プロローグ
『ダンジョン』。それは世界中に点在する、ダンジョンマスターと呼ばれる者達の『居城』。
『居城』という言い方は、正しくないのかもしれない。だが、其々のダンジョンを支配するダンジョンマスター達は己がダンジョンを完璧に支配下に置いており、その構造でさえ思いのままにしているのだ。
各ダンジョンマスターには一人の補佐が付き従い、その支配を助けている。生み出された魔物達全てがダンジョンマスターに忠実であり、主に牙を剥く者達を死に至らしめるのだ。
――それはまさに一つの『国』である。
反逆といったものが起きない分、人が治める国よりは統制が取れているとも言えるだろう。……が、それには当然、『そうなるだけの理由』があるのだ。
ダンジョンの魔物達は通常、自我などない。ダンジョン内において明確な自我を持つのは、支配者にして中核たるダンジョンマスターと補佐だけなのだから。
ゆえに……『魔物達には反意を抱くような感情がない』。挑んだ者達からすれば外に居る魔物達と同じに見えるのだろうが、実際には『魔物という創造物』なのだ。
多くの者達は勘違いをしているのだろうが、外とダンジョン内の魔物達は別物である。
外に生きる魔物達は所謂『生物』、ダンジョン内の魔物達は『物』。
己の命を顧みずに挑戦者達に襲い掛かるのは、それが『彼らの存在理由』であり、『ダンジョンマスターの命に従っているだけ』。つまり、闘争本能といったものから牙を剥くのではなく、それが彼らに望まれた役割というだけだったりする。
また、各ダンジョンはダンジョンマスターが討伐されると自動的にリセットがかかる仕組みになっているため、ダンジョンマスター達は己の防衛のために魔物達を使って挑戦者達を倒すのだ。
人々は言う――『ダンジョンとは、叡智と宝の宝庫』と。
多くの者達は夢を見る――『ダンジョンとは、死と栄光が満ちる場所である』と!
人が困難に挑むは、その先にあるものを求めるゆえ。血と恐怖に彩られ、死の匂いに満ちたダンジョンの奥へと足を進めるのは、そうするだけの価値があるものが手に入るからだ。
その反面、当然ながら命の危険に見舞われることも多い。名声や宝を夢見ながらも志半ばで倒れ、ダンジョン内で朽ちていく者とて珍しくはない。寧ろ、大半がこういった道を辿る。
敗者となった者達は時にダンジョンに取り込まれ、アンデッドとなって彷徨うこともあった。こういったことからもダンジョンは恐怖の対象であり、決して侮ってはいけない場所なのだ。
冒険者となった者達は、まず先輩冒険者達からこう言われる――『ダンジョンを侮るな』と。
たやすく手に入る名声や宝など、この世には存在しない。夢を見ることは勝手だが、自分達の実力に見合った仕事を受け、実力を伸ばしていけ、と。
それはすでにこの世にはいない『先輩達』が、その人生をもって遺した教訓である。ほんの少しの油断、甘い認識、足りない情報……生きる力に溢れ、栄光を夢見て冒険者となった者達の足を掬う要素はとても多い。
地道な努力と、己が実力を正確に見極めることこそ、生存の秘訣なのだ。……もっとも、それを理解するものが半分にも満たないからこそ、冒険者が溢れ返ることにならないのだが。
実際、生まれゆえに碌な仕事に就けず、やむなく冒険者になる者はとても多かった。そういった状況であっても、所謂ベテランにまで上り詰める――生存しているだけでなく、冒険者を続けていられる、という意味で――者はほんの一握り。
『誰でもなれる』からこそ、『続けていくのは難しい職業』なのだ。生活の糧を得るだけでなく、常に命の危機の中に身を置くからこそ、精神面での強さも求められるのである。決して、楽な道ではない。
だからこそ、先輩冒険者達は無謀な若者達を案じ、教育係を自主的に買って出る。時に厳しく、時に助け、少しでも彼らが生き残れるように、と。
そんな優しさが理解できるのは、新米冒険者達が一人前となり、困難に直面した時であろう。そういった状況になってこそ、これまで学んできたことが活きてくるのだから。
『生きて、再び会おう』――それは誰もが口にする言葉であり、冒険者達がよく交し合う『約束』。軽い口調と言葉に込められたものは『再会の誓い』に『相手への祝福』、そして……『必ず生き残ってみせる』という自身への『決意』。
新米冒険者達は身をもってその重さを知り、約束事を叶える難しさを学ぶのだ。果たせなかった約束と落ちた涙の数は数知れず。それもまた、一つの教訓として根付いてゆく。
それでも。
それでも、人は歩みを止めず、絶望することもない。無謀な夢とて、確かに生きるための糧であるのだから。
――そんな世界にも、救いとやらは与えられるもので。
一年ほど年前から、冒険者達の間では『ある奇妙なダンジョン』が話題になっているのであった。
