第二十九話 譲れないこと(アストゥト視点)
「あ……」
ぼたぼたと落ちる鮮血に、少年は言葉もなく震えるばかり。それも当然のことなのでしょう。彼のような立場の子供にとって、こんな怪我を目にする機会などないはず。
ですが、この状況こそ……この少年が本当の意味で『ダンジョンに挑む』ということを理解できていなかった証でした。ダンジョンで死した者への評価や対応には憤っても、その死がどういった状況下でのものだったかまでは、思い至らなかったのですから。
この少年は自分の甘さに……あくまでも『部外者として判断していたこと』に気づいた。
彼を庇って切り落とされた、私の左手を目の前にして。
咄嗟に踏み止まって『勇者』を迎え撃とうとしましたが、彼はそこまで甘くはない。至近距離からの一撃を腕に受けながらも剣を振るい、私の左手を肘から落としていきました。
まあ、さすがに少年をそれ以上巻き込む気はなかったのか、今は再びこちらと距離を取っていますが。私が傷を負わせたのが利き腕でないことから、『勇者』は片腕を犠牲にしてまで踏み込んできたのでしょう。彼の左腕にも鮮やかな鮮血が滴っています。
「危険だと、言われませんでしたか? いくら『殺さずのダンジョン』とはいえ、戦闘が発生する場であることには変わりないのですよ。何の覚悟もなく、挑めるものではありません」
――それこそ、これまでダンジョンへ挑んだ者全てへの侮辱ではないのでしょうか?
「う……僕、は……」
続けた言葉は彼の柔らかな……偽善に満ちた心を抉ったのか、ちらりと視線を向けた少年は泣いているようでした。ですが、私とてこの少年に付き合っている余裕はありません。
「さっさと護衛の傍に行きなさい! 貴方の選択は死にたいか、死にたくないかの二択です」
「殿下! こちらへ!」
「わ、判った……」
私の叱責は少年に向けたものでしたが、動いたのは彼の護衛である騎士達でした。その騎士達も、ダンジョンの魔物たる私の行動が信じられなかったのか、奇妙なものを見る目を向けています。
そんな彼らの視線を受けながらも、私の口元に浮かぶのは穏やかな笑みでした。痛みは当然のこと、今後の戦闘には間違いなく支障が出るほどの怪我でしょう。ですが、それでも私に後悔という言葉は浮かびません。
……ですから。私は騎士達の視線に……その疑問に答えることができなかったのでしょう。
ええ、全く彼らの思う通り! 私とて、無意識にとった己の行動が信じられません。
ですが、漠然とした理由は見えていました。口にするほど明確な形にならないのは、思い浮かんだ理由が一つではないからでしょう。それら全てがあってこそ、私は少年を庇ったのですから。
「意外だな。あんたが身を挺して、乗り込んできた奴を守るなんて。俺達は招かれざる者だったはず。それも『殺さずのダンジョン』として在るためのパフォーマンスか?」
「さあ、どうでしょう? 私自身、明確な理由は判らないのですよ」
「何だと……?」
訝しげに、『勇者』は目を眇めました。銃を持った手で左腕を押さえたまま、それでも視線を『勇者』に固定して、私は自分自身に呆れて苦笑を浮かべます。このような感情を持てたこと、そして行動できたことを、私自身が嫌だと思っていないのですから、この状況も仕方ない。
かつて聖が庇ったのが、あれくらいの少年であったから。
それで命を落とそうとも聖は後悔などしておらず、私はそんな彼女の影響を受けているから。
愚かなほどに甘い子供の根底にあるのが、子供ゆえの純粋さだったから。
何より……あの少年が死ねば聖が……皆が悲しむだろうから。
「あえて言うなら、『私がそうしたかったから』でしょうか。様々な理由の果ての行動なのですよ。咄嗟の行動ですから、私自身に自覚がなかった一面が突如、表面化したのでしょう。貴方にも覚えがありませんか? 体が勝手に動くような、無意識の行動に」
「!?」
