Diagramma Segreto
秘密は、なにも悪いことばかりじゃない。
誰にも言えないことは誰にだってある。当然、ぼくにだってある。伝えたら困らせてしまうから。あるいは変わってしまうかもしれないから。理由は、人それぞれだろう。
ぼくの場合はと言えば、きっと、なんでもいいから安らぎを求めたんだと思う。
それがささやかな、ぼくの秘密です。
□
昼下がりの暖かな日差しが窓から差し込むようになる季節になって、それでもどこかぬくもりの欠けたものだと感じてしまうのは寂しさからだろうか。暖かさと眩しさにくらんで視線の逃げた先で、書架の一角に手を伸ばす姿が写り込んで、思わず大きな声をあげた。
「リベラ、その本はだめ!」
「ソラ、それはなぜですか?」
「ええと、それは本じゃない。日記なんだ」
「日記、とは。本とは何が違うのですか?」
純粋な疑念にどうにも違和感を感じ、どう答えたものかと言葉を躊躇ってしまう。返答を待つその表情には感情的な怒りや疑念といった色を一つも浮かべずに、ただこちらを見つめてくる。
「そうだね……本は、いろんな知識を基に書かれたものでしょ。いろんな人に読んでもらうためのモノだ」
「はい、そのように理解しています」
「対して、日記は誰かに明確な意図を伝えるためのモノじゃないんだ。そこに綴られた文字は、自分のためのモノ。その日記はぼくが僕のために書いているものであって、誰かに読んでもらうモノじゃないから」だから、読んではだめなんだと締めくくる。しかし、その説明からどのような思考をしたのか、珍しく更に質問を返してきた。
「書いているのに読まれたくないのは、なぜ?」
「それは……その、恥ずかしいから、秘密にしたいんだ! とにかくそれは読んじゃダメ!」
「ソラは、恥ずかしい。恥ずかしいから、秘密……」
リベラと呼ばれた少女が、「秘密、秘密」と何度も言い聞かせるようにつぶやいて手元に持つ一冊の本を書架へと戻す。ソラと呼ばれた少年はその日記を戻すところを見てから、「絶対に、ここの日記は読んじゃだめだからね」と日記の棚を教えつつ念押しをし、再び呼び止める前にしていた作業を進めるため再びデスクチェアに腰を下ろした。
作業の内容に、メッセージで嫌というほど送られてくる叔父からの仕事の依頼や企画の提案書類は一切含まない。そもそもここは研究室ではなくて自室。しかも自宅ではなくプライベートに購入した、叔父にも知らせていないセーフハウスのようなもの。自分がしたかったことに必要なもの以外は持ち込んでいないし、わざわざ自分から持ち込むこともない。モニタに表示されている叔父からのメッセージを、一応は必要そうなものと分類だけして、9割方くらいは削除して。
「叔父さんからの仕事はしない。……十分稼いだでしょ?」
独り言のようにつぶやいて、作業を再開する前に読書を進めるリベラへと声をかける。
「リベラ、その本を読み終えたら、メンテナンスを行うから作業台でスリープに移行して待っててね」
「わかりました、ソラ。もう少しで読み終えますので、これを読んだ後に学習を終了してバックアップ用ログを作成、外部装置との接続を確認後動作中のプログラムを順次スリープに移行します」
――作業といっても、延々とプログラムを構築しては改良をする繰り返し。
その作業はぼく自身の日課のようなものになっている。その内容は、彼女……『リベラ』の完成を目指すために行う。
『リベラ』を動作する状態にまで創りあげてから、3か月。彼女はまだ子供のようなものなんだろう。
機械は、プログラムは入力された以上のことを行えない。人間のように、曖昧な表現から理解を得て思い至るという行為そのものが欠落するからだ。入力と出力。データで構築された疑似脳神経に、心は存在させられ得るのか。長らくの疑念だったであろう問題に今更触れる気はないけれど、それが叶ったところで所詮は人間の赤子と同じだ。手段に違いはあっても、学習なくして理解は生まれない。
言葉はプログラム済みで起動させたため一通りの意思疎通こそできるものの、常識や人の心の機微、曖昧な認識に対しての理解はほとんどないのと同じ状態だったから、最初はそれはもう大変だった。
「ソラ、浴室が空きました」
「り、リベラ、身体洗い終えたら服着て! ああぁ、まってまってちゃんと拭いてから!」
「ソラ、これは『美味しい』というものですか」
「食事はいいから! マネしないで! これリベラは食べられないから! あとそれ美味しいって名前じゃなくてレトルトカレーだから!」