曰く、『そのダンジョンにおいて、怪我はすれども、死ぬことはない』。
曰く、『ダンジョンの魔物達とは、意思の疎通が可能である』。
何より奇妙なのは、『かのダンジョンを統べるダンジョンマスターは挑む者達に敬意を持ち、足掻く者達を応援してくれている』というもの。
これまで『敵』という立場で認識されていたダンジョンマスターという存在が、まるで味方のような扱いを受けているのだ。多くの冒険者達が首を傾げるのも当然のことだろう。
だが、これは単なる噂ではなく事実なのである。
そのダンジョンマスターの名は『聖』。異世界より招かれ、人々の敵としての役目を担うダンジョンマスター達の中において、例外中の例外となった女性。
日本に生まれ育った聖は不慮の事故で人生を終えたとはいえ、その平和ボケ思考が『全く』変わらなかったのである。
ただし、これはどちらかと言えば創造主の人選ミスというか、個人的な好みで選んだ弊害というか、聖が元居た世界の創造主の采配のせいといった方が正しい。
女神の祝福を押し付けられ、それから逃れるべく様々な世界に転生を繰り返していた『凪』――後に、聖命名――と知り合ったことにより、聖は創造主達の目に留まったのだから。
ダンジョンマスターとは『人々の悪意を引き受ける【敵】であり、異世界の知識をもたらす者』――どう考えても、聖には向いていない。ダンジョンからは出られないので、引き籠もり気質だけは合っているのかもしれないが。
それでも何とかなっているのは、補佐役のアストゥトの日々の努力のお蔭であり、魔物達に自我が存在するからであろう。
聖の平和ボケ思考は当然、ダンジョン内の采配にも影響を及ぼし、魔物達を『物』ではなく『運命共同体の家族』として位置付けたのだ。
結果として、聖が何もしなくてもダンジョンの運営は行なわれていく。ダンジョン内の構築や魔物の創造といったものは聖にしかできないが、運営方針さえ提示すれば、魔物達が勝手に行なってくれるのだった。ここまで存在感のないダンジョンマスターも稀であろう。
その代わりとでも言うように、聖は魔物達の居住区やら、挑戦者達へのサービスは積極的に関与している。聖曰く、『適材適所』。
『ダンジョン』というものに馴染みがない世界に居たため、聖には『ダンジョンの運営』やら『生死を左右する場』といったものはハードルが高過ぎるのだ。
聖の目指すもの――それは『娯楽施設・殺さずのダンジョン』!
『挑戦者が魔物達に殺されれば、こっちが恨まれるじゃん! それ以前に、自分の家で殺人なんて嫌だ! 平和的にいこうよ!?』という言い分の下、聖のダンジョンは娯楽施設方向に発展中。
なにせ、ダンジョンマスターである聖自身が『うちのダンジョンは、罠付き巨大迷路でよくない?』という方針なので、些細なミスからの命の危機などあるわけがない。精々が怪我をしてリタイア、その後は救護室行きという運命を辿るだけ。
ダンジョンマスター一人が、ダンジョンを完璧に支配できるからこそ起きた悲……喜劇である。
すでに補佐役であるアストゥトすらも色々と諦め、聖のことは『二十一歳児』と呼ぶ始末。なお、『二十一歳児』にはエリク、凪も含まれていたり。聖を含めた三人の享年は揃って二十一歳なので、ある意味、間違ってはいないのだが。
……そんなわけで。
本日も異質な北のダンジョン――通称『殺さずのダンジョン』は、相も変わらず多くの人で賑わっている。緊張に顔を強張らせている者、随分と慣れた様子で仲間達と話している者といった感じに様子は様々だが、悲壮な覚悟を浮かべている者はいない。
『命を失うことはない』。挑戦者にとって、それはとてつもなく大きな幸運であった。今回の挑戦で願いが叶わずとも、『次の機会がある』のだ。怪我を負ったとしても、治してから再び挑めばいいのだから。
聖はそういった事情など知らなかったろうが、挑戦者側はこのような仕様のダンジョンなど、見たことも聞いたこともない。まるで挑戦者達の成長を応援し、生き延びる術を身に着ける機会を与えてくれるようなダンジョンとして、『殺さずのダンジョン』のダンジョンマスターは順調に慕われていっているのあった。
余談だが、当のダンジョンマスターが聖ということは、あまり知られていない。
というか、聖はそれなりに挑戦者達の前に姿を現しているのだが、それが軽食の調理だったり、負傷者の治療の手伝いといったものであるため、『挑戦者と仲良くしている人型の魔物』という認識が大半なのである。
時には大型猫に酷似したネリアや、ヘルハウンド達と呑気に昼寝をしていたりするので、危機感皆無な平和ボケしたお嬢さん(魔物)としか思われていなかった。
まあ、引き籠もり傾向にあった元民間人に対し、威厳やらカリスマ性というものを期待する方が間違いなのだろう。
――本日も、『殺さずのダンジョン』は平和に運営中である。




