第129話 片田舎のおっさん、最奥を覗く
「ブ、ブラウン教頭……!?」
異様な光景だった。
魔術師学院の地下深くで老人が膝から崩れ落ち、擦れた声で笑い続けている。
「ひ、ひひひ、ひ……?」
俺とフィッセルの存在に気付いたのか、ブラウン教頭はその声を途切れさせ、ギョロリとこちらを覗き込んだ。
なんだ。一体何が起こっているんだ。
目付きや表情から見ても、彼は明らかに正気を失いかけていた。
俺がブラウン教頭と会ったのは、剣魔法科の初講義を終えた後の僅かなタイミングだけであったが、それでも年齢を感じさせない毅然とした印象を受けた。最初の印象と現状があまりにもかけ離れ過ぎている。
「教頭、先生……?」
その姿を目撃したフィッセルも言葉を失っている。
無理もない。学院の大ベテランと呼んでもいい人物がここまで痴態を晒していたら、そりゃ驚きもするしかける言葉もないだろう。
彼の手には短剣らしきものが握られているが、それもあちこちが欠けていて消耗が激しい様子だった。
恐らくこの短剣で、襲い来る狼の影を撃退していたのだろうか。そうじゃなければ、彼が今この場で生き残っている理由付けが出来ない。
どうして魔術師である教頭先生が短剣を持っているのかという疑問は湧いて出てくるが、まあこれくらいの大きさなら護身用として持っていても不思議ではないか。
部屋全体もかなり荒れている様子で、本やら備品やらが散らかりまくっていた。元は綺麗に整頓されていたのかもしれないけれど、もしかしたら教頭本人が荒らしまわったのかもしれない。
そんな予測を立ててしまう程度には、彼の姿には本来あるべきはずの知性というものが感じられなかった。
「ど、どうされたんですか……!?」
駆け寄って声を掛けてみるが、反応はあまりよくない。こちらの存在に気付いてはいるが話は通じなさそうな、そんな感じ。
とりあえず保護はしておいた方がいいよな。状況は未だ分からないままだが、彼も恐らく魔法が使えなくなっているはずだ。様子はおかしいものの、じゃあそれは見捨てていいということにはならないのである。
「ひひ、ひ……何も、何もなかったんじゃよ」
「……?」
話しかけてみても、返ってくる答えは要領を得ない。
なかったってどういうことだよ。まるで意味が分からない。
「儂は何も分からなんだ……ひひ……学院長の不老の秘密……究極の秘術……それがここにあると故もなく確信しておった……ひッひひ……! それが、それがどうだ。いざ開けてみればそんなものはどこにもなかった……ひひ、ひひ……!」
「……」
焦点の合っていない虚ろな瞳をそれでもなお輝かせ、彼はしわがれた声で紡いだ。
不老の秘密、究極の秘術。言葉だけを聞けば大層なものだ。そしてそれが言わんとしていることの予測は立つ。
学院長、すなわちルーシーの秘密についてだろう。
彼女は初めて会った時に、俺よりも年上だと言った。そして、俺が想像しているよりも更に年上だとも。
魔法で今の外見に変化していると言っていたのは確かアリューシアだったか。今まではそういうものもあるんだなあ、凄いなあ程度で流していたんだが、これがただの外見変化ではなく不老の術であるとするならば、話は少し変わってくる。
ルーシーは、死者蘇生の魔術など存在しないと過去に言い切った。
だが、自身には不老の魔術をかけているとしたら。蘇生と不老では内容こそ大きく異なるものの、生命の理に逆らっているという点では同じ。
ルーシーはブラウン教頭のことを小僧と言っていた。つまり彼女にとって彼は年下、あるいは子供に見えていると考えられる。
どう見ても俺のおやじ殿より年上に見えるブラウン教頭を指して、だ。
彼女に関する謎は深まるばかり。
しかし、今その事実を彼に問い詰めても事態は何も進展しないし好転もしない。今は他にやるべきことと確かめなきゃいけないことがある。ルーシーに関してのあれやそれやは後回しだ。
「ブラウン教頭。今この一帯で魔法が使えないことについて、何かご存じありませんか」
教頭先生と今回の事件の背景。直接の因果関係はまだ分からないが、それでも何かしら関わっている可能性は高い。素直に教えてくれるかどうかは置いといて、これは聞いておかなきゃいけない内容である。素直に吐露してくれるかはまた別の話だろうけれども。
