一節「兆候と喪失」
私の朝は早い。昔は違ったけども。
起こしてくれるお母さんがいなくなってしまったのだから、これは必然である。最初の頃は苦労したけども。
次に猫の柄をしたカーテンを開け、部屋にお天道様の光を存分に招き入れる。うん、まだ外は青白いけども。
そして大きく体を伸ばす。パキパキと骨が鳴っているけども。
「よし、今日も頑張りますかー」
部屋の扉を開けると、すぐにリビング兼ダイニングに出る。
そしたら次に、向かいの部屋の電気を消しに行く。以前そこは両親の寝室だった部屋である。
でも今は、
「電気付けてないと寝られないとか、あんたはお子様ですかっての」
同居人の女の子が使っている。
いつもはツンツンとしてるくせに、こういった所では可愛げを見せる。
「あ、これがデレなの? そうなの?」
「……煩い」
ありゃ。
「起こしちゃった?」
「うん」
「ごめんね」
「別に」
不機嫌に見えるのは寝起きだからだよね。じゃなかったら、すごくマズいんだけど。どうなのよ、これ。
ともかく、ここは改善案を提示しなければ。
「まだ早いし、二度寝って気持ちいいよ?」
「いい。もう起きる」
いつも通りのボソボソした口調で、感情の起伏がわからない。どうしよう。
「そ、それじゃ朝ごはん作るから、テレビでも見ててよ」
「半熟はやめて」
「わかってるって」
同居人もとい奏は、目玉焼きはしっかり火を通す派である。いつだったか半熟で出した際、奏はそれを口にした瞬間に吐いてしまった。
他にも柔らかい食感――特におかゆのようなビチャビチャとした物が嫌いらしく、献立にはかなり悩まされ続けている。でも、プリンは大丈夫だとかで良く欲しがる。全く以って我儘な子供だよ、本当。
トーストに目玉焼き、それと気持ち程度の生野菜とインスタントの野菜スープ。それらが並んだ木目のテーブルに着いてから、定位置の水色のソファでニュースを眺めている奏に声を掛ける。
でも、ニュースに夢中になっているのか、なかなかソファを立とうとはしない。まさに釘付け状態だ。
「奏も女の子だよね、朝の血液型占いを悔いるように見るなんてさ」
「違う」
ようやく私が腰掛けている向かいの椅子に座った奏は、トーストにマーガリンを塗りながらボソボソと否定してくる。照れてるのかな。
「それじゃ、何を真剣に見てたの?」
「連続猟奇殺人事件」
「ドラマ?」
「違う」
うわ、あの目。
本当に冗談が通じない子なんだから。
「ずいぶんと物騒な名前だけど、それが気になるの?」
「少し」
小さな口でパクパクとトーストをかじりながら、目線はやはりテレビの方へ向いている。
何がそこまで彼女の不動明王的な心を動かしているのだろうか、私も少しだけ気になってきた。
『木曲市で今月の始め頃から起こっている連続猟奇殺人事件の新たな被害者が昨晩、同市の山林で発見されました。被害者男性はこれまでの被害者同様、殺害後に何らかの刃物を用いられて頭部を引き裂かれ、脳を引き出された痕跡が残っており――」
奏ではないけれど、思わず食べた物を戻してしまいそうになった。
「うっわ……なに、この事件」
「多分、魔術師が犯人」
「え、魔術師?」
「うん」
今度は野菜スープの入った器に口を付けながら応えてくる。本当に動じないよ、この子は。
それよりも奏が言ったことが本当であるのなら、他人事のような顔はしていられない。事件のあった山林は恐らく、私の通う高校の近くなのだから。
「その可能はどれくらいある?」
「七割九分一厘」
その言い方はともかく。
「その根拠は?」
「今は話せない」
「どうして?」
「相応しくない」
「何が?」
「食事時に」
成る程、愉快そうな話ではない、と。
リビングの白壁に飾ってあるシンプルな丸時計に目を向かわせて確認。よし、まだ時間は充分にある。
「それじゃ、食べ終わったら聞かせて」
「うん」
言って、その小さな口かい。
今朝の少しだけ豪勢なメニューを平らげるのにあと、どれくらい掛かるんだか。少しだけ不安になってきた。
私は台所で食器を洗いながら、奏はそのままテーブルに着きながら先の話の続きを始めた。ちなみに、遅刻するかどうかはギリギリのライン。
「魔術師として、手っ取り早くその技量を高める方法がある」
「え、さっきの話はっ?」
奏の突飛な切り出しに、思わずお皿を落としそうになっってしまった。
「関連してる」
「あ、そうなの」
口数が少ない上に、そんな回りくどい言い回しをするんじゃないよ、まったく。
話慣れていないせいか、奏の話は時に脈絡が行方不明になる。
「その方法は――他の魔術師の脳を喰らうこと」
今回は奏の、その抑揚のない喋りに救われたかもしれない。
「脳を喰らうってそれ、本当なのっ?」
「ううん」
え、違うの。
またお皿が手から落ちそうになったよ。
「昔は信じられてきた。今は違う」
「それじゃ、事件とは関係ないかもしれないってこと?」
「だから、七割九分一厘」
成る程、それでね。納得はした。
納得はしたけれども、やっぱり引っかかることがひとつ。
「それにしては、可能性が高くない?」
