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杜撰なアイロニー


 平日だが、予定もない。

 昼過ぎまで寝てようかと思ったが、体に刻まれた生活リズムは本当に恐ろしいもので、すっかり七時には目が覚めていた。

 体にまとわりつくシーツを手で払いのけて、気だるい上半身を起き上がらせる。

 夢かと思ったが、少女はやはりそこにいた。壁のはしっこで、崩れた体育座りで眠りこけていた。

 部屋の窓を開ける。

 朝の涼しい風とともにセミの声が室内に流れてきた。今日は快晴だ。

 生き長らえてしまった。

 死を越した一日目は、俺の気分にはそぐわない爽やかすぎる青空だった。


「おはようございます」

 背後から声をかけられた。

 自殺を延長させた人物が寝ぼけ眼のまま俺を見ていた。

「おはよう」

 台所に移動してヤカンを火にかける。なんだか妙なことになった。

 死ぬはずだったのに。お腹は空腹を訴えかけていた。

 それをごまかすために、コーヒーを飲むことにした。


 カップに黒い液体を注ぎ込んでリビングに戻ると少女が屈伸運動をしていた。

「なにしてるの?」

「……体がすごく凝ってしまって」

 照れたように言う。変な女だ。

 俺はベッドに腰掛け、これからのことを考えた。

 死にたいのは変わらないし、お金もないのだから、先が真っ暗なのは変わらない。

 この女の子がいる限り安穏に死ぬのは難しそうだ。

「帰らないのか?」

「……」

「目的はなんなんだ?」

「……」

 また黙りだ。

「あんたはなにがしたいんだ?」

「……」

 返事はない。これなら壁とおしゃべりしている方が大分有意義だ。

 ため息ついでにマグカップに息を吹き掛け、コーヒーを冷ます。

「……たいです」

「え?」

「コーヒーが、飲みたいです」

「……」

 絞り出すように言った要求があまりにも素直な過ぎて、俺は思わず失笑してしまった。

「淹れてあげたいのはやまやまだが、マグカップが一つしか無いんだ」

「そうですか」

「……運が良かったな。まだ口をつけてないぞ」

 テーブルの上にマグカップを置く。湯気が白く線を引く。困ったように少女は俺を見た。

「いりません」

「ちゃんと洗ったぞ」

「そういうことではなく。家主を差し置いてまで飲もうとは思いません」

「そうか」

 取っ手を摘まみコーヒーを啜る。

 美味しい、というよりも、すっきりする味だ。雑味を洗い流すみたいな苦味。インスタントコーヒーでこれだけの味が出せるなら世の中の喫茶店はすぐにつぶれてしまうだろう。

 俺の顔を見ていた少女は羨ましそうに唇を尖らせた。

「やっぱりください」

「間接キスだぞ。おっさんと」

「大丈夫です」

 俺は大丈夫じゃない。

 ただ、あげるのも癪に思った。

「あげてもいいが、一つ条件がある」

 机の上にカップを置く。

 少女は僅かに首をかしげた。

「あんたの名前は?」


「なんでそんなこと知りたがるんですか?」

「別に。ただなんとなく気になっただけだ」

「先にあなたの名前を教えて下さい」

「じゃあ、いい」

「あ」

 カップを持ち上げてコーヒーを一口飲む。冷めてきて飲みやすい温度だ。

「待ってください。わかりました。私はツバキと言います」

「そう」

 コーヒーを差し出す。

 ツバキは宝石でも手に入れたかのように目をキラキラさせて、カップに口をつけた。

「っ」

 が、すぐに離した。猫舌だったのだろうか。

「……苦いですね」

「ならなんで欲しがった」

「大人が、美味しそうに飲んでるから……」

 それきり彼女は口を閉ざした。カップを俺の方にずらし、退屈そうに窓の向こうの青空を眺めている。

 砂糖もミルクも入っていないから、なれてない人には厳しいのかもしれない。

 窓からはセミの声が流れてきていた。

 そういえばセミの寿命は一週間と小学生のころ習ったが、飼育が難しいだけで、天敵に襲われなければ平均して一ヶ月くらい生きるらしい。

 幼虫の時は地面のなかで何年も過ごしてるので、儚いイメージとは裏腹に逞しいやつらだ。

 死に損ないという点ではシンパシーを感じるが。


「行きたい場所がないなら、ここにいればいい」

 温くなったコーヒーをすすりながら話しかけた。

「電気もガスも一ヶ月は持つだろう。マンスリーマンションだと思って好きに暮らしてくれてかまわない。鍵は本棚に置いてある。幽霊に寝る場所が必要なのかは知らないが」

「……」

 なんでそんなことを言うのだろう、と語りかけるような瞳でジッと見つめてきた。

「俺はしばらく留守にする。……いや、もう帰って来ることはないだろう。だから、ここはお前の領土だ。次の家主が現れるまではな」

 空になったカップを机に置いて立ち上がる。

 あとにはコーヒーの残り香が漂った。

「それじゃあな」

 俺は振り返らず、そのまま突っ掛けのように靴を履いて外に出た。



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