第152話 片田舎のおっさん、山に入る
「よいしょ……っと」
ビデン村に戻ってきて幾日か経ったある日。俺はサーベルボアの現状を調べるために村から離れ、アフラタ山脈へと足を踏み入れていた。
アフラタ山脈は標高がそれなりに高い。それに道中も割と険しいので、たとえ平和な時分であってもピクニック感覚で登るには少々骨の折れる場所である。更に今は増えすぎたモンスターの下調べのために登っているのだから、まあまあ疲れる。
「二人とも大丈夫かい?」
「ええ、この程度であれば問題ありません」
「まだまだいけるっすよー!」
「はは、流石だね」
今回の同行者はヘンブリッツ君とクルニ。別にこき使うつもりはないけれど、彼らとて俺の目的を知ってビデン村まで付いてきたわけだから、しっかりと働いてはもらう。
まあでも、流石はレベリオの騎士といったところか。こんな山への行軍なんて普通は経験なさそうだが、やはり騎士団となると色んな場所に遠征でもしているのかな。俺も山に慣れているとまでは言わないけれど、村が山に近いからそれなりの知見はある。そんな俺にしっかり体力を残しながら付いてこれるのだから、十二分に凄いことだ。
「今日明日でなんとか目星くらいは付けたいところだね」
道とも言えない道を進みながら、今回の目的について触れておく。
今日は何もサーベルボアを倒すためにアフラタ山脈に入ったわけではない。というか、事前の下調べもなくこのクソ広い山で特定のモンスターをしばくのはめちゃくちゃに非現実的だ。
なので今回はあくまで偵察。無論、この上ない幸運が降り注いでサーベルボアの群れを発見出来れば御の字だが、流石にそこまで甘くは見積もれない。
一応明後日辺りまでは天気が安定しているはずなので、その間にある程度の下見を済ませておきたいという感じだな。
一回の入山で全てが分かるわけでもないし、運の要素も絡む。山での探索なんて一日ぶっ通しで出来るわけでもないしね。それに日が沈んだ後でアフラタ山脈に入るとか絶対やりたくない。間違いなく遭難して終わりである。
「しかし、天候の方は信用出来るのですか? いえ、疑っているわけではないのですが……」
「うん、問題ないと思うよ。お袋の予報が大きく外れたことはほとんどないから」
「それはそれで凄まじいですね……」
今回このタイミングでの登山を決めたのは、向こうしばらくの天候が落ち着くだろうと判断されたためだ。そしてその判断を下したのは俺のお袋である。
別に特別なことは何もしていない。お袋が魔法を使えるわけでもない。
しかしお袋は何故か、空を視れば近日中の天気が分かるのだという。俺は幼少の頃から彼女の不思議な予測を聞いてきたわけであるが、これがとにかく外れないのだ。
勿論、曇天でなんとか堪えられると思っていたら小雨が降ってきたとかあるいはその逆とか、ちょっとした狂いは出る。それでも晴れると言われて雨が降ったことはないし、雨が降ると言われて晴れたことは記憶の限りでは一度もない。
お袋曰く目と鼻、それと肌感覚でなんとなーく分かるということだが、なんとなくの割に精度が高すぎるんだよな。その予測に俺どころかビデン村の連中は皆助けられてきたわけなので、ケチをつける気は毛頭ないけれども、聞けば聞くほど不思議な特技である。
生憎と俺にそんな特殊能力はないので、血で継がれるものでもなく本人の特異能力じゃないかという線が今のところ有力だ。
まあでも多分、俺のこの目の良さはどちらかと言えば、おやじ殿よりお袋から伝わったものだろうなとは思う。別におやじ殿も目が悪いわけじゃないが、それでもお袋にはとても敵わない。
「お、糞だ。……うーん、思ったよりも近そうだな」
「これ、サーベルボアの糞っすか」
「多分ね」
そんなことを考えながらしばらく歩いていると、背の低い草木の間に焦げ茶色のごろごろとした物体が現れた。
俺は生物学者でもなんでもないから、この糞一つでサーベルボアだと確定することは出来ない。だが、その糞の落とし主が草食か肉食かはなんとなく分かる。そしていくら山に踏み入れたとはいえ、村からほど近いこの位置で肉食モンスターの糞が簡単に見つかってしまうのは思ったよりヤバい。
俺が過去討伐に参加していた時でも、こんなにあっさり痕跡が見つかるのは稀だった。大体は数日張り付いてやっとそれっぽいものが見つかるかどうかである。
野生動物でもモンスターでも何でもそうだが、やつらは基本的に身を隠すのが上手い。自分が絶対の捕食者でもない限り、常に狙い狙われを繰り返しているからだ。そしてこのアフラタ山脈において、少なくともサーベルボアは食物連鎖の頂点ではない。流石に真ん中より上だとは思うが。