「嫌な感じがするから」
一瞬、奏の声色が微かに強張った気がした。表情の方は相変わらずだけども。
でも何だろう、私もそんな感じがしてきてしまった。
「梓、気を付けて」
「え?」
食器の割れる音が耳に届く。
けれども、それ以上に私の意識は視界の内に収まる奏の方へ集中してしまう。何せ、あの奏が表情を曇らせてるのだから。
小さく、それはとても些細な動きだったけれど。確かに眉と瞼の端が引き下がった。私の目はそれを捉えていたのだ。
「心配、してくれるの?」
「どうして」
「だって奏、いつもツマんなそうにしてるし、私の作る料理には口煩くケチつけるし、それに――」
「時間」
「え、ああっ?」
感動している場合でもあるけど、このままでは無遅刻無欠席の皆勤賞が危ない。
途中だけど後は水洗いだけだし、そのままでいいか。
制服に着替えて、髪型を整えて、元栓の確認をして。
「それじゃ、行ってくるねっ」
「うん」
このまま走って向かえばギリギリ間に合うだろう。
そんな期待を持ちつつ、私は玄関を飛び出した。
◇
学校への道のりは近くも遠くもなく、歩いて通える範囲にある。徒歩二十分だけども。
マンションを出てからすぐに、海沿いに面した道に出る。朝から夕に掛けての車通りの多さにしては不用心なことに、歩道と車道とを隔てるガードレールなどは存在しておらず、小さな事故とかを良く見かけてしまう。
今もまた硬い地面を蹴って進む私の傍を大型のトラックが一台二台と通過しては都度、冷や汗を一滴二滴と。片時の油断も許されない道である。
危なっかしい道をしばらく進むと、今度は左手に見えていた海に背を向けて脇道に逸れる。ここからは何故かガードレールのお供が付く。
この時間には邪魔な装飾物と化す街灯と、送電線を支える石柱とが代わる代わる、ただでさえ狭い道幅を奪ってくるのだが。
しかし私はそれらを次々にすり抜けて行き、その先に待つ十字路へと至る。生憎、対岸への渡来に対するGOサインは赤。焦燥を抱え込んだまま、しばしその場で足踏みを繰り返すことを余儀なくされてしまう。
「ここ長いんだよね……」
対面の古びた木造屋の前を横切る黒い猫ちゃんの優雅さが、今だけは少し恨めしい。
察してか、黒猫ちゃんは尻尾をくねらせながら私の方を見て、それから軒先へ進路を変えて行く。どうにも、挑発されている気がしてならない。
それよりも、と。
「うぅ……あと十分で朝練が始まっちゃうよ」
七時四十分、それが私の所属する「話芸部」の朝練開始時刻。
部員は全員で五人、と私を含めて六人。それでもって、主な活動内容は特に決めてない。方針も、出場予定のコンテストも、今のところは話題にすら上がっていない。
だから「何をする部活なのか」、と尋ねられれば応えようがない。
皆で集まって自然と出た話題について談笑をする。それが今迄の実績で、多分、これからもそれが続いて行くのだと思う。
そんな部活の朝練とはこれ如何に、と私だって最初は部長である一つ上の先輩に尋ねた。それで返ってきた応えが「走る」の一言だったのだ。
何でも、青春を謳歌する為に必要な三原則の一つが「汗」らしい。それ故の朝練だと説明された。
前時代な感が過ぎる考えだとも思ったけども、実施してみるとこれがまた意外。時間が来るいっぱいまで走破した後には清々しい徒労感と、スッキリとした頭と巡り会えるのである。
感動、とまでは至らなかったけども、初めて感じ得た妙な充実感は確かにあった。
それからはこうして、皆勤賞の称号を欲しいままに冠している。
「それも今日まで、か」
ようやく信号機の青い電飾が灯った頃、時計の長身は七へ差し掛かる寸前だった。
ここからの道のりを考えればどんなに精一杯に駆けたところで、待っているのは単なる徒労感だけ。ならば、と。
私は横断歩道の白線を順番に、これまで培ってきた栄光を噛み締めるようにして一本一本、遅速な足取りで踏み進めることにした。左折しようと前へ乗り出す車が見えるけども、今だけは、本当に今だけは許しを頂戴したい。
こっちは学生時分の約一年間という、貴重にして希少な、極限られた時間を対価にして得て来た物を、今まさに失おうとしているのだから。
これくらいの我儘、今頃も家のリビングで踏ん反り返っている同居人に比べれば可愛いもの、だよね。
最後の曲がり角を曲がった先。高校の校舎が見えるよりも先に、裏手に聳える山々の濃緑が視界に映える一本道に出る。
それまでの狭さが疑わしくなるくらいの道幅をしているくせに、家の前の道よりも車通りは少ないときている。
いったいにして、この国の国交相は何を考えているのだろうか。思わずそんな愚痴を漏らしそうになるよ、本当に。
とか言ってても、私はこの道が好きだったりする。
角を出た所から、学校までの中腹に掛けて緩やかな上り坂になっているこの道。そんなこともあって、進んでいくたびに徐々に見えてくる校舎が、まるで山の前から生えてくるようにして見えるのだ。
そろそろ校舎が生えきるな、という付近に差し掛かった時。私の目は校門の前で赤いパトランプを灯している車の姿を映した。