辻褄はあわず
遺書は結局完成しなかった。
中途半端が俺の人生にはお似合いらしい。せめて最期くらいはきちんとしたかったが、まさか年端もいかぬ少女に邪魔されるとは思わなかった。
死に場所を探して町をさ迷い歩くが、端から見たら夢遊病者か千鳥足の酔っぱらいだ。
午前中の太陽は午後の炎天下を予言するかのように輝いている。
あまりの暑さに死ぬより先に行き倒れてしまいそうだった。思えば昨日から何も食べていない。
腹の虫が鳴いた。
財布には小銭しかない。
とはいえ、飢え死は、辛いよな。
どうせ死ぬなら悪いことしても変わらない。
駅前の牛丼チェーン店に入る。
来店の挨拶を聞き流し、死んだ魚の目で店内を見渡す。まだ朝も早い時間だ。客も少ない。入り口から一番近い席に腰掛け、浅く深呼吸する。
無銭飲食を試みることにした。大それたことができない、実に俺らしいチョイスだ。
「牛丼並盛」
身体に刻みついている小市民根性にまったく嫌気がさしてくる。一番高いものを注文すればいいのに、一番安いものを注文してしまった。
算段を整える間もなく牛丼はすぐに来た。お味噌汁つきだ。相変わらず恐るべき早さである。
紅しょうがをたっぷりのせて手を合わせて、食べ始める。
うまい。噛めば噛むほど旨味が口内に広がる。思えばなにかを食べるのも二日ぶりだ。
あっという間に食べ終わった。あとは隙を見て逃げ出すだけ。
お茶を飲み干し、店員がそっぽを向いた隙に合わせて、静かに席をたつ。
前のめりに体重を移動させたとき、視線を感じた。
「……っ」
ツバキがいた。正面の席に座ってこちらを見ている。
「なんで……」
思わず呟いた言葉に反応して店員が俺の方を向いた。
「はい、お呼びでしょうか?」
「……すみません。ちょっと財布を忘れたんで取ってきます」
アルバイト店員は気持ちのいい笑顔で「わかりました!」と答えてくれた。
人を疑うことを知らない笑顔に促されるまま、携帯番号を人質にして外に出る。涼しい店内から再び灼熱地獄だ。
直射日光の矢の雨に打たれる俺のすぐ後ろにツバキが続いた。
「なんでいるんだ」
「お金忘れたんですか?」
このまま逃げてもよかったが、監視するように俺を見る汚れなき眼の前では、不道徳な行いは、どうにも寝覚めが悪くて仕方ない。
まず自宅に戻り、印鑑を持って、銀行に向かった。ATMで下ろせなかった端数分の小銭を窓口でおろし、それから大学の時の定期預金を崩す手続きをした。政府の埋蔵金になる予定だったが、国にお金を残すのも腹立たしいし、ちょうどいい機会だったのかもしれない。しめて10万562円。
銀行を出て、牛丼屋に戻り、380円を支払って再び店を出る。繋がらない携帯電話を取り戻しポケットにしまう。
「食い逃げするのかと思いました」
そのつもりだったのが、邪魔されたのだ。
返事をするのもめんどくさくなって、重たい足を引きずりながら、近くにあった公園に行き、水飲み場で給水した。
喉を潤し、蛇口を閉めて、 顔を上げる。
午前中の世界はきらびやかだ。俺には眩しすぎる。
「おい」
ツバキは尚もそこにいた。
「……」
声をかけても返事はない。
少し腹が立って、少女の胸に無理やり封筒を押し付けた。
「やる」
中身は学生時代、服屋のアルバイトで貯めた10万円だ。就職するときに定額預金として預けたのだ。
「だからどっか行ってくれ」
「いりません」
押し返される。
「私には必要ありません」
「生きるために必要だ。そのお金でどこか遠く、俺の視界の届かないところに消えてくれ」
つまるところ彼女の正体が、幽霊だろうが思春期特有のパラノイアだろうが、どっちでもよかった。俺はただ一人で死にたいのだ。
「持ち主が使うのが筋です」
「俺はもう使わなくてもいいんだ」
「生きるのにお金がいるのでしたら、死ぬまでに使いきればいいじゃないですか」
「そんな時間はない」
本来なら俺は昨日、死んでいるはずだった。なので、贅沢かもしれないが、本当にその10万円は不要なのだ。
「なにを言ってるんですか。死ぬまで、まだ時間はありますよ」
語気を荒らげて少女は言った。
「どういう意味だ?」
思わず聞き返したら、ツバキはあからさまに「しまった」という顔をしてそっぽを向いた。