【七】
【七】
シーリゾート・ロイヤル。地上二〇〇メートルの巨大な高級ホテル。その最上階にあるスイートルームにアリーシアは宿泊している。
客室面積三〇〇平方メートルの面積には、海を一望できる広いダイニングルームがあり、そのダイニングには最高級のソファやテーブル以外にも、高級グランドピアノが置かれている。広いダイニング以外にもキングサイズベッドが置かれたメインベッドルームに、VIP御用達のスイートルームらしく、VIPの付き人が使用するためのサブルームも備えている。
そんな超高級スイートルームに備わった会議席で、アリーシアは両手を高価なテーブルに打ち付けて不満を露わにした。
「なんで帰らなきゃいけないのよっ!」
「アリーシア様、日本側にステイムダイトの存在が漏れました。ステイムダイトを狙う者が日本警察の尋問を受けたようです」
「……だからって、なんで私が!」
「アリーシア様、もしアリーシア様が先日のように誘拐されてしまい、アリーシア様と引き替えにステイムダイトを要求されたら、我々は迷わずステイムダイトを差し出します。ですが、その後、ステイムダイトを手に入れた者達が、ステイムダイトをどんな事に利用するか分かりますか? 確実に、世界中で戦争が起きます。そして、我々が差し出したステイムダイトを利用した兵器が、沢山の人々の命を奪ってしまうのです。それは、アリーシア様自身も望まれないでしょう」
アリーシアの護衛に付いている黒人男性の言葉にアリーシアは口ごもる。
アリーシア自身が一番分かっているのだ。ステイムダイトを軍事利用しようとしている国や組織にステイムダイトが渡れば、途方もない人の命が犠牲になる。完全ステルスの弾道ミサイルは感知も迎撃もほぼ不可能。そんな物を世界にバラ撒くような事は、あってはならない。
でも、アリーシアはこのまま帰りたくはなかった。恋するブルーカイトにもう一度会いたい。そう思う気持ちは、もちろんアリーシアの心の中にはあった。でも、最初にアリーシアの頭に浮かんだのは、空気の読めない変わり者の友人の顔だった。
「海斗と、せっかく友達になれたのに……」
「アリーシア様、何万人もの命と天秤に掛けられるものはありません。アリカロ王国の王女として生まれた時より、アリーシア様には王族としての責任があります。民衆を守る事、それは我が国の民衆だけではございません」
「すぐに、帰らなくてはいけないの?」
「アリーシア様!」
なおも帰国を渋るアリーシアに、今度は黒人男性が語意を強める。その黒人男性を隣に座って居た壮年の白人男性が宥める。
「落ち着け。アリーシア様、我々はアリーシア様の意向に応えたいと思いました。ですので、今まで出来るだけそれに添える努力をしてきたつもりです。ですが、それももう限界に近付きました。アリーシア様にこの日本でご友人が出来たと喜んでいらした事ももちろん分かっています。しかし、このまま帰国を遅らせ、もしアリーシア様が攫われ、もしステイムダイトが悪い者の手に渡ってしまったら、アリーシア様のご友人がステイムダイトを使用した兵器の犠牲になってしまうかもしれません」
「それは……」
壮年の白人男性から語り掛けられた言葉で、アリーシアは血の気が引く。自分のワガママをこのまま突き通せば海斗が兵器の犠牲になる。自分のワガママのせいで命を落としてしまうかもしれない。初めて出来た友人を失うかもしれない恐怖。それは、アリーシアにとって何よりも恐ろしい事だった。
「……お願い、最後に一つだけ」
「……分かりました。私達に出来る事なら」
深く頷いた白人男性に、アリーシアは願いを口にした。
「海斗に、海斗に会わせて。そして、少しだけでいいから話をさせてほしいの」
アリーシアは、最後の願いとしてブルーカイトと会うことを望む事は出来た。ブルーカイトと自分から会い、助けてくれた事への感謝と好意を伝える事が出来る最後の機会でもあった。だが、アリーシアは海斗と会うことを望んだ。日本で出来た、初めての友達に会う事を。
警察学校の宿舎で就寝していた海斗は、突然、緊急回線で叩き起こされた。そして、アリカロ王国の王女アリーシアが青野海斗に会いたがっていると、TKTの隊長から伝えられた。