私の言葉に、何故か『勇者』は動揺を露にしました。何より……見間違いでなければ、ほんの一瞬、『勇者』は苦しいとも、悲しいとも取れる表情をしたのです。それは彼が初めて見せた、人間らしい表情でした。それも……胸が痛くなるような、悲痛な顔。
何故、と口にする機会は訪れませんでした。『勇者』は一度頭を振ると、再びあの暗い色を湛えた目を向けてきたのですから。
「お前がそれでいいなら、それでもいいさ。だが、俺は容赦しない。……隠したいならば、無暗に動き回ることは避けるべきだった、な!」
「……っ、しまった!」
言うなり、『勇者』はとある方角へとナイフを投げました。冒険者がナイフを身に着けることは珍しくありませんが、相手は『勇者』。私が驚愕したのはその威力、その方向。そこには――
「うわっと! ええい、バレたなら仕方ない! アスト様、大丈夫ですか!?」
「アスト、無事!?」
剣で『勇者』の投げたナイフを弾いた――隠蔽の術を破るだけではなく、貫通したようです――エリクと、彼の背に庇われている聖。二人は『勇者』に見つけられたことに慌てている……のではなく。
「大人しく隠れていろと言ったでしょうっ!」
「その怪我で言いますか!? アスト様!」
「心配するのは当然でしょー!? あんたこそ、自分を労わりなさいよっ」
私の心配でありました。呆気に取られた周囲の視線が、私に突き刺さります。
……。
貴方達? 何のために、私一人が相手をしていたと思っているんですかねぇ……?
呆れと頭痛が込み上げますが、この二十一歳児達――エリクも二十一歳だったそうです――相手に、お小言など通用しません。そもそも、そんな状況ではないのです。
「この状況で、お前の心配か。めでたい頭をしているというか、お前が愛されているというべきか……判断に迷うな」
「大変、申し訳ございません! あの二十一歳児達のことは記憶から消去してください!」
「いや……そこまで言わなくても……」
全力で突っ込む私に、『勇者』は何とも言えない表情になります。あの暗い目をした、殺伐とした表情よりは遥かに人間的だとは思いますが……嬉しくはございません。
ま、まあ、聖達が私を案じてくださったこと自体は嬉しいのですが。
そうしている間にも、『勇者』は聖達の方へと向き直り。そして――
「お、前……! その、顔!」
「「は?」」
驚愕を露にした後。私に向けていたものとは比べものにならないほどの憎悪を、『勇者』は二人へと向けたのです。
「え? 顔? 俺ですか? それとも聖さん?」
「どちらにしろ整形はしていないから、私達は二人とも生前のままだけど」
憎悪を向けられた二人はさすがに驚いたようですが、返した言葉は何とも呑気なもの。お馬鹿さん二人の態度に再度、頭が痛くなりましたが……『勇者』にとってはそんな二人の言葉など、何の意味もないようでした。怒りに燃えた瞳はしっかりと、二人を捉えているのですから。
「はっ……そんなことはどうでもいい。『神に連なる者』がその顔を持っているなど、許しがたい! ズタズタに引き裂いて、存在そのものを肉塊に変えてやる……!」
怪我をしているのが信じられない動きで二人に向かうと、『勇者』は剣を繰り出しました。それを受けるのは当然、エリクなのですが……エリクもその攻撃の重さに驚いているようでした。
「おい、いきなりか!」
「邪魔を、するなぁぁぁぁっ! その女だけは絶対に、始末する!」
「うわ、逆鱗に触れたのは私の方か! ちょ、八つ当たりはよくない!」
「聖さん、アスト様の方に逃げてくださいっ! この人、強い……!」
エリクの邪魔にならないようにするためか、聖は隙を見て私の方へとやって来ます。ですが、エリクとて、いつまでも押さえていられないでしょう。
「あの『勇者』……何で、私の顔にあそこまで怒ってるの……?」
「判りません。ですが、あの『勇者』を殺さずに捕らえることは難しいかもしれません」
聖の呟きは、その場に居る『勇者』以外の全ての者達が思っていることでしょう。その答えを持たないまま、私は再び銃を構え直したのです。