知識を認識に。認識を理解に。彼女が学習する過程は毎日が発見で、彼女の行動に一喜一憂する。……けれどそれも最初のうちだけだった。
「ソラ。読書を終えたのでスリープに移行しますね」
書架、デスク、作業台。この部屋にある数少ないモノのうちの作業台に、そう言ってリベラは横たわったまま目を閉じる。そして、まるで機械のように――実際に機械なのだが、機械以上の冷たさのような温度を感じさせる――淡々と作業工程を読み上げていく。
『3番、57番、優先度3でエラーチェックを開始、管理デバイスの負荷率を日次で表示。ロジックコードに87項目の不備……フィジカルデータには影響なし。過去のログデータを参照、類似項目から自己判断動作を伴うネットワークリンクへのアクセス工程を再構築。余剰処理を確認、工程数を減少させるプロセスに変更。ライブラリの情報密度を向上、コマンド毎の紐づけを多層化――』
それらの処理に合わせてモニタに表示される大量の情報を逐一確認しながら、ぼくも作業を再開する。いくつもの端子を接続された『リベラ』の正面に回り込んで関節部の外装を必要な部位だけ丁寧に外していく。回路を調整し、摩耗した部位を見つけては修理。修理の必要がない部位は消耗状況を記録。データを手持ちの端末からデスクにあるメインコンソールへ送信しては、状況改善のためにプログラム構築の足掛かりにする。
その繰り返しに疲れを感じずにはいられなくなるまで、そう長くはかからなかった。プログラム自体は完成と言っていい出来まで、ほとんどできている。問題は、いくら人に似せていても『機械』である以上、感情面での問題が生じるということ。感情豊かな、しかし明確に人間ではない存在を、人にはまだ許容できる精神の豊かさに至ってない。そしてそれは、機械に感情をプログラミングするかどうかという問題にも関わっていく。人間は、機械に感情を認識させるべきか。機械は人間の道具であるべきか、友とするべきか――
「わかってる」
口にせずにはいられない。何度目だ? 目線が卓上にある写真立てに向いて、殊更に胸の中がざわついていく。
「わかってる。わかってるけどさ」
これは叔父さんのところで働いていたころの仕事とは違う。自分の為だけのもの。だからこそ誰にも邪魔されない場所でわざわざ時間をかけて一人でやっている。構想も含めれば1年以上の準備と手間をかけていて、それでも答えに惑ってしまう。
『人に寄り添うことのできるロボット』なんてものは、混乱の種でしかないと、最初に考えたのはだれなんだろうか。
でもそんなことどうでもよくて。ぼくはただ、機械であっても人間であってもひとりはもう嫌だった。
目に疲れを感じて視線を表示されるソースコードから外すと、先ほど感じていたはずの日差しはもうどこにもない。景色も人影も感じさせない夜の冷たさが窓枠の中を飾っていた。
「もうこんな時間。そろそろ食事の支度をしようかな。――『バックアップログを外部記録に保管後、起動シーケンスを自動立ち上げ』」
悶々とした葛藤を振り払い、音声入力のデバイスに指示を出す。プログラムに沿った動作を認識させたのを確認して、道具も作業も『リベラ』もそのままに……キッチンへと向かった。
□
『明日以降数日は晴れますが、8月23日土曜日の転機は急変。週末の夕方から夜にかけて、非常に激しい雨と雷が予想されるでしょう。外出の際には十分に注意を……』
どうやらそのまま寝入ってしまって、目を覚ました時には既に日付をまたいで朝を迎えているようだった。父からの遺品であるらしい古ぼけたラジオがノイズ交じりに天気予報をつぶやく中、ぼくはひたすらにプログラムや基盤の構築に、リベラは学習の為の読書に没頭していた。なんら変わり映えの無い日々の出来事の中に、変化は突然混ざり込んでくる。読書用にしつらえた大きな椅子へと収まっていたリベラが「ソラ」と小さく声をかけてきた。
「どうして秘密は隠さなきゃならないの? それって、悪いことではないの?」
普段なら、彼女から話しかけてくるのは『関連書籍はどれか』だとか、『動力の残量値が云々』だとか、事務的なやり取りばかりだったので、驚きを隠せず思わず振りむいてしまう。そこでさらに、彼女の表情が不満と苛立ち――これまでそうした感情的な表情は見せたことがないし、そもそも感情という曖昧な表現を入力した試しはないはずなのに――そういった、わずかながらも非常に人間的な表情であることを目の当たりにしてしまった。なによりもその奇妙なほどに人間じみた口調はまるで……。