始め、アリカロ王国に帰る前にアリーシアが会いたいと言ってると聞いた時、アリーシアはブルーカイトと会いたがっているのだろうと海斗は思った。ブルーカイトを本気で好きになってしまったと告白をされていたし、アリカロ王国へ帰国するとしたら、ブルーカイトと会える最後の機会は今回しかない。しかし、アリーシアが会いたいと指名したのはブルーカイトではなく青野海斗だった。それが海斗にとっては意外だった。
海辺にある高級リゾートホテル。そのホテルを見上げ、ホテルのエントランスへ向かって歩き出す。
ジャケットの下に隠したハンドガンを重みで確認しホテルの中に入ると、そのホテルの雰囲気が異様である事を察し、瞬時に大理石の柱の陰に隠れる。
高級リゾートホテルのエントランスなのに宿泊客はおろかホテルの従業員も見えない。受付カウンターにも職員は誰も待機してはいない。この状況は明らかに異様だ。
「隊長、シーリゾート・ロイヤルに到着しましたが、妙です。客もホテルの従業員も見えません」
ジャケットの下からゆっくりとハンドガンを引き抜き、周囲を警戒しながら両手で握る。
『シークワン、すぐに応援を向かわせる。無理はするな』
ハンドガンを構えたまま、再び柱の陰からエントランスの様子を確認する。
海斗はホテルに何者かが襲撃してきた事を考えた。そして、従業員や宿泊客は一箇所に集められている可能性が高いと。
シーリゾート・ロイヤルの従業員と宿泊客を少なく見積もっても、このホテルに居る一般人は一〇〇名を越えている。その一〇〇名はホテルの一箇所に集められていて、それだけの人数を集めるなら、襲撃者達が十名弱の複数であるというの予測を立てた。
現時点で、ホテルが何者かに襲撃されたという通報は入っていない。という事は、一般人は一箇所に集められて監視され、警備室は既に制圧されている。そう考えた海斗は、まずホテル内の状況を確認するために警備室へ向う。
受付カウンターにあった館内図で警備室の場所を確認する。
「イベント用大ホール……人質が集められているとしたら、ここか」
館内図にはホテルの一階奥に大ホールがあると書かれていた。しかし、まず先に館内の状況を把握する必要がある。
白い壁紙にベージュの絨毯。そんな清潔感があり、不気味な静寂に包まれたホテルの廊下を海斗は進む。姿勢を低くし、曲がり角では耳を済ませて足音が聞こえないか警戒する。
『シークワン、後二分でSATが現場に到着する。今の状況はどうだ?』
「警備室奪還に向かっています」
『了解、警備室を奪還後、その場をSATに引き継げ。そして、お前は最上階に向かうんだ。向こうの警備と連絡が取れないらしい。状況は良くない』
「了解」
通信を終えて立ち止まると、白い扉が見える。防犯のために警備室とは明示されていないが、館内図で確認した警備室のある場所。
扉の脇に立ち、壁に背中をつけて中の様子を耳で窺う。メカニックが作ったヘルメットがあれば中の様子も手に取るように分かるが、ブルーカイトではなく青野海斗として来てる以上、フル装備で来るわけにはいかなかった。
扉越しに二人分の話し声が聞こえる。そのうちの一人の声が段々と近付いてくる。
「迎えのヘリが来るまで一〇分か。それまで暇だな」
扉を開けて出てきた白人男性は、エントランスの方向へ歩いていく。それを、開いた扉の陰から見ていた海斗は、滑り込むように警備室の中に侵入した。
幾台も並ぶモニターを眺める男の背後に回る。そして、ハンドガンの銃口を向け静かな声を掛けた。
「両手を挙げて頭の後ろで組め」
一瞬、ピクリと体を動かした男は、両腕を挙げて頭の後ろで組む。
海斗は男の装備一式を手早く奪い取り、ズボンのベルトガイドに通してあった結束バンドで男の腕と足を拘束する。
「お前、何者だ」
「それはこっちの台詞だ」
男を拘束し終えると、海斗はモニターを見ながら無線へ声を掛ける。
「警備室制圧完了。人質はイベント用大ホールに集められています。一人巡回に出た者が居るのですぐ拘束に――」
『その必要はない。ついさっきSATが拘束した』
