第143話 片田舎のおっさん、声を荒げる
「ふえっ!? えっ!? よ、嫁!?」
「クルニ、気にしないでいいから。このクソおやじの妄言だから」
おやじ殿の発言で一気にヒートアップしてしまったクルニ。
そりゃまあ焦る気持ちはめちゃくちゃに分かるよ。自分の今の実力を知りたいがためにわざわざ田舎村くんだりまでやって来て、ほぼ初対面のわけわからんジジイにお前がおっさんの嫁か? なんて言われた日にはもう。突然の暴力が振るわれても全然おかしくないと思う。
幸いながらクルニはそこまで気性が好戦的ではなさそうで、その心配はなさそうだが。マジでこのおやじ、いきなり殴られても何も文句言えないぞ。それはもはや理不尽でも何でもなく、自然の帰結による正当な暴力である。
「なんだ、違うのか」
「違うよ! あんた弟子のことどう見てんだよ!」
あっけらかんとしたおやじ殿の反応に、俺も思わず声が荒ぶってしまう。
こいつ、全然悪くないもんって顔してやがる。ここが俺の実家でこれが実の父親でなければ、問答無用でぶっ飛ばしているところだった。いや実際に殴りかかったとしても簡単にあしらわれるかもしれないが。こういうのは気持ちの問題である。
「そうか……」
「いや、なんであんたが落ち込んでるんだ」
どう考えても感情の辻褄が合っていない気がする。
そりゃいい年こいた息子にいつまでも嫁が出来ないことを嘆く気持ちは分からんでもないよ。取った方法に大いに疑問はあれど、その心配自体を否定するつもりはない。
だが、どう考えても今この場でぶっちゃける内容ではないのだ。クルニへの心象の悪化や誤解もそうだが、ミュイも居る中で突然言う話ではない。
このジジイ、ついに耄碌しやがったか。実の父親相手なれど、そんな感情も少し出てきてしまう。
「……嫁?」
「ミュイも気にしなくていい。何も気にしなくていいからね」
単語としては知っていよう。しかし響きとしては聞き慣れない言葉に、ミュイが少ししかめっ面をしながら呟いた。
いや、ミュイへの教育というその一点のみで考えるのであれば、母の役割を担うであろう将来のお嫁さんは居るに越したことはないのだ。常に誰かが見張ってなければならない乳幼児でないとはいえ、男手一つで出来ることには限りもある。
だが同時に、それは難しいだろうなとも思うのだ。
仮に、もし仮に。俺に恋慕の情を抱き、結婚してもいいという女性が現れたとしよう。それ自体はまっこと喜ばしい。俺だってもし希望が叶うのであれば、美人の嫁さんでも居ればいいなあなんて思うことは大いにある。実現するかどうかは置いといて。
しかしそこには俺単品ではなく、ミュイという書類上の義理の娘が付いてくる。
付いてくるなんて物みたいな言い方はしたくないが、結婚する立場の女性から見ればそれは、もしやすれば異物足り得るだろう。
なんせ外面の事実だけを切り取って見れば、ミュイはどこの血筋かも皆目分からない、貧民街出の孤児である。魔法と言う才能があることを差し引いても、そんな他人の子の面倒を進んで見たいという女性が果たして現れるだろうか。
ミュイが学院を卒業して独り立ちすればまた事情は変わってくるものの、それには最低でも数年はかかる。その間に俺はどんどん年を取るし、こんなおっさんの貰い手もどんどんと減る。いや、今なら居るとかそういう話ではなくてね。
ただでさえゼロに近い可能性が、加速度的に更にゼロに近付いていくという話だ。
無論、その責任をミュイに転嫁したりはしない。そもそも、この年齢になるまで結婚どころか浮ついた話一つもない俺が主原因なのであって。彼女の後見人になった経緯に思うところは多少あれど、後悔は特にしていない。
「首都に行けば浮ついた話の一つくらい、持って帰ってくるやもと思ってたんだがなあ」
「ご期待に添えず悪うござんしたね。何度でも言うけど、俺をこういう風に教育したのはおやじだからな」
「だが俺にはフレンがおるぞ」
「そりゃそうだけどさ……」
フレン。
フレン・ガーデナント。俺のお袋である。つまり、おやじ殿の妻である。
おやじ殿と違って、お袋に関しては剣で成り上がっただとか、めちゃくちゃ強いだとか、そういう話は聞かない。もしかしたら俺にだけ隠している可能性は無きにしも非ずだが、道場の稽古に顔を出すこともないし、鍛錬しているところを見たこともない。
俺にとっては普段は優しく、けれど怒る時はきっちりキレる。そんな母ちゃんであった。
お袋から理不尽に怒られた記憶は、思い返してみてもあまり心当たりがない。息子贔屓かもしれないが、良き母親だったんだろうなと思う。
