コアラの眉毛を歌う世界
駅から動物園まではすぐだ。
郊外なので自然も豊かになり、激しさをましたセミの鳴き声に鼓膜が破られるかと思った。
「お二人分、ですか?」
「二人分です」
「お連れの方があとから来られるということでしょうか?」
「違います。二人分で通してください」
「はぁ」
窓口で大人二枚の入場券を購入し、園内に入る。チケットもぎりのお姉さんの懐疑的な視線が痛かった。
「なんで、私の分まで支払うんです」
「寂れ行く動物園にお金を落としてあげてるだけだ」
くすり、と少女は笑った。案外彼女は笑い上戸らしい。
「それでどこに行きたいんだ。なんの動物が見たいんだ?」
「コアラ」
「じゃあ、行こう」
園内マップを広げてコアラを目指す。
「なんでコアラを見たいんだ?」
「可愛いから」
「可愛い、か? あれ」
「可愛いじゃないですか。それに眉毛があるか、知りたくて
「眉毛?」
少女は薄く微笑むだけだった。
コアラは寝ていた。客が来ているのに仕事をしないで幸せそうにユーカリにしがみついている。腹が立った。
その事を彼女に言うと、「コアラの睡眠時間は22時間ですから」と教えてくれた。
「寝過ぎだろ」
「ユーカリの葉は青酸カリ系の毒なんです。一説によると、解毒にエネルギーを消費するので睡眠時間が長いそうですよ」
「別のもん食えばいいのに」
「夜行性なのでちゃんと食べられるのがユーカリだけだったらしいです」
「夜行性やめればいいじゃん」
「遺伝子に刻まれた習慣は直せませんよ」
「ふぅん」
コアラの餌であるユーカリは日本に自生していないので輸入に莫大な費用がかかるらしい。俺よりよっぽどいいものを食べている。たとえ毒でも。
柵にもたれかかりながらコアラを眺めていると、日本は平和なんだなと改めて思った。
どこか遠くの国では飢餓や紛争で命を落とす人間がいて、その一方でコアラを見て生欠伸を噛み殺すニートがいる。
「お前は自殺はやめた方がいいと言ったが、ここで俺が自殺を止めたら、死ななくなって輪廻から外れてしまうんじゃないのか?」
コアラの背中を眺めながらなんとなしに聞いてみた。
平和を象徴するかのような背中で苛立ったのかもしれない。
いや、少女がおかしな事を言うから、眉唾な話を思い出したのだ。
自殺遺伝子というものがあるらしい。いわく、死にたがりは遺伝していくのだと。
「俺の自殺が確定してるからこそ、ツバキは来世に期待できるんだろ?」
「……そうですね」
悲しそうに少女は呟いた。コアラに眉毛があるかはよくわからなかったが、彼女は満足したらしく、檻から離れて次にライオンを見たがった。
平日の昼間からブラブラブラブラ酔っぱらいのように動物園を歩き回る俺は客観視してみればただの不審者だった。
とはいえ、女の子とデートしているのだ。この優越感が伝わるだろうか。
それからたくさんの動物を見た、
ライオン、キリン、アルパカにゾウ。
幼いころは臭いが嫌いだったが、大人になって来てみるとさほど気にならなかった。鈍感になったということだろうか。
「疲れましたね」
空は青かった。
園内のベンチに腰掛ける。年を取って疲れやすくなった気がする。
「どうでした?」
「久しぶりに来ると楽しいな」
そよ風が吹く。子供の声と飼育されている鳥の声が混じりあった。
「ツバキはどうだ?」
「楽しいですよ。もちろん」
純粋な笑みを少女は浮かべた。あまりにも眩し過ぎて、目をそらしてしまう。
フラミンゴと目があった。
「なあ、ふと思ったんだが、動物園の動物たちは幸せだと思うか?」
「難しいですね」
目を細めて彼女は考え込むように顎に手をやった。
「弱肉強食はありませんし、餌も与えられますから、不幸せではないと思いますが、……自由ではないぶん幸福とも言い切れませんね。ハレさんはどう思うんですか?」
「幸せだと思うよ」
「言い切りましたね。なんでですか?」
「自由なんて言葉、飼育されてる限りは知らないからな。サバンナを知ってるやつはわからないけど、比較対象がない限り自分を不幸なんて思うわけないだろ」
立ち上がる。
「そろそろ行こうか」
出口を目指して歩き出す。
「この後は、どうするつもりですか?」
「ツバキの行きたいところに行く」
「私には……そんなところありません」
「さっきたくさんあげてたじゃん」
「あれは全部冗談です。動物園に行ければ私は満足なんですよ」
「そうか。残念だな」
次はどこにいこうかな、なんて考えている自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。
「ありがとうございました。わたし、本当に動物園に来たかったんです。唯一の楽しい思い出だから」
園内から出て、開口一番にツバキは言った。
「そうか、それはよかった」
「それでは家に帰りましょうか」
無理やり自分の気持ちを圧し殺すようなそんな声だった。
「生きることが楽しいと思えるのなら、本心を聞くべきです。本当に死にたいと思っているのか考えてください」
「まあ。そうだよな」
「余生を充実させてください」
そこから家に帰るまではずっと無言だった。