「ああ……儂が相殺したんじゃ……ひひ、この地下には魔法封印が施してあってな……十数年……長い時間じゃった……長い時間をかけて、魔装具を作り出した……。ひひひ、きっと学院長が封じたに違いないと……時期も良かった……学院長が長期不在じゃからの……ひひ、ひ……!」
そんな俺の予想に反して、彼は虚ろな表情のまま全てを語ってくれた。
「そう、ですか……」
つまり、今回の一連の騒動においての主犯は彼ということか。
完全に外部の人間が、わざわざ魔術師学院でこんな事件を起こすことはないだろうという朧げな予感はあったものの、実際ブラウン教頭ほどの立場のある人物がこんなことをしでかすとは思っていなかった。
「フィッセルは、地下の封印については?」
「知らない。ここの扉が開かないのは知ってたけど……」
ブラウン教頭の言う通りだとすると、この地下には誰も立ち入れないよう、ずっと封印が施されていた。それを彼が長年かけて封印を解除する魔装具を開発した、ということだろうか。
魔法についてはてんで無知なもんだから、それがどれくらい大変なことなのかは全く分からない。かけたであろう年月の長さから、簡単なものではないというくらいの想像は付くけれど。
「では、現れた影の怪物は」
「ひひ……ッ知らんよ。封印を解いた途端、ここから生まれ出おった……儂は何も知らん……ひひひ……!」
どうやら突然現れ始めた影は、魔術師学院の地下から生まれてきたもので間違いないらしい。
とんでもないものが封じられていたんだなという感想と、じゃあ何故こんなところにこんな封印がされていたのかという二つの思いが同時に去来する。
恐らくだが、狼型の影は最初からこの地下に封印されていたわけではないだろう。
というのも、こういうのもおかしな話かもしれないが、わざわざ魔術師学院の地下に閉じ込められている割には小物なのだ。いきなり出くわしたら面食らうかもしれないが、撃破の難易度としては決して高くない。多少武に心得のある者なら比較的簡単に倒せる。
その影を生み出している親玉がここに封印されている、と考えた方がまだ辻褄は合う。
じゃあどうしてそんなもんがここに居るんだという別の疑問は生まれ出てくるが。
「最後に、その魔装具の場所はどこですか?」
「ああ……一階の教室に設置しておるよ……封印がどうやっても解けんでなぁ、魔力そのものを分解するためにずっと練っておった……ひひひ……!」
彼の言葉が真実であるという前提にはなるが、これで事態の全容はほぼ全て明るみに出たな。
魔法が使えなくなった原因は、ブラウン教頭が用意した魔装具。多分魔力を分散させるだとかそういう感じのあれだろう。詳しくは分からんけれども。
で、狼型の影が湧いて出た原因はこの魔術師学院地下にある。親玉がどんなやつかはまだ分からないものの、とりあえずそいつを叩けば事態は収束しそうに思えた。
教頭の口ぶりから察するに、きっと彼はルーシーがこの封印を施したと思っていたのだろう。それで、ルーシーをルーシーたらしめている不老の秘術が、この地下に匿われていると睨んだ。
まあ、彼女の姿は普通には説明しがたい。何らかの魔法的要素が絡んでいることはほぼ確実だろうけれど、それにしたってもうちょっとなんか他にやりようはあったんじゃないのかとも思う。
けれど、この地下に関してルーシーがどれだけ関わっているかは未知数だ。全部教頭の勝手な思い込みって線もまだ可能性としては残り得る。
無関係ってことは流石になさそうだが、もしかしたらルーシー自身も誰かからこれを引き継いだりしたのかもしれないし。
「儂はもう終わりじゃ……ひひ、すべては無駄だったんじゃ……ひ、ひひ……!」
ブラウン教頭は俺の質問に答えてはくれたものの、正気とは言い難い。自身がその存在を睨んでいた不老の秘術がここにはないと知って、壊れてしまったのかもしれない。
だが、彼のしたことは許されることではないだろうが、心情として理解出来なくはなかった。
俺ももう四十五だ。ここから更に身体能力が伸びることは考えづらく、後は下降線を辿るのみである。
これから数年、数十年と経っていけば俺も老いるし衰える。仮に長生き出来たとしても、弟子たちより遥かに早く、その生の終焉を迎えるだろう。