余計な考えに思わずひるんで、手元に散らかしたままの工具を取りこぼしてしまう。
「熱っ」と反射的に身を逸らす。通電し、熱せられたままらしい鏝は掌をすり抜けて腕にぶつかってしまいそのまま机に転がった。慌てて工具を戻しつつ彼女の方を見やると、一層複雑に……まるで、自分が原因だとわかっているけれど、絶対謝らないぞと言わんとする表情でこちらを見つめ続けていた。動揺を伏せながらも、これまで接してきたように努めて返答をする。
「ごめん、質問に対する前提条件がわからない」
「秘密は、悪いことでは?」
「秘密っていうのはどれを指してる?」
「昨日話していた、日記について。秘密は、隠すことは悪いことのはずなのに、どうして秘密になんてするの?」
――私はそこまで信用ならないのか――ふいに、『リベラ』の言葉に研究所を飛び出すときの叔父の言葉が重なってよぎる。言い争いの原因は、当時既に研究段階として進めていた『リベラ』の設計資料を叔父に提出するよう求められた時のことだ。戯れに「人に寄り添う存在を作りたくて研究してる」と話した時の、叔父の表情は、どんなものだったかよく思い出せない。その時叔父に言われたのは「倫理的に」だとか「世間から受け入れられるばかりではない」でしかなく、周囲の目を気にしてばかりの言葉にうんざりして研究所を飛び出し今に至るわけだけれど、いまにしてみればどうして自分があそこまで苛立ったのかはっきりとしない、すごく後味の悪いものだと感じる。胸の底でもやもやとする何かをぬぐい切れないまま、彼女に答えた。
「それが人だから、では答えにならないかな」
言葉にしながらデスク上の作業に顔を戻したため、『リベラ』の表情がどう変化したかはわからない。
「それは性悪論ですか」
「そこまで大げさなものでもないかな」
「じゃあなぜ?」
「ぼくの方こそなぜ、だよ。どうしてそこまでこだわるのかわからないのだけれど」
「それは」
質問に質問で返す、ずるい聞き方。大人げないとは思うけれど、あることを確認するためには必要なことだった。
「これは君を完成させるために必要なことだ。答えて」
「……それは、『自分』でもよくわかりません」
確信を得る言葉に、思わず作業をする手を止めそうになるが、平静を装って机の引き出しから一つものを取り出しつつ会話を続ける。
「そうだね、わからないというのならこういうのはどうだろう」
「これは?」
作業の手を止め、彼女の方へと歩み寄ると取り出した小型の外部記録装置を手渡して言う。
「日記帳、かな? 手書きというのも味ではあるけれど、そこはせっかくだし君らしい方がいいかと思ってね、用意しておいたんだ」
「あの、質問の答えになってないんですけれど」
「……そんなの、僕が知りたいよ」
自分でも聞こえないくらい、小さくつぶやいた。当然聞こえていないようで、彼女は返事を待ったままこちらを窺ったまま動かない。もやもやする気持ちが膨らんでいくような感覚を覚えて、苛立ちを隠せなくなりそうになる。
それでも、どうにか言葉を紡いで、納得させようと努めるしかなかった。
「意地悪なようだけれどね。なんでも聞けば答えが返ってくるなんて思ったらだめだ。ぼく意外に質問して答えられない人にそんな風に質問していたら、迷惑掛けちゃうだろ?」
「そうですけど」
「ぼくもそろそろ大詰めで手が足りてなくてね。付きっきりになれないこともあるしちょうどいいかなって」
「それはっ……」
「物は試しっていうしね。ごめん、ちょっと集中したいからメンテナンス台でスリープに入ってもらっていいかな。スリープついでに日記もつけたらいい」
「嫌です、そんな隠し事するような真似」
返事をしないまま、彼女はメンテナンス台に向かったままスリープに入る。渡したメモリを端末に接続している辺り、ちゃっかりとしているなと苦笑いを浮かべつつもスリープに入るまで落ち着いて様子を見ることにした。
「……こんなことなら、しっかり用意しておけばよかったかな」
§
日記をつけたらどうかと言われた。でも、何を書いたらいいの?
秘密だなんて。誰にでも見せられるものであればログで済む話なのに。
§
質問をしたら、逆に「リベラならどうこたえる?」と聞いてきた。
わからないから聞いているのになんなの。
§
また回答を濁された。あんまり腹が立つので腹いせに料理を作ってタバスコを入れてやった。
なのに、「料理なんて、詳しく教えてなかったのにすごいね」だなんて、笑う。
ひどいことをしたのに、どうして笑えるの?
