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深紅のトラブル


 つんざくようなブレーキ音のあとに、耳に残ったのは轟音だった。

 俺は生きていた。

 青いインプレッサに乗っている若い男性は自動車業界で働いているらしく、その自慢の運転テクニックと鮮やかなハンドルさばきで、誰も傷つけることなく、車を脇道に停車させた。

 母親は俺とドライバーに泣きながら謝った。子どもはというと、親心を知らず、道路から立ち込めるゴムの焦げた臭いに「くさいくさい」とはしゃいでいるだけだった。

 結果だけ見れば、余計なことをしたにすぎない。

 俺が庇わなくても助かったし、突き飛ばしたことにより、膝小僧を擦りむくこともなかった。

 ドライバーの男性と別れたあと母親は俺のほうを再び向いて、深々と頭を下げた。

「ほんとうになんとお礼を言ったらいいか……」

「自分は大丈夫です。それよりお子さまが怪我をされてしまって」

「ああ、申し訳ありません。この子は昔から落ち着きがなくて……。大丈夫です。どのみち病院に行こうと思ってましたから」

「病院ですか?」

「上の子が入院してるんです。お見舞いに行く途中でして。そうだ。よろしければ、一緒に来てくださりませんか」

 思慮外の提案に思わず驚いてしまった。

「え、なんでですか」

「事故の時って症状が遅れてでるんです。いまは大丈夫でも、しばらくたってむち打ちがわかったりするんですよ。早い段階でお医者様に診てもらうのが一番です。もちろん、代金はお支払します」

「あ、いや、自分は怪我してませんよ。治療なんて必要ありません」

「念のため、念のためでいいんです」

 押しの強い瞳をしている。年齢が読めないが若さを感じた、とてもじゃないが二児の母とは思えない。

「入院している娘も小さなことが大事になったんです。もっと早くに気付けていればと後悔しても遅いんです」

「そう、なんですか」

「私はあの子になにもしてやれません。もう動物園にも遊園地にも連れていけないんです」

「退院してから行けばいいじゃないですか」

「……」

 俺の言葉に返答することなく、言葉に窮した。どうやら地雷を踏んだらしい。昔から、余計な一言が多いのだ。反省しなければならない。 

「わかりました」

 頷いてしまった。

「ひとまず、念のため、医者に診てもらいます」

「ああ、よかった! それではいきましょう。みっちゃん。行くわよ、勝手に飛び出しちゃダメよ」

「はぁい」

 舌足らずな返事をしてみっちゃんはお母さんと手を繋いだ。

 気のせいだろうか。

 みっちゃんにはツバキの面影がある。


 そもそもにして怪我なんてしてないので、問診だけで医者との面談は終わった。

 病院の独特の雰囲気が苦手だ。世の中の汚いものを排斥したように清潔な空間に、リノリウムの床が気を滅入らせる。老人会の寄り合いみたいな待合室も嫌だし、消毒薬の匂いも気持ちが悪くなってくる。

 はやく外に出たかったが、好意を蔑ろにする訳にもいかない。

 会社の保険がまだ適用されるので三割負担だが、それでも診療費はかかる。

 断ったのだが、ガンとして俺に財布を開かせなかった。

 異常ありませんでした、という俺の報告に「よかったぁ」と胸を撫で下ろす年齢不詳の奥様は、「念のため症状が現れたらここに連絡してください」と、メモをくれた。「はあ」と頷きながらメモをみる。

『椿』

 名前の下に電話番号が書かれていた。


「つばき……」

「はい?」

「つばき、さんとおっしゃられるんですね」

「はい」

 声が震えていた。

 握ったメモにシワがよった。

 きょとんと俺を見てくる椿さんに、思わず尋ねてしまった。

「入院されている子の、お名前は?」

「え、雨音(あまね)です、けど」

「椿雨音……」

 ジメジメした雨が嫌いだといつか語った。まさかと思うが自分のことを言っていたのだろうか。

 あのとき俺はなんと応えた?

 いや、さすがにそんな偶然があるはずがない。考えすぎだ。不思議な出来事に巻き込まれて脳内がメルヘンに飲み込まれているのだ。

「あの……」

 洋子さんが静かに声をかけてくれた。どうやら不安で震える俺を心配してくれたらしい。

「すみません、少し……少しだけ立ちくらみがして……」

「え、た、大変です! やっぱり事故の影響が」

「そういうのではないんです。もとから貧血ぎみで」

 わざとらしく手を額にあてて場をごまかす。

「それじゃ自分は、これで……」

 俺はふらつきながら病院をあとにした。

「ばいばーい」

 はつらつとみっちゃんに手を降られる。

 お願いして、椿雨音の見舞いに同行したいのが本音だが、赤の他人がいきなり申し出て、易々と面会できるはずがないし、会ったとして何を話せばいいのか検討がつかないので、選択は間違ってないと思いたい。

 涼しい病院から出て、七月の熱気を全身に浴びたとき、あまりの暑さに本当に立ちくらみがした。



 思考が上手く回らなかった。

 ふらつきながら、歩き続ける。

 病院の冷房で冷やされた血流が夏の熱気に沸騰させられそうだった。


 朦朧とする意識が視界のすみに捕らえた人影で一気に掬い上げられる。



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