第九話 『懐かしい悪夢と白い狼』(凪視点)
――それは懐かしい過去だった。忘れていたはずの、悪夢。
『神より与えられた恩恵は、その慈悲深さの片鱗。何故、素直に喜ばないのか』
『勿論、感謝すべきものであることは判っています。ですが、周囲に影響を与え、個人の感情さえ歪めてしまうような恩恵ならば、喜ぶことなどできません』
『……。お前の善良さ、謙虚さは愛すべきものだろう。だがな、我々に神の祝福を拒絶する術などない。感謝し、受け取ることだけが許されているのだ』
『……』
世話になった司教に相談するも、彼の最優先は『この世界を作りたもうた女神』。
神職者である以上、女神に対する盲目的とも言える崇拝は当然のことなのかもしれないが……俺には理解できなかった。そう思うだけの『現実』を、見せつけられていたから。
『神の愛祝福』を受け、それによって引き起こされる『歪み』。当然、人に抗う術などない。
それを知るからこそ、俺の中に芽生えた疑問は徐々に大きくなっていた。同時に、この世界に対する違和感も感じていたと思う。
だって、そうだろう? 世界に影響を与える神の力は絶大で、だからこそ、使い方を誤ればとんでもないことになるはず。
それは誰もが抱く危機感であるはずなのに、この世界の住人達は神の恩恵を黙って受け入れるのだ……『受け入れることが当然』と。
俺とて、最初からこのように考えていたわけではない。だが、自分が神からの恩恵――周囲の人間達が無条件に好意的になる、というもの――を賜って以降、その影響を受けて狂っていく人々の姿に底知れぬ恐怖を覚えたのだ。
人間、いや、全ての生き物達には自我があり、感情がある。喩え好意を抱いたとしても、それらが一定であるはずはない。個人差というものがあるのだから、それは当然のこと。
だが、俺に与えられた『神の祝福』はそれを酷く歪め、時には盲目的な域にまでしてしまう。
『幼馴染の婚約者が最愛です』と言っていた少女が、熱を含んだ眼差しで俺を見つめ。
真摯な姿勢で仕事をこなしていた職人が、神殿に通うために仕事を放棄し。
主に忠誠を誓っていた騎士さえも、主よりも俺を守って朽ち果てる。
これを『歪み』以外の、何だと言うのだろう!?
『神の祝福』に狂わされた彼らの末路は、どれも幸せとは言いがたかった。今際の際に向けられた、憎悪の視線……それだけでも、彼らが本心からそのような行動をしていなかったと判るのに。
それでも、人々は俺に言うのだ……『神から祝福を賜ったことを、誇らぬ方がおかしい』と。
何の疑問も抱いていない顔で、どこまでも純粋な眼差しで! 『この世界を作りたもうた女神の意向に添わぬことこそ、愚かなのだ』と、平然と口にすることの歪さよ!
そして、俺の心境の変化に女神は気づいていたらしい。感謝せぬなら、更なる祝福を……とばかりに、俺を中心にして起こる騒動は徐々に、悪質なものとなっていった。
当然、俺の心は女神から更に離れていく。女神に対する感謝など、湧き上がるはずもない。
それでも、『神の祝福』が失われることはなかったのだから、女神も俺のそんな苦悩を楽しんでいたのかもしれない。もしくは……報復か。
与えられたことに感謝を覚えず、信仰心さえ失っていく『お気に入り』を、ただただ苦しめたかったのかもしれない。
――気がつけば、俺は暗闇に一人で立っていた。
そこら中から聞こえてくるのは、俺の持つ『神の祝福』によって狂わされた者達の怨瑳の声。
たった一度の人生を狂わされ、強制的に植え付けられた俺への好意に踊らされ、最後の瞬間に正気に返って絶望した者達の、絶え間ない恨み言。
『お前さえいなければ!』
ああ、全くその通り。
『お前が女神様に対して従順であれば、まだ違ったのかもしれないのに!』
……そうかもしれないな。
『ずっと、ずっと、女神様の所有物でいれば良かったのに!』
……。
そ う か 、 全 て は 俺 が 女 神 の 寵 愛 を 拒 ま な け れ ば――
『ガゥッ!』
罪悪感に押しつぶされそうになった時、俺の体は衝撃を受けて倒れ込んだ。同時に、これまで続いていた怨瑳の声は止み、暗闇から一転、どこかで見たような場所になる。
混乱するも、俺の上にある『何か』はふわふわとしていて温かい。その温もりに安堵する俺に、今後は誰かの手が差し伸べられた。
聞こえてくるのは、俺にとっての特別な声。
『そんな必要ないよ。ここは私のダンジョン、貴方は私の……私達の仲間。ほら、立って!』
そこに居たのは、聖だった。当たり前のような顔をして、少しだけ呆れて。それでも俺に手を差し伸べてくれる彼女の姿に、俺はこれまでのことを思い出した。
ああ、あれは過去。怨瑳の声も、女神から与えられた恩恵に対する苦悩も、全て過去のこと。
神の祝福……いや、『呪い』の影響を受けない聖が、自分の意志で幼い俺を庇ってくれた。
聖だけではなく、多くの者達が俺に手を差し伸べてくれた。
何より、このダンジョンの魔物達は俺の事情を知ってなお、仲間として受け入れてくれた。
だから……もう恐れる必要はない。俺は人間であることを捨てて、聖のダンジョンの魔物となったのだから。聖を守り、皆を守る。それが俺の存在理由であり、唯一の望み。