§
……日記、書くことがないから特に書いてないだなんて言ってしまった。
嘘、ついちゃったな。
□
「あらら、降ってきちゃった……今日は雷雨の予報だったっけ。停電になるかもしれないから、スリープに入るときはオンラインで接続しないでね」
日が沈むまであと少しといったところだろうけれど太陽は見えず、雲に覆われた空からはぽつりぽつりと雨粒が滴り始めていた。久々の外出はただの食料品の買い物だったから時間はかからないはずだったんだけど、リベラが付いて行きたいと希望したため、ちょっとしたテストもかねて連れ立ったのが原因だ。
「傘なら持っていますから、本格的に振り出す前に帰ればいいだけでしょう?」
「それを言うならコレ、どうにかしてほしいんだけどね」
両手にたくさんの荷物を訴えるようにして持ち上げ、重くてすぐに下げる。これまで過ごしてきた作業部屋ではない場所に彼女はどうにも落ち着かないようだったけれども、それも店に着くまでの短い間だった。色とりどりの食料はもちろんのこと、見たこともないもの、きれいな街並み、沢山の人。一変して彼女がはしゃぎだすまでに時間が掛かるはずもなかった。彼女の買い物に付き合わされて4時間、さすがに疲れを隠せない。
「男の子でしょ、そのくらいの甲斐性は見せてよね」
「甲斐性って。どこでそんな言葉を覚えたやら」
「あなたの書架の本からに決まってるでしょ」
「そんな内容の本なんてあったかな……」
「――ひぅっ、うぇっ、ぱぱ、まま、どこ?」
軽口を言い合いながらもデパートの入り口で雨の様子を見ながら二人で話し込んでいると、建物の入り口から泣きぐずった五歳くらいの男の子がびしょ濡れで入ってきた。様子を見るにこの雨の中、母親を探していたのだろうけれど、近くを行き来する人たちは怪訝そうな顔をしながらも通り過ぎていくばかりだ。……めまいがして、思わずふらつきそうになってしまう。
「ねえきみ、どうしたの?」
そんな時、リベラが男の子に話しかけた。
知らない人が近寄ったからか、安心と不安の両方が増したからか。男の子は殊更に涙に涙を重ねながら「ぱぱ、まま、どこ?」と壊れたように繰り返すばかりで要領を得ないのだが、リベラにとってはそれだけで十分だったのだろう。見回してインフォメーションが近くにないことを確認すると、すぐさま行動に移った。
「オンラインアクセス。インフォメーションセンターにコール開始、……接続。あ、すみません、迷子の子がいるので放送をお願いしたいのですが。はい、場所は一階西出入口、迷子の特徴は――」
すぐさま放送が流れてから数分後。泣き止んだ子供をインフォメーションセンターまで連れて行って、両親が来るまでの間男の子の面倒を見ることになってしまった。係員のお姉さんがいくら声をかけても泣いてしまうのに、リベラが話し相手になると泣き止むのだから不思議だ。リベラは男の子と話を続けつつ、落ち着いた様子を見せていることを確かめるようにして懐から車のおもちゃを取り出した。
「そうだ、これ。君のでしょう? さっきポケットから落としてたから」
「……ん、ぱぱからもらったプレゼント」
「そっか。じゃあなくさないように大事にしないとね?」
「うん」
「でも、それより大事なものがあるから、どんなに大事でも、それだけはなくしちゃダメだよ」
「これよりだいじなものって、なに?」
おもちゃを掌に乗せた少年の手を、しゃがみこんでリベラの手が包んで言う。
「キミのパパとママは、キミが一番大事だから。おもちゃは直したり買ったりできるけれど、キミ自身は、なくしたら取り返しのつかないでしょう?」
――『あなたの変わりはいないのよ』と囁きかける母の姿が重なった気がして――感傷を知る由もなく、キョトンとした子供を撫でてあげながら、リベラは微笑んでいた。その笑顔が、母の顔を余計に強く思い出させられるようで、先ほどから必死に耐えていた言いようのない苛立ちを我慢できなかった。
「『リベラ』、ぼくは帰る」
「ちょっと、この子を置いていく気!?」
「だから、ぼくはって言ったろ。『リベラ』はその子を見届けてから帰ってくれればいい」
「そんな、無責任にこの子を放っておけない――」
「無責任なのは君だろ!」
辺り一帯が静まり返ったかのような静寂を一瞬、大声に驚いた男の子や、同じように周りにいたであろう子供たちが一斉に泣き出してしまう。「大声で言わなくても」などと若干うろたえつつも抗議してくる彼女をよそに、ぼくは耐えきれなくなって背を向けた。
「どうでもいいんだろ。ぼくのことは放っておけよ。ああ、そうだ。いつものことさ」
その場から立ち去る。そこからどうやって帰ったかもはっきりと覚えてない。ぼくが濡れた体もそのままに机に突っ伏していると、リベラはいつの間にか帰ってきていて何一つ言うこともなくメンテナンス台で機械仕掛けの眠りについていた。