そんな状況で、こんなにあっさり痕跡が見つかるのはちょいと珍しいんだよな。
ざっと考えられる可能性としては三つで、サーベルボアかそれに準ずる肉食の群れがこの近辺に縄張りを持っているか、こんな麓の方まで足を伸ばすほど群れの規模が大きくなっているか、山の生態系そのものが崩れかかっているかのいずれかである。
一つ目はまだ問題ない。脅威ではあるがそれらを排除するための戦力はこちらにもある。
二つ目も厄介ではあるが、余程でなければ対応出来るだろう。
もし三つ目だった場合はかなりヤバい。早々そんなことが起こるとは思えないが、もしそれが起きていたらとんでもないことになる。
現時点では何の解答も出せないが、どうか三つ目の事例が起きていないことを祈るばかりだ。ここまで広い自然の山でそんな事態になっていては、もはや多少の人間を集めたところでどうにもならん。
なので三番目の可能性については現状除外する。状況証拠が揃えばその限りではないが、今考えても仕方がない。
「うーん……分解されてないから、そんなに古いものでもなさそうだね」
適当な木の枝で糞を突っついたりひっくり返したりしてみる。カッチコチに固まってはいるものの、まだ土に還っていないからめちゃくちゃ古いものでもなさそうだ。となると、群れか単騎かは分からないが近くに居る可能性はそれなりに高い。
ランドリドが今回の規模は比較的大きめかもしれないと予想したのも頷ける話である。彼のことだ、稽古の合間を縫ってさらっと近辺を見回るくらい朝飯前だろう。もしかしたら個人でこの山に立ち入るくらいはしているかもしれん。
「サーベルボア以外だとどんなのがいるんすかね?」
「そうだなあ……」
サーベルボア以外にどんなやつが居るかと問われても、答えるのは結構難しい。この規模の山脈なら果てしない種類の動物やモンスターが居るだろうし、俺が全く知らない種が居ることも当然考えられる。
「……一通り居るんじゃないかな。けど、ゴブリンなんかは見ないね」
「ほえー……」
動物で言えば鹿も猪も熊も居る。もっと小さいものなら兎や鼬だって居るだろう。
しかしモンスターで言えば、ゴブリンのような小型種はほとんど見かけない。時々ワーム系のやつらは出てきたりするけど、こいつらはそれほど脅威でもないしね。
アフラタ山脈は大きい山々だが、木々が生い茂っているわけではない。そりゃ生えてはいるが、森林の密度で言えばアザラミアの森の方が遥かに上だ。あそこは冒険者が立ち寄るルート以外はほぼ完全に森だったからな。
多分傾斜がきついのと、後は気候的な問題か何かがあるのだろうと思う。あるいは単純に大木が育つほど土壌に栄養がないとか。
まあそんなわけで、平原でも森でもないこの山というロケーションはまた生態系が違ってくる。ゴブリンに代表されるような小型種はほとんど見かけないというわけだ。
あまり思い出したくない相手だが、それこそグリフォンなんかはこういう山岳地帯に居ることが多い。
それでも今までビデン村付近での目撃証言はあまりないけどね。グリフォンが頻繁に見つかっていたらそれはそれで大事件である。
「しかし、ベリル殿は山中行軍も慣れておりますな」
「いや、この山というか、この近辺だけだよ。ざっくりとした地形は分かるからね」
ヘンブリッツ君からお褒めの言葉を頂くが、言われるほど大したことでもないんだよな。
サーベルボアの討伐もそうだけど、狩りやら腕試しやらでここら辺は昔っからちょくちょく練り歩いていた。なので、単純にこんな感じの場所だったなーと何となく覚えているだけだ。
勿論、それで油断するなんて馬鹿な真似はしない。一歩ミスったら即死が待っているのが山である。
ここがビデン村からあまり離れておらず、地理も最低限把握出来ており、極めて精度の高い天気予報があるから初めて成り立つ理屈だ。断じて俺が凄いからではない。
「……居ますね」
「ん、どっち?」
「右手側です。数は少ないかと」
ヘンブリッツ君の一声で、警戒度が一気に跳ね上がる。
基本的にアフラタ山脈に棲む連中は獰猛だ。というか、このエリアでは人間の立ち場が結構低い。なので何の備えもなく山に入ったらほぼ間違いなく何かに襲われる。やつらからしてみれば、俺たちは捕食される側の生物に他ならない。
「フゴッ」
「あ、居た」
三人が武器を振るえるくらいの間隔を取りつつ、はぐれない程度に、そして互いの背中を援護出来る程度の距離でじりじりと歩を進めることしばし。
ヘンブリッツ君の読み通り、右手前方から一体のサーベルボアがその顔を覗かせていた。