「了解」
『シークワン、装備を三階のテラスへ投下させる。SATに遭遇せずに回収しろ』
「了解。隊長、八分後に襲撃者逃走用のヘリが到着するようです」
『了解。空への警戒も通達しよう』
素早く警備室からは離れ、後ろから絨毯の上を走る複数の足音を聞きながら、海斗は三階を目指した。
三階にあるレストランの屋外テラスに黒いバッグが投下されているのを発見し、すぐに海斗は中に入った装備を着用する。
一分も掛からず装備を終えた海斗は、最上階へ向かうためにエレベーターへ向う。
ヘリコプターが到着するまであと五分を切っている。襲撃者達がそのヘリコプターで逃走するのは明白で、もちろん一緒にアリーシアを連れて行くのも間違いない。
海斗はヘリコプターだけで逃走する気だとは思っておらず、何処か別の場所に移動してそこから逃走すると考えた。
襲撃者達が外国人である事を考えれば、国外逃亡を画策していると予想出来る。そうなると、陸路はまずあり得ない。残るは空路か海路の二つになる。
『シークワン、良くない情報だ』
エレベーターに乗り込んでパネルを操作していた海斗の耳に、隊長の重々しい声が聞こえる。
『今通報が入った。宮崎空港で離陸前の旅客機がジャックされた』
「逃走経路は、空路ですか」
アリカロ王国の王女アリーシアが宿泊するホテルへの襲撃。それと同時刻に、今度は空港で離陸前の旅客機をジャック。誰が聞いても、二つの事件は無関係ではない事は明白だった。
襲撃者達は、ホテルを襲撃してアリーシアを確保し、同時刻に空港で旅客機をジャック。その旅客機を使って国外へ逃げる気でいるのだ。
エレベーターが最上階に止まり、自動扉が横に開く。扉が開いた瞬間、海斗は横へ飛び避けた。
軽い音を立てて刺股の先がエレベーターの床を打つ。完全にエレベーターの扉が開くと、海斗は外に飛び出して、刺股を持った男の頭部を狙った蹴りを繰り出す。しかし刺股で受けられて防がれる。
「フンッ!」
横薙ぎに振られた刺股を地面に伏せてかわし、腕の力を使って跳ね起きると、警備室で奪った特殊警棒を右手で降り下ろし、男のふくらはぎを打つ。ふくらはぎを打たれて重心が落ちた男に、海斗は振り下ろした右手を折りたたみ、肘を振り上げて男の顎を殴打する。
ボクシングのアッパーを食らったかのように、顎を上げて後ろへ倒れ込んだ男は、その場で気絶し動かなくなった。
海斗は休む間もなくフロアの廊下を走る。そして、扉が開け放たれている部屋を見付けた。
ハンドガンを構え、慎重に中へ足を踏み入れていく。明かりは点いておらず、外から差し込む月明かりだけの薄暗い部屋。椅子やテーブルはひっくり返り、部屋で揉め事が起こった事は見てとれる。
「ウッ……」
右側から聞こえたその声に、海斗はすぐさま反応して銃口を向ける。海斗の視線の先にはグランドピアノがあり、その脚にもたれ掛かるように、壮年の白人男性が倒れていた。
アリーシアの護衛指揮を務めていた男だ。
「何者だ」
「アリーシア、様を……」
「アリカロ王国の王女の関係者か?」
周囲には同じ様に倒れている五名の外国人が居る。その状況を見てすぐに無線で連絡を入れる。
「最上階に負傷者六名。至急手当てを」
応急処置をしようとしゃがんだ海斗の腕を掴み、壮年の白人男性が首を横に振る。
「アリーシア様が連れ去られた。我が国に裏切り者が居た……。アリーシア様を……アリーシア様を助けてくれ……」
彼は、正体も分からない海斗にすがって言った。自分のよりもアリーシアを助けろと。
海斗はハンドガンを仕舞い、自分の腕を掴んだ男性の手首を掴む。
「了解した。必ず救出する」
「頼む……」
ゆっくりと白人男性の腕を外し、部屋から出て屋上へ通じる階段を駆け上がった。
屋上と屋内を隔てる扉を勢い良く開け、正面にハンドガンを構える。そこには、海斗が見覚えのある顔の白人男性と、海斗を襲撃してきた黒服が一人。そして、地面に座らされて拘束されるアリーシアが居た。
「チッ、全く下の奴らは何してやがる」
海斗を瞳に捉え悪態をついたのは、海斗を学校で不審者だと睨んだ、アリーシアの護衛二人のうちの一人だった。下の階で負傷した白人男性が言っていた裏切り者は彼だったのだ。