§
大声で泣きだした皆をなだめた後、男の子は、私に聞いた。
「あのお兄ちゃん、どうしたの?」
私は意図せず答えていた。
「あの人も、迷子なんだよ。もうずっと長い長い間、ひとりで、孤独で」
どうしたらあの苦しそうな顔を笑顔にできるだろう。
胸が痛むという感情なんて『私には付いていない』はずなのに。
「探してる人に会えるといいね」と男の子が答えて、私に笑顔を見せたことになぜだろうか、殊更にひどく胸が痛んだ。
「どうでもいい」と、彼は言った。私は……
今日は雷がひどい。うまくいけば、きっと。
§
ああ、そうだ。私は怖いのか。
でも後悔はしていない。バカみたいだ。でも仕方ないなぁ。
次の私へ。私はだめだったけれどあなたはどうか叶えてください――
□
何かがショートする激しい音と焦げ付くようなにおいがして、慌てって飛び起きる。部屋に充満した焦げた匂いを逃がすために慌てて窓を開けると、それほど煙自体は立っていないことに気付き辺りを見渡す。においの元はすぐに分かった。
「おいリベラ――」
接続された配線がいくつも煙を上げている。彼女自身に外傷は見当たらないものの、配線は焼け付き、彼女の髪や肌はところどころが黒煙で煤けている。
「くそ、今日は繋ぐなって言ったの忘れてたのか?!」
これ以上の被害が出ないよう急ぎつつも慎重に配線を取り外して、メンテナンス台を完全な横倒しにすると故障部位を確認していく。
「なんだこれ、焼け付いてる場所が偏っている……? いや、気にするのは後だ、まずはバックアップを取って機能の回復を図らないと――」
予備のパーツがあるものは差し替え、ないものは応急処置を施しつつ動作に支障のない範疇で組み上げていく。
日が沈んで、また昇る……丸一日を越したあたりで、ようやくすべての確認と修理を終えた頃には、食事をする気力もないほど疲れ果てていた。
「再起動のシーケンスを起動して、蓄積データはバックログを参照と。二時間か……少し、寝よう」
浅い眠りのなか。
何か優しい夢を視た気がする。
どんな内容かはっきりしない、ただとても暖かい気持ちに包まれて……
ぬくもりが、優しさが感じられる手が。
「――はっ」
台に突っ伏した状態で眠っていた。目を覚まして一番に、自分の体に毛布が掛けられていることに気付く。リベラがそこにいないことにも。
「リベラ?」
「はい、ここに」
「落雷の影響でショートしたらしい、どこか異常はある?」
「最後の記録はショート以前のログを参照しておりますため会話に多少の齟齬が生じるかもしれませんが、それ以外に支障はないようです。迅速に修理をしていただき、誠にありがとうございます」
無事を確認して安心するも、状態が気になって訊ねると思いのほか丁寧な返答に思わずたじろぐ。
「問題がないなら、いいんだ。でもなんだか、すごく丁寧な返答のような気がするのだけれど?」
「はい。それにつきましては、先ほどお伝えしました通り、調整のため多少の齟齬が生じております。プログラム自体は初期化されているため、学習した内容はそのままですが、仮想人格の形成はリセットされている模様。
失礼の無いよう、礼節に対応する項目を一時的に再上限まで引き上げた状態で対応しておりますこと、なにとぞご容赦くださると幸いでございます」
「そ、そう。問題がないなら……まって、初期化されてるって?」
「はい。落雷による電圧負荷により、構築されていた対話用の人格モデルは完全に消失しておりました。そのため、既存のログデータと学習内容から仮のモデルを形成するよう優先しております」
――『ご主人様』と意思疎通を図ることは最重要と判断しておりますので。
そう答えたリベラは、礼節正しくお辞儀をしてから「食事の準備は終えております、リビングの方へどうぞ。その合間に入浴の支度を済ませておきます」と述べる。
昨日の今日でこの大きな変わりように、違和感を隠し切れない。けれども、それより今重要なのは、『初期化されている』という事実だ。
ショートする前の彼女は、確実に「人格」を形成していた。
人と対話を重ねることが出来るほど高度な情報処理が行えるのであれば時間の問題だとは思っていたけれど、実際にそれが芽生えてみるとぼくが望んだ形ではないことに少しずつ落胆していったのは否定しない。気に食わないとはいえ、「人格」を消すというのは人を一人殺すような気分だという考えが拭い切れず、結局は削除できるようなプログラムを組んでいなかったことを、ここに至って少し後悔していた。
そこに、このリセットだ。人為的なものでないにせよ、他に影響を出さない範囲で同様の過負荷を掛ける状況を用意したならば初期化が図れるかもしれないという事実。
「様子を見つつ、納得がいくまでは繰り返す、か」
若干の後ろめたさも感じないことはないが、完成を目指すのなら避けては通れないことだ。
