空から雨が落ちてくる
目が覚めると夕方だった。締め切った部屋の湿度は高く、汗が水溜まりを作っていた。
混濁する意識を引っ張り上げながら上体を起こす。
「痛っ」
ずきりと頭が傷んだ。
手で撫でるとヌメリとした血液が指先についた。
「はあ」
無理な姿勢で倒れていたらしく、体の節々が痛んだ。
精神が死を選んでも、身体は生を望んでいるらしい。白血球よ、頑張らなくていいんだよ、って思っても、勝手に生命維持を施そうとする。
立ち上がって流しで水をだし、手で掬い、口に含んで喉を潤した。湿った指先でおでこの傷をなぞると、血が出ているのがわかった。
さて困った。
ウチには絆創膏がない。
自殺志願者がなにを言っているんだと思うかもしれないが、外傷で殺人を疑われると方々に迷惑がかかるので、コンビニに買いにいくことにした。
それにしても頭が痛い。
お金もないのだ。
リビングの本棚の前に立つ。
ワンルームにある唯一の生活感が本棚だった。蔵書は少なく、乳歯の生え代わり時期のように空白が目立つが、俺の財産には間違いない。
右手で持てる分だけ文庫本を鷲掴みし、部屋を出る。鍵はかけなかった。盗まれて困るものは一つだってないからだ。
部屋から出ると湿った夜風が汗で額についた髪を乾かした。雨の臭いが空気に混じっている。空を見ると曇天だった。最近は晴れ続きだったので、久しぶりの曇り空だ。
辺りはすっかり薄暗いのに、気温と湿度がバカみたいに高かった。
乱れた髪を直そうとしたら、血で固まって上手くいかなかった。
大学生の頃は講義そっちのけで読書に耽るほどだったのに、社会人になってからは多忙を言い訳にページを開くことがなくなった。独り暮らしを始める前は古本屋が近くにあると喜んだもんだが、結局通ったのは研修中だけだった。
自動ドアを潜る。
店内は明るく、クーラーが効きすぎなくらい寒かった。古書の香りが鼻孔をくすぐる。
脇目もふらずレジに向かい、本をカウンターに乗せたが、誰も出てこなかった。
「すみません」
久しぶりに喉を震わせた。
「あ、すぐにいきます」
奥から若い男性店員がいそいそと出てきた。
「売りに来たんですけど」
「ああ、ありがとうございます。えーと、七点ですね。査定が終わりましたら声かけますので、店内をご覧になってお待ちください」
定型文のようにすらすらとそれだけ告げて、店員は番号札を差し出した。
6だった。
ろくでもない人生だったのに、ここに来て6が来た。なんて、だじゃれを思いつき、ニヤけた俺を怪訝そうに店員がみた。
店内を見ろと言われても欲しいものも特にないし、時間を潰せるような本も思い付かない。
どうしようかと考えていたとき、絵本コーナーが視界に引っ掛かった。
背伸びしないで精神年齢にあった暇潰しを行うことにしよう。
文字のない絵本を広げる。
画集を眺めるに等しい行為だが、ストーリーはある。脳に余計な情報が入らないので想像力がかきたてられた。移民が新天地で生きていく話だ。
背表紙を片手で持ち、ページをめくっていると、目線と絵本との間に入るように黒髪がひょいと現れた。
「……」
髪の長い女の子だった。
背が低く、俺の肩ほどにも届かない。少女が俺が広げる絵本を覗きこむよう眺めているのだ。そこまで幼いようには見えないが、とまれかくまれ邪魔だった。
「おい」
小さく声をかけると、少女の肩がびくりと震えた。
「……」
無言のまま彼女は振り向いた。
至近距離で目が合う。
白い肌に綺麗な顔立ちをしていた。
「……」
彼女は口を閉ざしたまま鳩が豆鉄砲食らったみたいに俺を見つめている。ボタンのような瞳はガラス玉のように澄んでいた。
俺が学生の頃はニキビに悩まされたものだが、彼女の肌にはおよそ吹き出物の類いはなかった。
「聞こえなかったのか?」
耳が悪いのかと思ったが、最初の声かけには反応したので、シカトしているだけなのだろう。
「邪魔だ」
端的に要件だけを告げて、彼女の視界を遮るように本を上げる。
茶色い背表紙が目元を覆い隠す。
「見えているんですか」
少女が口を開いた。
本を下げて、再び少女と向き合う。
「なにが?」
「……」
変な女の子だ。
夏なのに、長袖のシャツを着ている。日焼け防止のためだろうか。
「番号札6番でお待ちのお客様ー、査定が終わりましたのでカウンターまでお越し下さい」
時間潰しも終わりを迎えたみたいだ。
本を少女に差し出す。
「……」
彼女はマネキンのように動かずジッとしている。
「いらないの?」
もう一度本を差し出すが、無反応だ。
「6番でお待ちのお客様ー!」
痺れを切らした店員が苛立ちを声に滲ませる。
受け取ってもらえそうに無かったので、面陳に本を戻してレジに急いだ。
文庫本7冊で210円になった。
一冊30円の買い取り価格だ。古くて日焼けしている本もあったので、わりかし高値になった方かも知れないが、中身の面白さと値段は比例しないことを改めて知った。
店から外に出ようとしたとき、ちょうど夕立が町を襲っていた。遠くで雷鳴が響き、大粒の雨がすごい勢いで地面に降り注いでいる。
スコールだ。行き交う人々は悲鳴をあげ、庇を目指して走っている。
傘はないが、運はあるみたいだ。きびすを返し、雨宿りに興じることにした。暇潰しに古本屋はもってこいだ。どうせすぐにやむだろう。
絵本コーナーに戻ると先程の少女が所在なげに俺を見ていた。
俺が読んでいた本を開くことはしていない。
少女の視線を感じながら、再度本を手に取る。
「雨……」
「……え」
思わず呟いた独り言に少女が反応した。
「夕立がすごいから傘無いならもう少しここにいた方がいいぞ」
「……」
少女から、それ以上の反応は引き出すことはできなかった。少しだけむなしくなって、本に視線を落とす。数分で読み終わり、顔をあげたが、少女の姿はどこにもなかった。