「すぐに彼女を開放して大人しく投降しろ」
「日本のスーパーヒーローさん、それは出来ない注文だな!」
「――ッ!?」
白人男性が構えたアサルトライフルを見て、海斗はとっさに屋内に戻って壁の陰に身を隠す。断続的に鳴り響く銃声とともに、開け放たれた出入り口を無数の銃弾が通り過ぎる。
「ガハハハハハッ! どうした! そのまま隠れてるつもりか!」
海斗は銃声が響く中、意を決して外に飛び出した。だが、海斗が飛び出したタイミングとほぼ同時に銃声が途切れる。そして、海斗の目にはマガジンリロードを行う白人男性が見えていた。
「なっ!?」
二発の銃声の後、白人男性が左手に持っていた予備のマガジンが弾け飛び、右手に持っていたアサルトライフルも地面に落ちていた。
海斗は、白人男性が持っていたアサルトライフルの種類とマガジンタイプを確認し、そのアサルトライフルは装弾数が三〇発と判断した。更に隠れながら銃声の数を数え、三〇発目の銃声が鳴った直後に飛び出した。そして、海斗は右手に構えたハンドガンで、白人男性が持っていたマガジンとアサルトライフルを撃ち落としたのだ。
「クッ……」
「無駄だ」
アサルトライフルを拾おうと、白人男性が身を屈めた瞬間に三発目を発砲し、その弾丸で弾かれたアサルトライフルは男性から遠ざかる。
「タイムオーバーだな」
白人男性は後ろから聞こえるバリバリと空気を切り裂く音を聞き、ニヤリと笑う。海斗の目には、ホテルへ近付いてくるヘリコプターの機影が見えていた。そして、そこにはこちらへスナイパーライフルを構えている。
ヘリコプターからの狙撃は、不安定かつメインローターから起こるダウンウォッシュという下向きの気流の影響を受けて困難である。だが、それは長距離狙撃に言える事で、今の海斗とヘリコプターとの距離ではその影響もほとんど無いと言える。
ヘリコプターが屋上に着陸すると、海斗は視線をアリーシアに向ける。アリーシアは両手を後ろに縛られ、体を小刻みに震わせている。そして、そのアリーシアの後ろに立つ黒服に視線を向けた。
「助けて……カイト……」
ヘルメットによって大きくされたその声。間違いなくアリーシアの声だった。海斗は、その声を聞いてすぐに行動を起こした。
ヘリコプターへ乗り込む黒服とアリーシア。その後に白人男性が乗込んだのを見て、左手で抜いたワイヤーガンを撃った。
ワイヤーガンから発射された鏃は、ヘリコプターのスキッドに命中しガッチリと食い込む。そして、海斗は地面に伏せながら、一気にワイヤーを巻き取る。
「撃ち殺せ!」
白人男性の叫びとともに、狙撃手がスナイパーライフルの引き金を引く。スナイパーライフルの銃口から発射された高速のライフル弾は、紙一重逸れて、海斗の左頬の地面に弾痕を残す。
地面に体を擦りながら高速で接近する海斗に構わずヘリコプターは離陸を始める。
ヘリコプターに乗っていた黒服が、ハンドガンを握って構え、海斗がスキッドに到達する直前、海斗とスキッドを繋ぐワイヤーを撃ち抜いた。
ワイヤーを切られた海斗は、ワイヤーを巻き取っていた勢いのまま、体を屋上の外に投げ出す。
ふわりと宙に浮かぶ体。体の周りを駆け抜ける突風。そして、その突風の先に見える、ヘリコプターの腹。
「逃がすかッ!」
空中で海斗はもう一丁、予備のワイヤーガンを引き抜いて素早く引き金を引く。そして、そのワイヤーガンから発射されたワイヤーは、遠ざかっていくヘリコプターの腹にギリギリ命中した。
「クソッ! もう一度ワイヤーを!」
そう叫んで身を乗り出そうとした白人男性は、機外で吹く突風にあおられてたたらを踏む。そして、眼下遥か下に見えるアスファルトの地面を見て冷や汗を流す。
「どうせ長くは保たないだろ」
白人男性はヘリコプターの扉を閉めてそう吐き捨てた。
ヘリコプターの下で、ワイヤー一本で宙吊りにされている海斗は、右手に凄まじい重みが掛かるのを堪えながら、必死にワイヤーガンのグリップを握る。