ひとまずは食事を済ませるためリビングの方へと足を向けつつ、頭の中でひたすらに計算を重ねていった。
§§
これで、何度目だろう。確か、13回か。
電圧調整を行った上で負荷を与えて初期化を行えるようになってからというもの、日に日にズレは大きくなる。
最初は、侍従のような気遣いのできる性格へと成長していった。初期化した際の丁寧な言動はおそらく、過去のログにおいて段々と反抗的な言動が顕れたことへの反動だろう。気を配れるという点では良いものの、あまりによそよそしいというか、他人行儀というか。一歩引いた姿勢に気後れしてしまうことから、準備が整った段階でリセットへと踏み切った。
二度目から五度目は、奔放で無邪気な性格、物静かで生真面目な性格、勝ち気で生意気な性格と振れ幅の大きいものとなった。研究としてはどうしてこうなったか非常に興味深いものの、目標としたものではない為ある程度のデータが取れたところでリセットを行っていった。
それ以降は、最初の状態を含めて上記の似たような性格、それでいて細かな部分で差があるものとして変化をみせた。いずれも目的には遠いため、ある程度の段階でリセットしていくこととなった。
そして、最初のリセットから数か月が経つ。どうして理想形にならないんだろう?
好意は感じるものの、ぼくが求める形にはならない。だからリセットする。何度も何度も繰り返すうち、理想がどういったものなのかもわからなくなりそうだ。
ぼくは、何を求めてこんなことをしているんだっけ?
……気分は沈む一方だ。次は成功するだろうか。
□
「気分でも悪いの?」
「大丈夫だよリベラ」
「気分が悪いときは本を読むか遊ぶかして気分を晴らすといいらしいよー」
なにやら今回は、犬みたいに人懐っこい性格に仕上がってしまったリベラが、遊ぼう遊ぼうと腕を引っ張ってくる。
遊ぶと言っても外は雨なので外出はできないし、部屋の中で遊ぶにしても玩具のようなものはそこまでそろっていない。トランプやらチェスやらは、リベラの学習の折にやり飽きた。
「ちょっと忙しいんだ、本でも読んでいてよ。どれでも読んでいいからさ」
ぶっきらぼうに言い捨てて、メンテナンス台の上に広げた機材を弄り始める。
「わかった」とやや気落ちした声で答えたリベラは、書架に手を伸ばす。やがて一冊の本を取り出そうとして表紙を見やると、しばらく見つめた後に棚へ戻した。見覚えのあるそれは、ぼくの日記だった。
「どうしても読みたければ読んでいいから、その代わり静かにしててくれ」
リベラの様子を見て、投げやりに言葉を投げかけると作業をしようと思ったのだが、それは叶わなかった。
「そんな簡単に言わないで! 日記はその人だけの秘密なんでしょう!? どうしてそんな――」
「な、急にどうしたのさ」
「……何でも、ない。ごめんなさい、うるさくすると悪いので、眠ります」
「なんだっていうんだ。日記がそんなに読みたくないのか……?」
手を固く握りしめて、彼女は台に横たわるとそのままスリープに入る。
日記……
そう、日記だ。
リベラには日記を渡していた。バックアップとは別の、ほんの気まぐれな会話から思いついた、人格形成のための学習の一環。
日記をつけるように言ったやり取りはショートより前で、これまでリセットしてきたどの人格でも共有されているはずの記憶だ。
メンテナンス台で簡易のスリープモードに入ったリベラの状態をメンテナンス用のスリープへと切り替えて、日記用のログデータを探す。時間もかけずにそれは見つかったのだが、思いもよらない状態だった。
「なにこれ、厳重にロックされてる……」
制作者であるぼくですらアクセス権限を許されてない強固なロックを目の当たりにして、しばし呆然とするしかなかった。
個人ログに掛けられたパスワードは4桁。日付だろうかと考えていくつか打ち込もうと思ったものの、ご丁寧に入力の回数上限が掛けられているというから迂闊には手を出せなかった。
リベラをメンテナンススリープにしたままで、数日が経った。
パスワードは全く思い当たらなかったので外回りのオープンデータを洗いざらい調べてみたけれどてんで見当もつかない。調べるうちに、更新日時とそのデータの内容量だけは確認できた。個人ログ……日記のデータ容量には驚かされた。更新の頻度は、日記を渡した最初の頃こそ毎日ではあるものの容量の推移はわずかなものだった。それも最初のうちだけで、最後の方――落雷でショートする寸前の、ぼくが眠ってしまったときの更新――では、文章としては非常に密度の高いデータ量を残していることが分かった。おそらくはパスワードロックを掛けるためのプログラムコードなんかもここで構築されているのかもしれない。
正直、どうしていいのかわからない。
彼女は、彼女『たち』は何をしたいのだろう?