そんなお袋が、どうしておやじ殿と引っ付くことになったのか。その辺りの過去話はそう言えば聞いたことがないな。俺がずっと剣の稽古をしていたのもあるし、恋愛というものに当時からあまり興味がなかったのもある。
第一、自分の両親にそんなことを聞くのは、まあまあ恥ずかしい。
少なくとも俺から見て、夫婦仲というかそういうものは良好なように見えていた。そりゃあたまには喧嘩もするが、そういう時は大体おやじ殿がやらかした時である。で、おやじ殿が普段の様子からはあまりに想像出来ない、か細い声で謝るのだ。
食卓に並ぶ食事の量が、おやじ殿の分だけ露骨に少なかったこともある。あれも多分、喧嘩した影響だったんだろうなあ。
「ふふ、ああいや、失礼しました」
おやじ殿との中身のないやり取りをしつつ、そんなことを考えていたら後方から笑い声が漏れ出していた。その声の正体は、ヘンブリッツ君。
「ベリル殿も、父親には勝てず、といったところでしょうか」
「……まあ、お恥ずかしながらね」
正確に言えば両親に、だけどね。
おやじ殿には武力で勝てん。お袋にはなんかもう色々と勝てん。単純な腕っぷしならおやじ殿だが、それ以外のあらゆる面では俺の中でお袋優勢である。
「しかし……もしやして、ベリル殿がバルトレーンに来ることになった原因の一つがそれだったり……?」
「お、流石は副団長殿、察しがいいな。お前さんの権力で誰か良い子の一人や二人、見繕ってはくれんものかね」
「やめろおやじ。ヘンブリッツ君も困ってるだろう。俺も困る」
突然の察しの良さを見せつけたヘンブリッツ君と、すかさずそれに乗っていくおやじ殿。やめろやめろ。
権力で嫁候補を紹介させるとか貴族の政略結婚みたいなことを俺はしたいわけじゃないんだ。そんなことになるくらいなら俺は独身でいい。
と言うか俺は、この話題を今すぐにでも打ち切りたい。そりゃ言われること自体は覚悟していたが、こんな面々の前で暴露されるとまでは思わんかった。
「あう……ッス……ッス」
そしてクルニの精神はまだ世界の向こう岸から帰ってこなかった。
固まってしまう気持ちは非常によく分かるが、騎士としてどうなんだそれは、とも思う。戦場では一瞬の気の迷いや油断であっさり死んだりしちゃうんだぞ。そこら辺、同年代のフィッセルと比べてもまだまだ心の醸成が甘いような気がする。
いやまあ、今のこの動揺を戦場に置き換えるのも無茶な話だけどさ。咄嗟にそんなことを考え付いてしまうくらいには、俺も動揺してしまっているということか。
「まあ、悪かったよ。確かにいきなり出す話題でもないしな」
微塵も悪いと思っていない表情と口調で、おやじ殿は飄々と告げた。
しかしまあ、一応とはいえ謝罪はしたのである。そこをねちねちと突き続けるのも、なんだか格好が悪い。ミュイにそんな狭量なところを見せたくもないというちっぽげな意地もあった。
「ミュイ」
「……えっ、あ、ハイ」
今の声は俺ではない。
前を歩くおやじ殿が、その表情を俄かに緩ませて放った一言であった。
「改めて言う。なんもないところだが、どうか寛いでくれ。お前は俺の孫だ。その事実は変わりない」
剣を教えているおやじ殿からは、想像も付かないくらい優しい声。
おやじ殿には、ミュイのすべては伝えられていない。手紙の文面で語れることなんて限られている。
しかし、その言霊には覚悟があった。具体的に説明しろと言われても何と言えばいいのか分からないが、おやじ殿の覚悟。それが乗っていた。そしてそれは、決して悪い方向のものではなかった。
「……うっす」
ミュイは確かに頭は良くない。地頭は悪くないものの、教養と学が現時点では圧倒的に足りていない。
だが彼女は、人の感情の機微に敏い。おやじ殿がどんな気持ちでその言葉を告いだのか、正確にとは言わずともそれなりに察することが出来ていた。
そしてその感情の発露に気付く程度には聡明で、それを無下にあしらうことが出来ない程度には、彼女の根っこは善人だった。
「とりあえず、飯でも食うか。込み入った話はそれからだ」
「まあ、そうだね。俺たちも腹は減ってるし」
馬車での移動中、休憩は多少とったし飯も食った。だがそれはあくまで移動中の最低限なもので、更に時間も経っている。目の前に飯があれば結構がっついて食ってしまいそうなくらいには、腹も減っていた。
久々に味わうお袋の味だ。
別にお袋の手料理が抜群に美味いとか、手が込んでいるということはないと思う。何ならバルトレーンで食べる食事の方が、品質という点では上だろう。
けれども、やっぱりお袋の味はお袋の味なのだ。これにはどんな高級な料理にも代えがたい魅力がある。
ぐぅ、と。
その興奮を抑えられないといった様相で、俺の腹が唸り声を一つ、発していた。