いざ自分がそうなった時に、すぐ傍に老いも衰えも跳ね返した人物が居たのなら。
俺はその可能性に縋ってしまうかもしれない。未来の自分が絶対にそうはならないという確信を、俺は得ることが出来なかった。
「先生」
「……ああ、分かってる」
しかして、感傷に浸るのはまだ早い。俺はまだ現役で、頭も働くし身体も動く。
一応俺自身としてはそれなりに善良なつもりでこれまで生きてきたから、首を突っ込んだ問題に対しては出来る範囲で解決に導きたい。
「フィッセルは教頭先生を連れて退避を。その後に教室の魔装具を停止させるか、難しければ破壊してほしい」
「……分かった」
とりあえず一階のどこかにある魔装具をどうにか出来れば、魔法が使えないという問題は解決される。この地下に封印されている何かというのも気にはなるが、優先順位としては魔装具が先だろう。
なので、フィッセルには教頭先生の保護と、魔装具の対処に当たってもらう。俺が行っても別にいいんだけど、魔装具のことなんてサッパリ分からないし、ここは専門家に任せておく方が確実だ。
その間に俺は、地下の奥にいらっしゃるであろう親玉さんに挨拶してみたいと思う。まあぱっと見て無理そうなら退けばいいし、魔法が使えるようになったら魔術師学院の先生方も動けるようになるはず。最悪時間稼ぎが出来ればそれでいい。
「先生、気を付けて」
「ああ、フィッセルもね」
フィッセルが片方で剣を構え、片方にブラウン教頭の肩を支えて地下を出る。
さて、残るはこの奥に居る親玉か。果たしてどんなやつなのやら。
改めて周囲を見渡してみると、どうやらここはちょっとした個室になっているようだった。備え付けのテーブルと椅子、書物が収められていたであろう本棚や、用途がまったく分からない実験器具のようなものまで並んでいる。
この部屋を管理していた者は、間違いなくこの奥に居る存在に気付いていた。そして、それをどうにかするためにこの施設を作ったんじゃないだろうか。そんな突飛な想像がされるくらいには、この景色は少し異様であった。
その管理者は果たしてルーシーなのか、それ以外の誰かなのか。その答えは今は分かり得ないし、考えても仕方がないことなのかもしれないが。
「……あっちか」
部屋に入ってきた場所と対角、部屋の奥。そこにはもう一枚の扉が鎮座しており、その扉もまた半開きであった。
この地下に入るための扉から全部そうだったが、どれも破壊されたり損傷した跡がない。無理にこじ開けたのではなく、何かの拍子で開いたか、誰かが人為的に開けたのだということが分かる。
それがブラウン教頭が手ずから開けたものなのか、魔装具の影響で解けた封印のせいなのかは分からないが。
「……うおっと!」
奥の扉を覗こうとした矢先。空気の歪みを感じて一歩飛び退く。
こういう類の予感ってのは割と当たるもんで、一瞬遅れて奥の扉からあの影が飛び出してきた。
「危ない危ない……」
飛びかかってきたそれを、咄嗟の反応で斬り伏せる。まったく、この年になって訳の分からない存在の退治とはね。世の中何がどうなるか分かったもんじゃないや。
やっぱりこの奥に、影を生み出している存在が居るのは間違いない。
そして影は、無秩序かつ無制限に生まれるわけでもなさそうだ。最初に騒ぎを聞きつけて学舎に飛び込みこの地下に至るまで、影が襲ってくる間隔は考えてみれば結構一定のペースだった。
「さて、と」
気合を入れ直して、扉を開いて奥へと進む。
半開きになっていた扉自体は、そう重いものでもなかった。流石に壊せそうとまでは思わないが、俺程度でもグッと力を入れればさしたる苦労もなく開いていく。
やはりここは物理的というよりは、魔法的な何かで閉ざされていたのだろう。
「……広いな」
扉の先には、地下とは思えないほどの空間が広がっていた。
ただ、誰かが建てたというより、元々この地下にこういう空間があったと言われた方が納得しそうな感覚を持つ。扉を除いた周囲の壁は人工的なものではなく、自然の岩盤に近いような雰囲気であった。
「……」
視線を投げた先。この部屋の最奥から、ひと際強い気配を感じる。
間違いない。ここに、影の親玉が居る。
「……こいつは……!」
十歩ほど歩んだ先。
そこに居たのは、幾重にも張り巡らされた鎖に繋がれた、虚ろな巨狼であった。