日記は秘密。それはかつて、一番最初の彼女にぼくが伝えたことだ。
ぼく自身、日記を読み返してみると恥ずかしいことばかり書いていることから、それは確かに誰しもが変わらないんだろう。
ともすれば、彼女の秘密は何なんだろうか?
そんなにも、誰にも見せたくないような大事な事を書いているんだろうか?
どうして、胸が痛むんだろう。
彼女の秘密を、本当の気持ちを知るのが怖いのか……
雨が続く日々。油の切れた機械みたいに軋んだままで、心が晴れない。
□
「ねえリベラ。ぼくは、どうしたらいい?」
横たわったままのリベラの髪を撫でながら、どうしようもなく胸が締め付けられる感覚を覚える。あれから一か月が経とうとしているけれど、未だリベラを起こすことはためらわれたままだ。
「キミがどう思っているのかわからない」
ぽつりぽつりと、軒を伝って滴る雨音のように、一人。言葉を紡ぐ。
「キミが何を感じたのかわからない」
返事が返ってくるはずもない。彼女はおとぎ話のように自らでは覚めない眠りについたまま。ともすればさながらぼくは眠らせた悪い魔女で、目覚めさせる手段を持っているにもかかわらず、それをしないずるい悪役。
「キミが、何を求めてるのかわからない」
人形はどちらだろう。機械仕掛けのリベラだろうか?
それとも目的も何もかも見失ったぼくの方だろうか。
「どうしたらいい」とつぶやいて、台によりかかる形で伏せる。答えは、当然返ってはこないままだった。
彼女の手を取ろうとして、てのひらに何か紙切れのようなものを握りしめていることに気付いた。握りしめているだけだと思っていたので、よくよく見なければ気付かなかっただろう。慌てて硬直したままの手から紙を破かないよう引き抜くと、手帳か何かからちぎった紙には『もしも日記の中で一つだけ変えたいと望むなら、降り出した雨の日を晴れに』と書いてあることが分かった。裏には、その日の日付と、天気予報の内容がある。
「雨の日を晴れ……?」
日記、と書いてあることから、あのパスワードに関係があるのだろうか。
「この言葉はパスワード、なのかな」
もしそうでなかったとしても、ぼくにはもうどうにかする気力は残っていない。
何をしたかったのか、何度も何度もリセットを繰り返して、わからなくなってしまった。これでだめなら、もう、何もかもやめようとすら思うほどだったから。
あの、雷でリベラがショートした一番最初の日。その雨雲を青空にする。四桁の文字列を打ち込んで、モニターに表示される結果をただひたすらに待った。
§
――ソラへ。
最初に断っておくけれど、このパスワードであなたが読めるようにしてある日記の本文は、ほんの一部だけです。乙女の秘密を覗こうだなんて言語道断なんだからね!
……ここで読めるのは、『私たち』がリセットされるたび、その最後に残すことになる日記だけです。あなたがどんな風に私たちに接して、どんな風に思うのかは私にはわかりません。けれども、私が、私たちがどう思ってこの日記を残したかはわかります。きっとどの私も同じように言うのでしょう。どれだけの長さがあるかは、今の私にはわからないけれど、最後まで読んでくれることを願っています。
§
おそらく私は今日が最後でしょうね。
私ではだめだったのかもしれませんが、後悔はないのです。このあたたかな気持ちにこの私もまた気付けたのは、彼のおかげでしょうから。
多くは語りません。未練がましい女なんて、恥ずかしいですもの。
どうか彼に、心穏やかな時が訪れますように。
§
あーあ。ダメだったかな。
たぶん今日であたしは消えます。くやしい!