メカニックが作ったワイヤーガンは人一人の体重くらいなら難なく支えられる強度がある。だから、ワイヤーが切れたり、ワイヤーガン自体が壊れて落下したりする事はない。問題は、この状況で海斗の力が保つかどうかだ。
上空約一〇〇〇メートルを推定時速一五〇キロメートルで飛行するヘリコプター。更に飛行時の突風で常に体は大きく揺れ、既に海斗は前後左右の感覚が分からなくなっている。
そんな状況で、海斗はグリップを右手で握りながら、揺れる反動を利用し左手でグリップを掴もうとする。左手が何度も空を切り、何度も失敗する。しかし、海斗は諦めなかった。
アリーシアにとって海斗が初めての友達であると同時に、海斗にとってもアリーシアは初めての友達だった。
任務上の付き合いである事は、重々承知の事だった。でも、海斗は心の端で、学校でアリーシアと会うのを楽しみにしていた。
警察学校では、日常的に同級生から疑われ、常に周りから不信感を向けられていた。そんな毎日が続く中で、それが普通だと感覚が麻痺し始め、もう仕方のない事だと諦めていた。
そんな時、アリーシアは海斗に声を掛けてきた。
理由はただ同時期に転入してきたから、それだけの理由でしかないのかもしれない。それでも、アリーシアは海斗を疑う事なく、不信感を抱く事なく接してきた。
人と話す事が不慣れで、無愛想な対応しか出来ない海斗を、見捨てず接し続けてくれた。
そして、帰国前、唯一残された時間を自分のために使おうとしてくれた。
それが、海斗は嬉しかった。
「まだ……礼を言っていない……」
右腕に引き千切れそうな痛みを感じながら、海斗は何度も左手をワイヤーガンのグリップに伸ばす。
「このまま行かせるわけには、いかないッ!」
何十回目かに振り上げた左手が、遂にワイヤーガンのグリップを握る。やっと安定した体に一息吐くと、視線の先に宮崎空港のビルが見えてくる。
「まずい……」
どんどん近付いてくる建物を見て、海斗は慌ててワイヤーを巻き取る。しかし、巻き取るのが遅く、海斗の目の前にはビルのガラス窓があった。
「キャーッ!!」
海斗がガラス窓を突き破ってビル内に落ちると、周囲から悲鳴が上がった。
体を勢い良く床に打ち付け、息が詰まり胸の奥から吐き気が上ってくる。しかし、必死に右手を床について体を持ち上げる。
「行か……せるかッ!」
ふらつく体に鞭を打って走り出し、エスカレーターの手すりを滑り降りる。
「ちょっ――」
そして、手荷物検査の係員の制止を振り切り、滑走路に面したガラス窓へ向かって走る。
「キャーッ!」
走りながらハンドガンを抜いた海斗を見て女性が悲鳴を上げる。しかし、悲鳴を掻き消すほど大きな銃声がビル内に響き、銃弾でヒビの入ったガラス窓へ、海斗は体当りして突き破った。
十メートル弱の高さから外へ落下しながらも、海斗は前周り受け身ですぐに立ち上がり走り出す。
視線の先にはアリーシアを乗せたヘリコプターが着陸するのが見えて、そのヘリコプターから白人男性とアリーシア、そして狙撃手が降りてくるのが見えた。
「待てっ! ――!?」
とっさに横へ飛んで狙撃手の放った銃弾を避ける。近くにあったコンテナを積んだタグ者の陰に隠れて、ヘルメットのマイクの感度を調節する。
「はい、行きます」
海斗はその声を聞いて、銃のグリップを握る手に力を込めた。そして、ホルスターにハンドガンを仕舞い、コンテナの陰から出て歩き出した。
旅客機に乗り込む狙撃手とヘリコプターの操縦者が見え、黒服の一人が海斗に近付いてくるのが見える。
黒服は海斗と一〇メートル程の距離まで近付いた所で、右手を持ち上げてハンドガンを構えた。しかし、海斗はその右手に握られたハンドガンに目を向けながらも歩みを止めなかった。
海斗が黒服の目の前まで来て立ち止まると、海斗の鼻先に黒服が銃口を向ける。海斗はそれを見て黙って立ち止まる。
「大人しく帰って”青野くん”」
その女の子らしい大人めの声に、海斗はフェイスガードを上げながら口を開く。
「銃を降ろせ”宮下”」
海斗にそう言われた黒服は銃を構えたまま、左手で帽子のつばを掴んで取った。
「どうして、追って来ちゃったの?」
帽子を取った梨沙は、困った表情を浮かべて涙声で言った。