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夜明け前


 全身の痛みで目を覚ました。

 生きていた。じゃなきゃ体が痛いはずがないからだ。

 土と血の臭い。

「っうう」

 地面に手をついて体を起き上がらせると、全身に激痛が走った。

 死ねたと思ったのに。

 逝けたと思ったのに。

 どうやら、失敗したらしいが、二階からノーガードで落ちて、無傷ですむはずがない。

「痛ぇ……」

 首に手を当てると、麻縄が現世に縛り付ける首輪のようについていた。上を見上げる。

 もう一端がぶらんとベランダの手すりに垂れ下がっていた。星空の下で垂れ下がるそれはさながら蜘蛛の糸だった。

 千切れたのか。

 予想外だ。体重六十キロを支えられないなんて。

 まあ、いい。

「もう一度、だ」

 幸いにして誰にも見られていない。俺はふらつきながら、立ち上がり、首についた麻縄を外した。

 幸い骨は折れていないようだ。

 今度はきちんと逝けるように、ロープを二重にしよう。

 トライアンドエラー、時間はいくらである。

 しかし、ちぎれるなんて、運がないな。

 麻縄を手で巻き取りながら、自室を目指して歩き出す。

「げっほ、げほ」

 咳き込んでしまった。

「はぁ」

 大丈夫、まだ動ける。致命的な未遂じゃない。

 まだ。


 縄の端を見たとき、俺は一つの疑問にとらわれた。

 縄の端は綺麗だった。

 千切れたのならば、繊維が出るもんじゃないだろうか。これじゃ、まるで刃物の切り口みたいになっている。

「まさか……」

 切れ込みが入れられていたのだろう。

 だれが?

 決まっている。

「いつの間に、こんな細工を……」

 この前の晩、俺が風呂に入っているときだろうか。なんにせよ、妨害されたのだ。

 部屋に戻り、短くなった縄で再び自殺を試みることにした。

 運命は変えられないというのなら、変えられる世界へ旅立つことにしよう。

 今度は失敗しないように。

 再び覚悟を決めたとき、机に起きっぱなしの携帯電話が着信音を響かせた。


 ピリリリリリリ、と聞いたことのない着信音だ。人の不安を呼び覚ます目覚まし時計にも似ていた。

 通常ならばありえない。

 俺の携帯の契約は先月できれ、いまはネットに繋がらないオモチャのはずだ。着信があるはすがない。

 冷や汗が吹き出た。

 携帯を持ち、震える指で操作する。

「ん?」

 アラームだった。

 中途半端にかけられた目覚まし時計、俺はこんな無意味なセットはしないはずだが、と思いながら、けたたましいベル音をオフにする。

「……人間失格?」

 アラームのタイトルを思わず読み上げてしまった。


 謎のベル音に急かされるように、俺は本棚の人間失格を手に取った。

 本を開く。

 はらり、と折り畳められたわら半紙が地面に落ちた。

 それは手紙だった。短い文面で構成されたツバキの遺書だった。



拝啓


鳩崎様


 懺悔します。

 この手紙を読んでいるということは私は成功しあなたは失敗したということでしょう。ごめんなさい。

 もしかしたら気付いておられるかも知れませんが、私は見届け人ではありません。あなたの魂を送り届けることで転生が約束されたただの死神です。

 私の仕事放棄で、あなたはチャンスを手に入れました。生きるチャンスです。

 誰かのためじゃなく、今度は自分のために生きてください。

 

 動物園、楽しかったです。

 ありがとうございました。


              椿 雨音


 流麗で物悲しい筆致をしていた。

 そんな短い言葉に心揺さぶられるほど、俺は陳腐な人生を過ごしてきたわけじゃない、はずなのに、涙が溢れて止まらなかった。

 全身の力が抜け、俺の手からわら半紙が滑り落ちる。

「うぐっ、ぐっ」

 膝から崩れ落ち、項垂れる。

 首吊った時に、体液が外に出ようとした、その後遺症だ。

 涙は止まらない。

 なんで流れているのかわからなかった。

 悔しくも、楽しくも、寂しくも、悲しくも、嬉しくもないのに、両方の瞳からボロボロボロボロ涙が出るのだ。

 なんでなのだろう。

 震えも止まらない。鼻水もだ。季節外れの花粉症だろうか。

 床に崩れて涙が収まるのを待っていたら、俺はいつの間にか寝てしまっていた。



 瞼を貫く朝の日差しで目が覚めた。

 開け放たれた窓から消え行く夜の風が室内に優しく吹き込み、カーテンがふわりと浮き上がる。

 美しい光景だった。

 まるで、天国のような。

 その光景に浅くため息をついて、だらしがないことに、いつかはどうせ死ぬのだから、今はただ生きてみようと思った。



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