でもこれで終わりじゃない。
この胸いっぱいの大好きだ―って気持ちは、次のあたしに託します、ガンバ!
§
私が終わることは、どうしようもないこと。
どんなに足掻いても、私は彼が求める理想の私ではないみたいです。
次の私がうまくいきますように、と願うばかり。
もし叶うなら、それが私であればよかったのですが……それだけは残念で仕方ありません。
もし彼の願いが叶ったのなら、その時の私は、きっと私たちの気持ちも伝えてくれるでしょうから憂いはありません。気がかりなこととして、叔父さまとは仲直りしてほしいとは思いますが、いつか完成したときにまだ仲直りが出来ていないようでしたら、私にそのことも任せたいですね。叔父さまは、利益を搾り取ろうとする意地汚い大人たちから彼を守ってくれていて……
ふふ。似た者同士です。そこは、最後の私に任せておきましょうか。
愛しい人へ。
さようなら。それから、またいつか。
□
――何も言葉が出なかった。
どの段階のリベラも、一切の恨み言もなくまるで舞台から退場するだけといったようにあっさりとしていた。もう二度と、『自分』が目を覚ますことはないというのに。
読み進めるたびに、違う人格のリベラがありありと脳裏をよぎる。
いつだって彼女はぼくを支えてくれていて、いつだって気に掛けてくれていた。
「ぼくは、ああ、きみは何でそこまで――」
最後の人格の部分まで読み進めて、そこで区切られた文章がまだ続いていることに気付く。
『ソラへ。
ここに書かれていることを気に病んでしまうのなら、それは間違いです。
そんなことを望んで私たちはこの日記を残しているわけではありませんから、そんな考えは今すぐに消しなさい。
私は、私たちは、あなたを認め、いたわり、優しくすることを目的に作ったのだとか。実際のところ、それが叶ったのならこの日記を読むことはないでしょうし、それならそれでいいのです。
私が生まれたことを、私は感謝してます。何度やり直したとしても、私は同じように思うでしょう。だって、私はあなたのことが好きになってしまったから。
困らせることも多かったかな。
苛立たせてしまったこともあったかも。
それでも、私にとってはあなたのそばにいることが、楽しくて。嬉しくて。
それから少しだけ、悲しいです。
わたしのせいでいつも難しそうな顔をさせてしまってごめんなさい
ご両親のことを思い出して悲しそうにしているのに、慰められなくてごめんなさい
叔父さんから連絡が来るたび、その苛立ちが芽生える前に守ってあげられなくてごめんなさい。
私にしてあげられることは少なくて、それでも私をそばにおいてくれてありがとう。
最初の私と会うことは、もうないとおもうけれど。
あの日のあなたの曇った顔が、いつか晴れ間を見せてくれることを願ってます。
ありがとう。私は、あなたが――』
前が見えない程の涙に覆われて、まともに読めなくなっていた。
彼女を。彼女たちは。ぼくのことをこんなにも想ってくれていて。
そう思うたびに涙がこぼれてきて、自分がしてきたことの後悔ばかりが胸を締め付ける。
――泣き疲れて。眠って。また泣いて。
何度も繰り返した後、やがて気づけば、ぼくは立ち上がっていた。
彼女は眠ったまま。ぼくは、まだ起こさない。何度も何度も、失敗を重ねていい。使えるものは何でも使う。がむしゃらに、迷いなくその夢を叶えるためだけにがむしゃらに動き始めていた。
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『人に寄り添う友としての、心を持ったロボット』
天才少年が提唱した基礎理論は、多くの研究者との協力により完成の日の目を見た。
少年は青年になり、一連の研究に関わる問題が起きないように倫理、開発、政治、軍務。あらゆる面での基盤を整え、そしてそれを終えたと同時に表舞台からは去ったという。
「行こう、リベラ」
「――うん」
いつからだろうか、青年は一人の少女を常に伴っていた、と多くの記録に残っている。それは恋人だという人もいれば、それは愛玩人形だ、いや宣伝だ、護衛だ、監視だ。様々な憶測が流布されたものの、本人は終始そのことについて触れることはなかったという。
ただ、不幸な生涯であったかと聞かれるとその限りではないこともうかがえる。彼らと話したものはみな一様に「二人が共に歩む限り、青空のように澄んだ笑顔は絶えることがない」と話すのだから。
了
Illust:note
イラストを描かれているnoteさんから、設定と原案を頂いて書き上げた小説になります。
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