存在理由が己の意志と一致している以上、俺が迷う必要はどこにもないはず。それが長い苦難の果てに得た幸福ならば、長い旅路にも意味があったじゃないか。
そう判っていたはずなのに、俺は何故か、そのことを忘れかけていた。気付いた途端、胸にもやもやとしたものが湧き上がり、自然と顔を顰めてしまう。
『凪? ほら、そろそろ起きなさいって』
視線を向ければ、そこには手を差し伸べたままの聖。……俺の救いであり、支配者たる存在。
『凪』。それは聖が俺のために考え、与えてくれた名前。これからの日々が穏やかに凪いでいるようにと、俺の幸せを願って付けられた『枷』でもあった。
名に縛られる危険性は知っていたが、聖から与えられた名は俺を守るためのもの。聖の支配下にあることを示すと同時に、かつての世界からの干渉を断ち切るためのものでもあるのだ。
おそらく、あの幼い創造主も俺に何らかの守護をかけてくれていると思う。あの子は間違いなく、俺に『呪い』を与えた女神と同じ立場のはずだが、俺を哀れみ、助けようと精一杯動いてくれた。
……そんなところは、聖と少し似ている。あの子自身が作り出したというアストも面倒見が良いので、基本的に善良な性格をしているのだろう。人を慈しむ創造主を戴くからこそ、この世界は神の影響を極力受けずにいられるのだから。
気持ちを切り替えるように、溜息を一つ。そして、俺は聖の手を取った――
「あ、起きた?」
「キュウ!」
「……聖? それと……サモエド、だったか?」
顔を覗き込んでいる二人(?)に、ぼんやりとしたまま言葉を返す。周囲を見回せば、そこが居住区にある俺の部屋だと判った。……そうか、俺は転寝をしていたのか。そこであの夢を見た、と。
「ごめんね、ノックしたけど反応がなかったから、勝手に入っちゃった。鍵も開いてたし」
「いや、構わない」
起こしてくれて助かった、とは言わない。あの悪夢を聖に話せば、心配させてしまうから。
「お茶に誘いに来たら、寝てるんだもん。だから、起こさないようにしようと思ったんだけど、サモエドがね……」
そう言って、サモエドに視線を向ける。サモエドは相変わらず俺に伸し掛かり、顔を擦りつけている。……俺の動揺を感じ取って、慰めているように見えなくもない。
「起こしてくれたんだろう。……助かったよ、サモエド。ありがとな」
「キュウ!」
微笑んで頭を撫でれば、サモエドは得意げに胸を張る。ふわふわな体とその仕草はとても微笑ましく、悪夢の片鱗は急速に俺の記憶から薄れていった。
「でも、サモエドが呻ったのは初めてかも。サモエド、あんたも呻るんだね? まあ、凪は圧し掛かられても起きないほど熟睡していたみたいだから、舐めたくらいじゃ起きなかったかも」
「そうなのか?」
「うん。凪がそこまで起きないのも珍しいけど、サモエドが呻ったのも聞いたことがないよ」
「……」
聖の言葉が、小さな棘のように突き刺さる。確かに、このダンジョンで生活するようになってからは平和過ぎる日常を過ごしているが……そこまで起きなかったというのも不思議だった。
何せ、俺にはこれまの経験がある。人の気配なんて、俺にとっては最も警戒すべきものだったはず。
対象がが聖であろうとも、それは変わらないはずだった。アスト曰く『魂に刻み込まれた傷なんて、そう簡単に癒えるものではありませんよ』とのことだ。
「凪? どうしたの?」
はっとして顔を上げると、不思議そうな顔をした――心配しているように見えるのも、気のせいではないだろう――聖が。サモエドもどこか心配そうに、俺の顔を舐めている。
「後で話すよ、ちょっと気になることがあったんだ」
「ふーん……? まあ、相談ならアストも居た方がいいだろうしね」
あまり納得していないようだが、それでも聖がそれ以上の追及をしてくることはない。そこに飛び込んで来る、乱入者の明るい声。
「聖さーん! 凪は居ました? あ、いるじゃん! ほらほら、お前もさっさと行こうぜ」
どうやら、エリクは俺達を呼びに来たらしい。中々戻って来ない聖とサモエドに、痺れを切らしたといったところだろうか。
……。
場の空気を変えるべく、エリクは殊更、明るい口調にしているのかもしれないが。
元騎士だったせいか、エリクは空気を読むことに長けている。元孤児と言っていたから、様々なトラブルを回避するためにも、そういった能力を身に付けたのかもしれない。
「悪い、今行く。俺が熟睡してたんだ」
「ははっ! 珍しいな、それでサモエドに起こされたのか」
「ああ。随分と衝撃的な目覚めだったよ。起きたら、サモエドの顔が目の前にあったんだ」
だから、今はそれに乗らせてもらおう。暗い話や相談事は、和やかなお茶会が済んでからでもいいのだから。
きっと、彼らは親身になって話を聞いてくれる。すでに『呪い』が失われた以上、それは彼ら自身の意志なのだ。そのことも、俺を安堵させるものだった。
……この現実がある以上、嫌な夢はもう見ない。見ても、現実に引き戻してくれる仲間達がいるのだから、恐れる必要もないのだろう。




