少しばかり緊張してしまうな。
「……よし」
正すほどの襟もないけれど、何となく気持ちを引き締めて扉をノックする。
コン、コン、と。俺の動きに合わせて硬質な音が静かに響いた。
「どうぞ」
音が響いて間もなく室内から静かな、しかし凛とした声が返ってくる。
間違いなくアリューシアの声だ。バルトレーンに来てからは日常的に耳にするようになった声だが、道場に居た頃から変わらず、良い声質だと思う。まあこんなおっさんに褒められても気持ち悪いだけだろうけれど。
「失礼するよ」
さてさて、アリューシアが俺を個別に呼び出してまで伝えたい内容とは。
興味は湧くが、面倒ごとの予感しかしない。たまにはこの勘も外れてほしいものだ。
本作のコミカライズ版が次にくるマンガ大賞2023にノミネートされていたり、シリーズ累計200万部を突破したりと、嬉しいことが立て続けに起こっています。ありがとうございます。